#34
まるで自動人形のようだった老婆は、もっと肉肉しく不気味なものへと、その在り方を変貌させていた。蝿がたかる物体に、ぼくは二回は視線を向ける勇気は、なかった。
「え、なにがぁ?」
その好きだった柔らかい笑顔が、今はとても――
「沙紀ちゃん」
とつぜん潔子ちゃんが、ぼくと鶫の間に割って入り、そして鶫の肩を掴んだ。当然ぼくは意味がわからない。鶫も不思議そうな顔をしている。そんな鶫に潔子ちゃんは、
「ごめんなさい。こんなことになってるだなんて、私、全然知らなかったし、気づけませんでした。許してください」
とつぜん、めいっぱいその小さな体を抱きしめて、
「……辛かったん、ですよね」
鶫の中でなにかが割れるような、音がした気がした。
「…………え」
あとは、一気に崩れた。
「ぅぇえええええええええええええええええええええええッ!!」
まるで叩きつけるようなしゃくり上げと、涙の洪水。人がこれほど大きな声を出せるのかと、これほどの涙を流せるのかと、その驚きでぼくは声も出せずにそれを見守っていた。
ぼくは間違っていたのだと、死ぬほど後悔した。
もうぼくは何もかも、ぜんぜんわからなくなっていた。
終わると思っていた日常。それで恐怖していた鶫との邂逅。だけどぼくより付き合いが短い潔子ちゃんの方が、鶫の実際を理解していた。
ぼくはぼくが考えていたのとは全然違う人間だった。
全然頭よくないし、分別もないし、自分のことばかりで、浅慮な人間だった。わかったのは、それだけだった。
恥ずかしい。
ぼくは自分の部屋のベッドの中で頭から布団を被って、一人悶えていた。もう自分でどう動くべきか、わからなかった。考えたくなかった。もういっそ消えてしまいたかった。
消える前に、鶫に謝りたかった。
――明日、ぼくはどんな顔をして施設に行けばいいんだろう?
眠ろう。眠ってしまえば、せめて精神的にはぼくはこの世界から消えることが出来る。夢の中では存在するが、これ以上の恥を晒さないで済む。だから眠ってしまおう。ぼくは瞼をきつく閉め、布団を頭のてっぺんまで被った。そのまま、微動だにしなかった。
がちゃ、という音がした。
「………………え」
思わずぼくは呟いてしまっていた。
布団をゆっくりと下ろし、上半身を起こす。ドアが開いていた。ぼくの部屋のドアが。そして暗い室内に、廊下の電気が差し込んでいた。その逆行の中、人影がこちらを覗き込んでいた。
「――――圭子さん?」
その人影の口元が笑みの形を作り、
「お客さんが来てますよ、透さん」
居間まで出ると、そこには信じられない来訪者が待っていた。
「…………み、ゆう?」
「はい、私です」
澄んだ瞳と、整いすぎた容姿。あまりに行き過ぎた美は、見る者に苛立ちを生むのだと出会った時に初めて知った。
どうしようもない、欲望に。
「なんで、ここに?」
ぼくは呆然としていた。未由がいる。ぼくの家の、居間に。食卓について、こちらを見つめている。今日は夜色のローブに身を包んでいた。裾は膝丈で、そこから艶かしい真っ白な素足が覗いていた。初めて見た。いつもは靴を、履いているから。
夜にこの子を見るのは、心臓に悪すぎる。
あまりに刺激が、強すぎる。
「……調子悪そうですね」
心配するような声。
「……いや、そうでもない。大丈夫」無理にでも笑顔を作る。「それで未由は、今日はどうしたんだ?」
「…………」
少し、驚いた。
未由が、言いよどんでいる。
「…………今日、来ませんでしたね」
とくん、と胸が脈打った。
――気に、してた。
「あ……うん、その……きょ、今日はちょっと」
「外、出ませんか?」
なんで? という思いがまず去来した。その次に夜に外に出る、ということに対する違和感に近い形容しがたい感覚。そして最後にそれが未由と一緒ということに、激しい動揺が生まれた。
「……その、圭子さん?」
視線を送ると圭子さんは食卓の一番奥でにっこり笑って、
「はい。美味しいお茶とお夜食を作って待ってますね」
夜の、青い街。
昼間の鮮やかな色合いは鳴りを潜め、それはまるでそれ自体が溶け出しているような不気味なものへと変貌していた。直線ばかりの建物の輪郭は暗さのため曖昧になり、さながら何もかもが定まらない夢の中に居るような心地にぼくをさせた。
「初めて出たよ、夜に、外に……」
声さえも冷えたその空気に、吸い込まれるようだ。
「なんか、不気味だね……」
ここはぼくの、知らない世界だった。