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第36話 極限集中


 頭の中を空っぽにする。

 簡単なようで意外と難しいものだ。


 特にこんな化物のような者を目の前にしては恐怖が脳の空いたスペースに入り込む。

 だが、それではダメなんだ。


 俺はもう一度息を吸い目の前でいつもの構えを取るアイナに視線を向ける。


 そこにいつもの優しい笑顔はない。

 水が凍りつくような冷たい視線が俺を射抜いている。


 今日のアイナは今までとは違う。

 手加減抜きの『鮮血』が目の前で俺に先のとがった細剣を向けている。

 

 恐怖しない訳がない。

 

 だがその恐怖を殺す。

 

 頭の中を空っぽにして、その空いた容量全てを知覚処理に回す。

 そうしないと数瞬後には俺の眉間をこの剣が貫く。

 そんな幻視すら見える。



 

 集中する。


 アイナの細い腕。そこから伸びる手。その手に握られた細剣。

 アイナの右太腿。膝。黒鉄の鈍く輝く靴。

 込められる力の動き、筋肉の動き、実際の動き。

 全てを知覚し、生存本能だけで処理する。

 

 ――動いた



 アイナの足首が地面を抉るように沈む。

 それと同期して剣先がぶれる。


 それを感知した瞬間に俺の体は下がる事を選択した。

 

 ねっとりとした空気を押し出すように俺の体はバックステップする。

 それに対してアイナは俊敏な動きで俺のいた空間を細剣の剣先で引っ掻くように切り裂く。


 その直後アイナは振りぬかれた細剣を返し刀のようにもう一度振りぬく。

 それと同時にアイナの足元の地面が抉れる。

 

 サイドステップ。

 体が勝手に反応して次の攻撃を回避する。

 突進と切断。

 そう俺の体は判断した。


 だが、アイナはその場で細剣を返しただけだった。


 フェイントだ。

 俺の体はサイドステップの初動でまだ空中軌道の頂点にすら達していない。

 舌打ちをしたいのを抑えてアイナの動きだけに集中する。


 いつもの構えの位置に剣を戻したアイナと目が合う。

 嗤っている。空中で身動きがとれないノロマな俺を見て嘲笑っている。

 薄いピンクの唇の間から白い歯が見える。

 冷たい冷たい笑みを浮かべながらアイナは次の攻撃へ移る。 


 アイナの両靴が地面を抉った。

 同時にアイナの姿勢が数センチ単位で沈む。

 

 来る。

 必殺の突き。

 確実に仕留めるための準備をした後の確定の一撃。

 俺に避ける術はない。

 着地するよりも先に細剣が俺を貫くだろう。

 

 だが、諦めない。


 アイナが両足で地面を蹴った。

 アイナの本気の一撃。

 通常では知覚すらできないその一撃。だが今は早い突きくらいには見えるようになっている。

 見えるんだ。まだ……終わっていない。


 俺は動きの遅い体でタイミングを見計らう。

 細剣は俺の顔に真っ直ぐに向かってくる。

 手足は空中。

 体勢は変えられない。

 だが。


 俺は細剣が向かってくるのに合わせて顔を振りながら口を小さく開き、思いっきり口を閉じる。

 細剣は俺の予想通りの軌道で迫り、そして俺の口の中に入る直前で停止する。


 歯が大きくかち合う音が鳴る。

 口で止めようとしたのを感づかれた。

 細剣を寸前で止めたアイナは右足を地面に突き刺してそのままの勢いで左足で薙ぎ払う。


 俺の脚が地面に着地するのと同時に俺はアイナの左足と衝突する。

 衝突の寸前で右前脚を俺の体とアイナの足の間に滑り込ませて緩衝材にすることは出来た。

 骨折はするだろうが、内臓を破壊されるよりはましだ。

 俺はそのまま草原を三回転程転がって動きを停止した。


 ――勝負あり。


 

 俺は大きく息を吐いた。

 同時に頭が割れるような痛みに襲われる。

 脳みそを直接ハンマーで殴りつけられるような鈍痛で意識が途切れそうになる。

 

 俺はいつものそれを眉間に力を入れて我慢しながら、他の体の異常を探す。

 右前脚が痛い。だが、幸いにも変な方向に曲がっているわけでもなく、見た目は普通に見える。

 強烈に痛いが折れてはなさそうだ。ヒビは入っているかも知れないが……。寸前でアイナが手加減してくれたのかもしれんな。


 腕を確認していると、頭の痛みがスッと引いていった。

 大丈夫生きている。

 生き延びた……。

 訓練なのにそんな感想を抱かずにはいられなかった。


 そんな俺を心配そうに蹴り飛ばした張本人が覗き込んできた。


 「チロ大丈夫?」

 「大丈夫な訳ねーだろうが」

 

 アイナは先ほどまでの冷酷非道な表情をいつものアイナに戻して心配そうな顔をしている。


 「大丈夫だと思うよ? 振り抜いてないから」

 

 アイナは俺の抗議を無視して手加減したからとのたまった。

 手加減してあれかよ。

 軽く三回転くらいしたような……。


 まあ、腕が変な方向に曲がってないし大丈夫だという事にしておいてやろう。


 俺はゆっくりと立ち上がる。

 右前脚に鋭い痛みが走るが立てない程ではないな。打撲程度なのかもしれんな。


 そもそも、今日の訓練は俺が希望したものだしアイナに文句を言うのは筋違いというもんだろう。

 それに今回の本気に近いアイナを相手にしたことで自身もついた。


 俺はこの莫大な知覚能力を用いて本気のアイナの動きを捉える事に成功した。

 本気のアイナを捉えられる事が出来るのならばスピードだけに極振りした相手でなければ遅れはとらないだろう。

 後は、この速い世界についていける身体能力さえ身に着ければアイナにだっていい勝負が出来るようになるかもしれない。

 どうやってLVを上げるかが問題なのだが……。


 まあそれは直ぐにはどうにもならないし、取り敢えず保留だな。


 俺はアイナに今日の訓練の評価を聞く事にした。


 「どうだった?」

 「凄く良かったわ。危うくLV20代の狼に剣を止められるところだったわ」

 アイナはそう言いながら、快活に笑った。


 「あれは止められると思ったんだがな」

 「そうはいかないわよ。私にだって見えてるわ。でも驚いたわ。チロがここまで成長速度が速いとは思わなかったもの」

 「それはどうも。師匠の教え方がいいからね」

 「そうよね。私が教えてるんだから当然よね」

 そう言って、アイナはもう一度笑った。


 アイナの昔話を聞いてから一ヵ月程の時間が経過したが、なんとか知覚を集中する術を俺は身に着けることが出来たようだ。


 知覚が人間よりも優れているどころか、狼種の中でも知覚に特化している俺は元々習得しやすい技術なのかもしれない。

 初めは、便利センサーくらいにしか思っていなかったが、これは間違いなく武器になる。

 もっと知覚が強化されればさらに世界の速度を遅くすることができるだろう。

 俺の頭の容量が持てばの話だがな。


 この技術をネトゲ風に名前を付けるとしたら種族奥義『極限集中』リキャスト一時間ってところだな。

  

 うむ。悪くないな。

 

 

 俺は強くなっている。

 LVの問題はあれど、猛者との戦闘経験を積めている。

 足手まといにならないくらい強くなるという当初の目的は達成できそうだ。


 それに、リードが言うにはキスカ大森林の受け渡しの準備も整いつつあるらしい。

 それさえ整えば、ペコとロニを迎えに行って一緒に大森林に住むことができる。

 また、家族一緒だ。


 エリスやアイナとは毎日会えなくなってしまうが、たまに近くの村に旅行にでも来てもらえばいい。

 キスカ大森林は守護獣が住まう土地になる。前みたいに襲われる心配もないだろう。

 ペコとロニとエリスとアイナ。おまけでリード。みんな笑顔でまったりとした生活が送れる。そんな幸せな未来が俺を待っている気がしてならない。


 上手く行く。上手くいっている。

 そんな気がする。


 俺はそんな優しい未来を夢想しながら帰路についた。



3章完

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