第89話
勉強を始めてから、しばらく経った頃。
時計を確認した母さんが、いなりへ声をかけた。
「いなりちゃん。そろそろ、お昼ご飯を作りましょうか」
「はい。今行きます!」
いなりは読んでいた教科書を閉じると、すぐに立ち上がった。
「今日は錦糸卵を作るんだよな」
「はい、あるじ」
いなりは少し緊張しながらも、嬉しそうにうなずく。
「楽しみにしてるよ」
「はい。頑張ります!」
いなりは尻尾を元気よく揺らしながら、母さんのいる台所へ向かった。
「まずは手を洗いましょうね」
「はい、母様」
「卵を割ったことはある?」
「ありません」
「それなら、最初は一緒にやってみましょう」
「よろしくお願いします」
台所から、母さんといなりの楽しそうな声が聞こえてくる。
俺がそちらへ目を向けていると、烈も勉強の手を止めた。
「透様。昼飯、うまくできるかな?」
「母さんが一緒にいるから大丈夫だろ」
「いなり様なら、きっとうまくできるぜ!」
烈が自信満々に答える。
「僕も、いなり様なら大丈夫だと思います」
静も静かにうなずいた。
「そうだな」
初めて作る料理が、いきなり完璧にできるとは限らない。
けれど、いなりが俺たちのために作ろうとしてくれている。
それだけで、昼ご飯がいつもより楽しみに思えた。
◇
「みんな、お昼ご飯できたわよ」
「はーい」
母さんの声に返事をして、俺たちは居間のテーブルへ集まった。
さて、いなりの初めての料理は、どんな出来だろう。
もっとも、今日作ったのは錦糸卵だ。
初めてなのだから、あまり期待しすぎるのもよくない。
テーブルの上には、大きな器に盛られたそうめんと、いろいろな薬味が並んでいた。
ネギ。
ショウガ。
刻み海苔。
キュウリ。
そして、錦糸卵。
細く切られた卵は、見た目だけなら十分きれいにできている。
「おお。ちゃんと錦糸卵になってる」
思わず感心してしまった。
けれど、いなりの方を見ると、少し落ち込んだように耳を伏せている。
どうしたのだろう。
母さんを見ると、俺と目を合わせたあと、いなりの方へ視線を動かした。
口には出していないが、目が「褒めてあげなさい」と言っている。
「いなり。卵、おいしそうにできてるじゃん」
「えっと、それは……」
いなりは言いにくそうに視線を落とす。
「食べるの、楽しみだな」
「でも、あるじ。これは……」
「いなりちゃん」
母さんが、いなりの肩へ優しく手を置いた。
「私は少し手伝ったけれど、作ったのはいなりちゃんよ。自信を持って、透に食べてもらいなさい」
「はい、母様」
どうやら、母さんに手伝ってもらったことを気にしていたらしい。
「最初から一人で何でも上手にできる人なんていないよ」
俺は錦糸卵の皿を見る。
「母さんに手伝ってもらったって、こんなにおいしそうにできてるじゃん」
「あるじ……」
「だから、気にしなくていいよ。さあ、食べよう」
「はい」
いなりが、少しだけ笑顔を取り戻した。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきまーす!」
「いただきます」
それぞれの器へそうめんを取り、好きな薬味を乗せていく。
俺は錦糸卵を少し多めに取った。
よく見ると、端の方に少し焦げた部分が混じっている。
けれど、それも初めて作った証拠だろう。
そうめんと一緒に口へ入れる。
卵の甘さと、つゆの味がよく合っていた。
「うん。おいしい」
「本当ですか?」
いなりが、ぱっと顔を上げる。
「ああ。いなり、上手にできてるよ」
「……!」
狐耳がぴんと立ち、尻尾が大きく揺れた。
「ありがとうございます、あるじ!」
「また作ってくれるのを楽しみにしてる」
「はい! もっと練習して、今度は一人で作れるようになります!」
「無理に一人で作らなくてもいいんだぞ。母さんと一緒に覚えていけばいいんだから」
「はい。それでも、いつかはあるじのご飯を全部作れるようになりたいです」
「全部は大変じゃないか?」
「大丈夫です。頑張ります!」
いなりの頬は、うっすらと赤く染まっていた。
その様子を、烈が横目で見ている。
「いなり様、顔が真っ赤だぜ」
烈が小声で静へ話しかけた。
「烈。黙って食べていなさい」
「へーい」
「聞こえてるぞ」
「えっ」
烈が慌ててそうめんへ視線を戻す。
その隣で、静が小さくため息をついていた。




