第87話
晩ご飯を食べていると、親父が明日の予定を切り出した。
「明日は晴れの予報になっている。夏の旅行前に、キャンプ用品の点検を兼ねて清掃をしたいんだが、手伝ってくれるか?」
「手伝うのは当然だけど、朝からだよね?」
「ああ。そのつもりだ」
俺は頭の中で、明日の予定を組み立てる。
「手順は、朝からテントやタープを広げて点検。汚れているものを洗って、そのまま干しておく。午後になったら取り込んで、片づける。そんな感じでいいんだよね?」
「そうなるな」
「じゃあ、明日の勉強は昼からにしよう」
俺はいなりたちへ目を向けた。
「午前中はキャンプ用品の点検と清掃。昼ご飯を食べたら、二時間くらい勉強して、三時頃から乾いた道具を片づける。それでどうかな?」
「はーい」
いなりが元気よく返事をする。
「了解だ!」
「承知しました」
「じゃあ、みんなよろしくな」
「はい!」
三人の返事が重なった。
◇
晩ご飯が終わると、いなりは母さんのそばへ駆け寄っていった。
「母様、母様。お願いがあります」
「あら、いなりちゃん。どうしたの?」
母さんが食器を片づける手を止める。
いなりは少し緊張したように両手を胸の前でそろえた。
「わたしも、ご飯を作れるようになりたいです」
「料理を覚えたいの?」
「はい。あるじや父様、母様。それに烈と静にも、おいしいご飯を作ってあげたいです」
母さんの顔が、一気にほころんだ。
「まあ。いなりちゃん、えらいわね」
「教えていただけますか?」
「もちろんよ」
母さんは少し考えてから、明日の昼食を思い浮かべたようだった。
「明日のお昼は、そうめんにしようと思っているの。最初は、錦糸卵を一緒に作ってみましょうか?」
「錦糸卵?」
「薄く焼いた卵を、細く切ったものよ。そうめんの上に乗せると、見た目もきれいになるの」
「わたしにも作れますか?」
「私が隣についているから大丈夫よ」
いなりの表情が、ぱっと明るくなった。
「いいんですか? 母様、ありがとうございます!」
「私も、いなりちゃんと一緒に料理ができるなんて嬉しいわ」
母さんは、ちらりと俺を見る。
「透は、料理にあまり興味がなさそうだし」
「別に、まったく興味がないわけじゃないよ」
「キャンプで作る料理は、いつもお父さんから教わっているでしょう?」
「キャンプ場で、そんなに手の込んだ料理は作らないからな」
俺が言うと、親父が口を挟んだ。
「俺が手の込んだ料理を作れないだけで、透が覚えればキャンプでも作れるぞ」
「そこは親父が覚えようよ」
「俺は今のままで困っていない」
「俺も困ってないよ」
「二人とも、似た者同士ね」
母さんが呆れたようにため息をつく。
「まあ、明日はまず、いなりちゃんに教えるわ。透はまた今度ね」
「俺は別にいいけど」
「えっ、あるじ?」
いなりが不安そうに俺を見る。
料理を習うと言ったことを、俺が嫌がっていると思ったのだろうか。
俺はいなりの頭へ手を伸ばし、優しく撫でた。
「今のところ、母さんから料理を習う気はないってだけだよ」
「そうなのですか?」
「ああ。それに、いなりがおいしいご飯を作ってくれたら、それで十分だし」
「はい!」
いなりは嬉しそうにうなずいた。
「わたし、あるじにおいしいご飯を作れるように頑張ります!」
「楽しみにしてる」
「透」
母さんが、少し低い声で俺の名前を呼ぶ。
「何?」
「いなりちゃんに寄生する気満々なのは、駄目でしょう」
「寄生って、人聞きが悪いな」
「自分で作らず、全部いなりちゃんに作ってもらおうとしているじゃない」
「母様」
いなりが母さんを見上げる。
「あるじのご飯は、いなりが作ります!」
「まあ、まあ、まあ!」
母さんは感極まったように、いなりを勢いよく抱きしめた。
「いなりちゃん、なんてかわいいの!」
「母様、く、苦しいです……」
いなりは母さんの腕の中でもがきながら、背中を何度も叩いている。
けれど、母さんが腕を緩める気配はない。
「母さん。いなりが伸びちゃうよ」
「あら、ごめんなさい」
ようやく解放されたいなりは、少し乱れた髪を整えながら息を吐いた。
「だ、大丈夫です」
「ごめんね、いなりちゃん。つい嬉しくなっちゃって」
「はい。大丈夫です、母様」
そう答えながらも、いなりは少しだけ俺の後ろへ隠れる。
明日の料理教室では、抱きしめられないように気をつけた方がよさそうだ。




