第21話
家に帰ると、母さんが庭で洗濯物を干していた。
「おかえり〜」
「ただいま」
俺と親父が玄関へ向かうと、リュックの中で丸くなっていたいなりが、もぞもぞと動き出した。
家の中に入ったところで、いなりはリュックから顔を出す。
そして。
ぽふん。
小さな身体が元の大きさへ戻った。
「ただいまです」
「あら、いなりちゃんもおかえり」
母さんは、すぐに笑顔になった。
「疲れたでしょ。ミルクを準備するわね」
「あい。母様、ありがとうです」
いなりが嬉しそうに尻尾を揺らす。
完全に家族の会話だった。
いや、昨日までいなかったよな?
俺の順応も早い方だと思う。
でも、母さんといなりの順応速度は、それ以上だった。
「いなり」
「あい?」
「この後は警察の人に説明するだけだから、母さんと家で待っててくれ」
「あるじは、いっしょじゃないです?」
「すぐ戻るよ。でも、警察の前にいなりを出すわけにはいかないからな」
いなりは少しだけ耳を下げた。
けれど、すぐにこくりとうなずく。
「あい。わかったです」
「いい子だ」
俺が頭を撫でると、いなりは目を細めた。
その横から、母さんがにこにこしながら言う。
「いなりちゃん、せっかくだからお風呂に入りましょうね」
「あい。母様、よろしくです」
「透。いなりちゃんのことは気にしなくていいわよ。母さんに任せなさい」
「いや、その言い方はちょっと不安なんだけど」
「大丈夫よ。ふわふわにしてあげるだけだから」
「それはそれで不安だな……」
俺がそう言うと、親父が肩をすくめた。
「透。母さんの好きにさせておけばいい」
「ああ、そうする」
逆らっても無駄だと、俺も昨日学んだ。
「親父はコーヒーでいい?」
「上で飲み損ねたし、よろしく」
「了解」
母さんが、いなりを連れていく。
いなりは途中でこちらを振り返った。
「あるじ。いなり、きれいになってくるです」
「ああ。いってらっしゃい」
……なんだろう。
少しだけ、いなりを取られた気分だ。
俺はその気持ちをごまかすように、台所でコーヒーを淹れる準備を始めた。
警察から連絡が来るまで、少しだけ空き時間がある。
親父は書斎へ行った。
俺は親父の分のコーヒーを淹れてから、書斎へ持っていく。
「親父、コーヒー」
「ありがとう。透、この辺はどうだ?」
親父は書斎のパソコンで、ネット通販の画面を見ていた。
画面に表示されているのは、バイク用や作業用らしいプロテクターだった。
「プロテクター?」
「ああ。さっきの戦闘を見て、せめてプロテクターと盾、それにもう少し大きな武器が必要だと思った」
親父は画面をスクロールしながら続ける。
「お金は気にしなくていい。サイズを見て、必要なものを買うぞ」
いらないとは言えない雰囲気だった。
というか、実際に土偶の攻撃を見せた直後だ。
俺も反対できない。
親父と一緒に、動きやすそうな全身プロテクターを選ぶ。
次に、腕で持てる大きさの盾。
そして、山道用より一回り大きい鉈と、間合いを取るための六尺棒も候補に入れた。
「これでいいな?」
「うん」
「これが届いて、ちゃんと扱えるようになったら、またダンジョンに入っていい。それが最低条件だ」
「分かった」
「あと」
「他にもまだ条件があるの?」
「いや。道具が届くまでに少し時間がかかるだろ」
親父は、少しだけ笑う。
「その間に、いなりちゃんと稲荷社へ行ってきたらどうだ。名前もいなりなんだろ?」
「最初は『玉藻』って言ったら、強烈に拒否されてさ。次に稲荷から取って、いなりにしたんだ」
「名前の元になった場所なら、一度くらい行ってみてもいいだろ」
「近所に小さな稲荷社があったよな」
「ああ。駅から歩いて行ける場所にあったはずだ」
「それなら、いなりと行ってみるよ」
その時だった。
「あるじ〜!」
廊下の方から、元気な声が聞こえた。
振り返ると、いなりがとてとて歩いてくる。
毛並みが、つやつやになっていた。
淡い金色の毛が、室内の光を受けてふわふわと輝いている。
「おお……」
思わず声が漏れた。
「お風呂、気持ちよかったか?」
「あい。気持ちよかったです。母様に、いっぱい洗われたです」
「そっか。よかったな」
いなりは満足そうに胸を張っている。
少し遅れて、母さんも居間にやってきた。
「いなりちゃん、気持ちよかったでしょ」
「あい♪ ありがとです、母様」
「うふふ。どういたしまして」
母さんは完全に上機嫌だ。
親父がコーヒーを飲みながら聞く。
「この後、いなりちゃんは家で待機でいいんだよな?」
「ああ。警察の人には、まだ見せられないから」
俺は、いなりの頭をそっと撫でた。
「いなりを頼みます」
俺が言うと、母さんは少しだけ不満そうに頬を膨らませた。
「いなりちゃんは家族なんだから、頼むなんて言わなくていいのよ」
「……そうだな」
「そうよ。あ、いなりちゃん用に、もう少しちゃんとした寝床も作った方がいいかしら」
そう言うなり、母さんは二階へ上がっていった。
行動が早い。
昨日からずっと早い。
いなりはその背中を見送ってから、俺の足元にちょこんと座った。
「母様、やさしいです」
「まあ、優しいのは間違いないな」
「あるじの家、あったかいです」
「……そっか」
そう言われると、少し照れる。
昨日まで当たり前だった家が、いなりの目を通すと少し違って見えた。
ここは、いなりにとっても帰ってこられる場所になった。
それが、少し嬉しかった。
「……もうちょっと待ちだよな」
「ああ。警察から連絡が来るまではな」
親父がそう答えた、ちょうどその時だった。
テーブルの上に置いていた親父のスマホが震えた。
画面を見た親父の表情が、少し引き締まる。
「警察からだ」
居間の空気が、静かに変わった。
母さんが階段の途中で足を止める。
いなりも、俺の足元で耳をぴんと立てた。
親父は一度だけ、俺を見る。
俺は小さくうなずいた。
いよいよだ。
ここから先は、家族だけの話では済まなくなる。
親父は通話ボタンを押し、落ち着いた声で答えた。
「はい。小森です」




