第18話
朝ごはんを食べ終えるころには、いなりもすっかり元気になっていた。
最初はリュックの中で眠そうにしていたくせに、母さんが用意してくれた小皿の朝食を食べた途端、尻尾をぱたぱた揺らしている。
「いなり、げんきでたです」
「分かりやすいな」
「ごはん、おいしかったです」
いなりが満足そうに胸を張る。
母さんはそれを見て、朝から完全ににこにこしていた。
……うん。
母さんにいなりを任せたら、たぶん一日で甘やかされすぎる。
それはそれで、少し怖い。
朝食を済ませると、俺と親父は荷物を持って家を出た。
目的地は、昨日まで俺がキャンプをしていた裏山。
そして、その先にあるダンジョンだ。
いなりは小さくなって、俺のリュックの中に入っている。
リュックの口は少しだけ開けてあるので、そこから外を見ているらしい。
「親父とキャンプ地に行くの、久しぶりだな」
山道を歩きながら、俺はぽつりと言った。
「最近は行けなくて悪いな」
「別に責めてるわけじゃないよ。仕事が忙しいのは分かってるし」
「そう言ってくれると助かる」
親父は苦笑する。
昔は、休みになるとよく二人でこの山へ来ていた。
テントの張り方。
火の起こし方。
鉈の扱い方。
山で迷わないための目印の残し方。
キャンプだけじゃなく、山で過ごすために必要なことは、だいたい親父から教わった。
「ちゃんと綺麗に使ってるから、そこは安心してくれ」
「キャンプに関して、俺は心配してないぞ。山の整備もちゃんとやってくれているようだしな」
「あそこを使うための約束だしな」
俺がそう言うと、親父は後ろから俺の頭にぽんと手を置いた。
そして、少し乱暴に撫でてくる。
「ちゃんとやってる。偉いぞ」
「……子供扱いするなよ」
そう言いつつ、嫌な気はしなかった。
むしろ、少し嬉しかった。
親父に認められた気がしたからだ。
リュックの中から、いなりの小さな声がした。
「あるじ、うれしいです?」
「うるさい」
「いなりには分かるです」
「分からなくていい」
親父が横で小さく笑っている。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
けれど、こういう朝の山道は悪くなかった。
しばらく歩くと、木々の間から開けた場所が見えてきた。
俺と親父で少しずつ整備してきたキャンプ地だ。
昨日までテントを張っていた場所。
昨日、いなりを助けた場所。
そして、俺の日常が大きく変わった場所。
「ほう」
親父が周囲を見回す。
「言うだけあって、綺麗にしているな」
「当然だろ」
少し胸を張る。
下草は刈ってある。
落ち枝も片づけてある。
テントを張る場所も、焚き火をする場所も、ちゃんと分けてある。
誰に見せるためでもなく続けてきた手入れだったけれど、こうして親父に見てもらえると、やっぱり嬉しい。
「じゃあ、まずはここに荷物を置いて、身軽にしてからダンジョンに向かおう」
「了解」
「あい」
リュックの中から、いなりも小さく返事をする。
親父が一瞬リュックを見て、それから苦笑した。
「返事が増えると、不思議な感じだな」
「すぐ慣れるよ」
「そうかな?」
「たぶん」
俺たちはキャンプ地に荷物を置いた。
大きな荷物は木のそばにまとめ、リュックには必要なものだけを入れ直す。
ロープ。
応急手当キット。
水筒。
懐中電灯付きのヘルメット。
予備のライト。
分岐の目印に使う赤いリボン。
武器代わりの鉈も、腰に下げておく。
親父も懐中電灯付きのヘルメットをかぶり、鉈を腰に差した。
その姿を見ると、やっぱり慣れている。
ただ装備を身につけているだけなのに、動きに無駄がない。
「じゃあ、行くか」
「ああ。こっちだ」
俺は親父を案内して、山道を進んだ。
昨日、何度も通った道。
ダンジョンの入口へ続く道。
数分歩くと、木々の間に“それ”が見えてきた。
宙に浮かぶ黒い穴。
周囲の景色から、そこだけ切り抜かれたような異物。
何度見ても、普通じゃない。
「ここだよ」
俺が指差すと、親父は足を止めた。
しばらく黙って、その黒い入口を見つめる。
「……これか」
親父の声は低かった。
「確かに、自然にあるものじゃないな」
「だろ?」
「ああ。これは……報告しないわけにはいかない」
親父は黒い入口から視線を外すと、少しだけ考え込んだ。
俺は黒い入口を見上げる。
リュックの中から、いなりがそっと顔を出した。
「あるじ、ここです」
「ああ。昨日の場所だ」
「いなり、ここであるじに会ったです」
「正確には、この中だけどな」
「あい。でも、ここはいなりにとって、大事な場所になったです」
「……そっか」
そう言われると、少し照れる。
俺にとっても、ここはもうただの山道ではなくなっていた。
怖い場所。
危ない場所。
でも、いなりと出会った場所でもある。
「中には入る。ただし、入口の近くを確認するだけだ」
俺は親父を見た。
「土偶が出ても、無理に倒そうとしない。危ないと思ったら、すぐ戻る」
「ああ。それでいこう」
親父は黒い入口をもう一度見た。
緊張している。
けれど、怯えてはいない。
「透はもう入ったんだよな」
「ああ。入口近くなら、昨日も通った」
「いなりちゃんも、よろしくな」
「あい。いなり、あるじと父様をまもるです」
「頼もしいな」
親父が少し笑う。
俺はヘルメットのライトを確認し、腰の鉈に手を添えた。
いなりはリュックの中で小さく息をひそめている。
「じゃあ、行くよ」
「ああ」
俺は黒い入口へ向かって一歩踏み出した。
昨日よりは怖くない。
でも、緊張はする。
隣には親父がいる。
リュックにはいなりがいる。
一人じゃない。
そのことを確かめるように、俺は息を吸った。
そして、親父と一緒にダンジョンへ入った。




