第1話:隅の読書少女
プロローグをお読みいただきありがとうございます。
第1話は、めぐみの学校生活と、彼女が抱える狂おしいほどの秘密の原点です。
県立高校の放課後、午後三時。
西日が斜めに差し込む図書室は、埃のダンスが目視できるほどに静まり返っていた。古い紙と、少しだけ湿った木材の匂い。そこが、隅島めぐみの「城」だった。
めぐみは図書室の最も奥まった席、窓際から離れた壁際の隅に座り、分厚い文庫本に目を落としている。
少し青みがかった長い黒髪が、地味な制服の肩にさらりと流れる。顔の半分を覆うような太いフレームのメガネ。彼女はクラスの誰もが認める、目立たない、害のない、ただの「隅の住人」だった。
しかし、めぐみの視線は、数分前から同じ行で止まっている。
視線の先にあるのは、活字ではない。
窓から見えるグラウンドで、オレンジ色の夕陽を浴びて走り回る一人の少年――三浦健人だ。
「あ、またシュート決めた」
めぐみは小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
サッカー部のエースとして活躍する健人は、めぐみにとっての光そのものだった。小学校の頃、吃音で笑われた彼女を真っ先に庇ってくれたヒーロー。
日常的に見守るめぐみの耳には届かないはずの二人の会話が、心の中で鮮明に再生される。健人の傍らに駆け寄り、冷たいスポーツドリンクを渡しているのは、もう一人の幼馴染、菅原このか。二人はあまりにもお似合いだった。光の中にいるのが当然の二人。
めぐみは、自分の心臓がチクリと痛むのを、本の角をぎゅっと握りしめることで誤魔化した。
(……私は、ここで見てるだけでいいの)
めぐみには、二人にも、そして世界中の誰にも言えない秘密がある。
制服のスカートの裾を、無意識に手繰り寄せる。薄いストッキング越しに、指先が太ももの柔らかな感触と、そこに食い込む硬い質感に触れた。
中学の卒業祝いに、健人が冗談めかしてプレゼントした、黒いガーターベルト。
『大人っぽくなれよ、めぐみ!』
笑いながら渡された、少し下品で、最高に愛おしい贈り物。
それを、めぐみは三年間、毎日肌に密着させて登校している。
その感触だけが、彼女を地味な「隅島めぐみ」から繋ぎ止めていた。
「めぐみちゃん! まだそんな難しい本読んでるの?」
聞き慣れた明るい声。部活を終えた二人が、図書室へやってきた。
めぐみは跳ねるように肩を揺らし、慌ててメガネを指で押し上げた。
「……う、うん……健人くん、このかちゃん。お疲れ様」
「顔真っ赤だぞ? また感動するシーンだったのか?」
健人がいたずらっぽく笑い、めぐみの頭を大きな手でぽんぽんと叩く。
その瞬間、めぐみの頬はさらに赤みを増した。
この温度。この手の大きさ。めぐみが世界で一番愛しているもの。
でも、彼女は知っている。健人のその優しさは、自分だけに向けられたものではないことを。そして、自分はこの「隅」から一歩も踏み出せていないことを。
「じゃあ、私たち先に行くね。めぐみちゃん、暗くなる前に帰るんだよ?」
このかが優しく微笑み、健人の腕を軽く引いて図書室を去っていく。
二人の背中が遠ざかり、図書室が再び静寂に包まれた時、めぐみの瞳に一瞬だけ、強い光が宿った。
めぐみは素早く立ち上がり、女子トイレへと向かった。
個室に入り、鍵をかける。
そこが、彼女の変身部屋だ。
太いメガネを外し、カラーコンタクトを装着する。
地味にまとめていた髪を解き、艶出しのミストを吹きかけて、甘い香りを纏わせる。
制服のリボンを外し、持参した緑の蝶ネクタイをきゅっと結んだ。
最後に、鏡を見つめる。
そこには、クラスの誰一人として知らない、潤んだ瞳と恥じらいを含んだ微笑みを浮かべる美少女がいた。
彼女はスマホを三脚に固定し、配信アプリを起動する。
画面には「Megu」という名前と、待機している数万人の視聴者数。
配信開始のボタンを前に、めぐみは熱を持った吐息を漏らし、震える声で秘密の呪文を囁いた。
「めぐじゃーにー、めぐじゃーにー……」
それは、自分を解き放つ合図。
それは、大好きな二人への「裏切り」の始まり。
「今日も恥ずかしくて、でも見せたい……瞳を潤ませて、頬を赤らめて。みんなの前で、ちょっとだけ……大胆に。……めぐじゃーにー!」
――ピッ。
配信開始の音が響く。
次の瞬間、画面の中の「Megu」は、世界中の視線を独占し始めた。
「……こんばんは。Meguだよ……。えっ、今日……いつもより色っぽい? ……や、やめてぇ……///」
羞恥に震える声が、デジタルの波に乗って拡散していく。
この「配信」が、やがて取り返しのつかない「背信」へと形を変え、三人の関係を壊していくことを、今のめぐみはまだ、願うことさえできなかった。
第1話をお読みいただきありがとうございました!
【次回予告】
第2話:秘密のスイッチ(メガネOFF→Megu ON)
爆発的に増え続ける登録者。画面の中のMeguは、現実のめぐみを侵食し始める。「本当の私は、どっち?」加速する二重生活の中で、めぐみの身体に少しずつ、女としての実感が刻まされていく。




