032 パラディースシフ 前編
「あの、お母さんを知っているんですか?」
「お母さん? そ、そうだよね、エリネルベルト様のわけが……」
「で、あんたは何者? シーニャになんの用?」
今にも取って食われそうな勢いでやってきた女性とシーニャの間に、ずいっとマナが体を割り込ませて、そして見上げる形で女性を睨みつける。
それは防衛本能か母性か、はたまた。
そんな棘を纏ったマナの態度に、女性は冷静さを取り戻す。
「あ、驚かせてごめんね。私はファッツって言うの。その昔、エリネリベルト様に命を助けられてね。それで、その、お嬢ちゃんがエリネリベルト様の娘さん?」
「はい。シーニャです」
「よく似てる……」
「あたしはマナ! よろしく!」
じっとシーニャの顔を見ているファッツの手を無理やりに取って握手をして、腕をぶんぶんと過剰に上下させるマナ。
「え、ああ。よろしく」
再び邪魔をされた形になったものの、そこは大人。
「立ち話もなんだから、私の家に行こう、近くだし遠慮しないで」と言って、ファッツは歩き出した。
マナには思うところがあるものの、断るだけの理由も無く、二人は後へと続く。
歩を進めるファッツが片方の足を出すたびにガチャガチャギシギシと金属音が鳴る。
「この町、ハイゼクレーラは温泉の町でね。地中から湧き出る水蒸気が年がら年中真っ白で、ガーヴァルから守ってくれてるんだ」
「温泉って?」
マナには聞き覚えが無い単語だった。
「地面から温かいお湯が沸き出てるところだよ。入ると気持ちいよ」
「入りたい! ねね、マナ! いいでしょ、一緒に入ろうよ!」
「えっ!?」
「さっき約束したでしょ。安全だよ、安全。み、ず、あ、び」
「え、あ、ああ、うん。まずはファッツさんの所ね」
「はーい。約束だよ?」
逃げ道を塞がれたマナ。水浴びをできる場所に安全な所なんか無いと思って高を括っていたが、言ってしまった手前、やっぱり駄目とも言えない。
なんとか理由を付ける時間を稼ぐため、なるべく実行が後回しになるようにと頭を働かせる。
そして、たぶんそんな事を考えてるんだろうな、と感づいたシーニャは念押しで釘を刺した。
「ははは、二人は仲がいいんだね。さあ、着いた。散らかってるけど気にしないでね」
話をしているうちにファッツの家に着いた。
平屋建ての土壁の家。本人が言うように、入口を入った瞬間から、なにやらいろいろなものが床に散乱していて散らかっていた。
開きっぱなしの本、何に使うのか分からない工具、木の枝や金属の切れ端、中身がこぼれて乾いた跡があるマグカップ。挙句は服や靴下などなど。
どうぞどうぞ、とそれらを雑にどけて、小さな丸テーブルとイスを引っ張り出してきたので、そこに座って一息つく。
「さてさて、私がエリネリベルト様と出会ったのは10年前。私が15歳の若造だったころだよ。当時の私はこの町の湯気が気に入らなくてね。とうとう言いつけを破って湯気のないところ、つまり町の外に出たんだ。まあ、今にしては愚かしい事をしたと思うよ」
と、けらけら笑うファッツ。
家の中なので彼女はフードを脱いでいる。茶色のくせ毛が渦を巻いたようなボサボサの髪の毛とその笑顔が僅かに子供っぽさを醸し出している。
「もちろんガーヴァルに見つかってしまってね。その時初めてガーヴァルを見たよ。目を見てはいけないって口酸っぱく言い聞かされてきたから、すぐに踵を返して逃げ出したんだけどね、左足に赤い模様が出たと思ったら、もう左足が爆発して吹っ飛んでた。片足で逃げられるわけも無く、ここで死ぬんだな、って思った時に、辺りが眩しいくらいの光に包まれてさ、私も、たぶんガーヴァルも目が見えなくてさ、おろおろしている時に、女の人の声がして、私に肩を貸してくれて、それで何とか逃げ出せたんだよね」
手で左足の義足をさするファッツ。10年前まではそこに足があったのだ。
「助けてくれた女の人がエリネリベルト様。優しくて、朗らかで、笑顔を絶やさない、やわらかくて、すべてを包み込んでくれるような人だった。そんな素敵な女性に命を助けられたんだ、恋の免疫も無い田舎娘なんかイチコロだよ。すぐに恋に落ちて、結婚してくださいって言ったね」
ニヤリと笑うファッツ。
「それで、どうなったんですか!」
食い気味のシーニャ。
早く早くと続きをせかす。
「もちろんフラれたよ。結婚してるって知らなかったからね。ていうか、10年前ならシーニャちゃんは生まれてるでしょ」
「そうでした、えへへ」
「まあフラれてしまったけど、それでエリネリベルト様と終わりになるつもりもなかったよ。聞けばエリネリベルト様は旅の途中。楽園ってところに行くらしかった。だから、一緒に連れて行ってくださいって、まあ、言おうと思ったよ。でもさ、この足さ」
コンコンと金属の義足を小突く。
「残念ながら、足が吹っ飛んだ直後。この義足もなくて、木の棒で体を支えながら歩くわが身よ。そんな状態で旅のお供なんてできるはずもない。迷惑をおかけするわけにもいかないと思ってぐっと言葉を飲み込んだね」
「ファッツさん……」
「ん、まあ、私の事は置いておいて。エリネリベルト様の目的地、楽園は聞けばこの大河の先にあるとか。それで船で大河を渡る必要があって。危険だってみんなが止めたんだけど、エリネリベルト様は優しく笑顔で大丈夫だって言って引かなくて……。それで魚釣り用の小舟で川を渡ることになって……。町のみんなも、湯気の出てる部分なら大丈夫だろう、湯気が無くなったところでガーヴァルに見つかったらさすがに帰ってくるだろうって……そう思ってた」
そこで言葉が途切れる。
当時の事を思いだしているのだろう。




