よく考えてみると、勇者の過去については何も知らない。
これがこの物語の最新エピソードです。皆さんに楽しんでいただけたら嬉しいです。
コヴァリへと繋がる門を抜けた瞬間、空気が一変した。
潮の匂い。
湿った風。
遠くから聞こえる、波の音。
そこは島だった。
コヴァリ。
レディアの中でも、漁業を主とする地域。
海に囲まれ、人々は魚と共に生きている。
黒く縮れた髪。
細く、切れ長の瞳。
その特徴を持つ人々が、港と市場を行き来していた。
木造の桟橋には、無数の船が並ぶ。
網を干す者。
魚を運ぶ者。
そして市場では――
活気が渦巻いていた。
「安いよ!今朝獲れだ!」
「こっちのほうが脂が乗ってるぞ!」
声が飛び交う。
笑い声と怒号が混ざる。
ガリーは、その中を静かに歩いていた。
ヴィクトリアは、その隣で周囲を見回している。
「すごい……」
小さく呟いた。
ガリーは立ち止まり、袋を取り出す。
中には、各地で集めてきた種子が入っていた。
見慣れない形。
異国の色。
彼は市場の一角に腰を下ろし、声を張った。
「遠方の地で採れた果実の種だ」
人々の視線が集まる。
そして、歌う。
コヴァリの古い物語。
海を渡った祖先。
嵐を越えた英雄。
軽やかな調子。
時に滑稽に。
時に荘厳に。
人々は足を止め、耳を傾けた。
やがて、いくつかの種が売れた。
銅貨が、手の中に落ちる。
「……これで十分だ」
ガリーは立ち上がった。
「食料を買う」
ヴィクトリアは頷いた。
二人は、魚の並ぶ区画へと向かう。
そこには――
血の匂いがあった。
新鮮な魚。
切り開かれた腹。
剥がされる鱗。
そして。
赤い液体が、床に流れていた。
「……」
ガリーの足が止まる。
包丁が振り下ろされる音。
骨を断つ音。
水音と混ざる血。
――その光景に。
何かが、重なった。
「……っ」
指が、震えた。
右手の人差し指。
小さく。
だが確かに。
「……」
視界の奥で、何かがちらつく。
思い出したくない。
「ガリー?」
ヴィクトリアの声。
彼は何も答えない。
その時だった。
「おい、手が足りねえ!」
怒鳴り声。
一つの店。
他よりも客は少ない。
だが、それでも二十人ほどは並んでいる。
店主は、年老いた男だった。
マクドゥ。
「注文は順番だ!急かすな!」
だが、手は明らかに足りていない。
魚が山のように積まれている。
ヴィクトリアは、その様子を見て――
「手伝おうか?」
あっさりと言った。
「は?」
マクドゥが目を丸くする。
「すぐ終わるよ」
ヴィクトリアは袖をまくり、包丁を手に取った。
迷いがない。
魚を押さえ――
刃を入れる。
滑らかだった。
骨に沿って、正確に。
無駄なく。
血が、流れる。
床に落ちる。
水と混ざる。
「……」
ガリーのもう一つの人差し指が、震えた。
左手。
止まらない。
視界が、わずかに揺れる。
――やめろ。
「……」
だが、声には出さない。
ヴィクトリアは気付かない。
ただ、魚を捌き続ける。
手際よく。
効率的に。
まるで――慣れているかのように。
「助かる……!」
マクドゥが息を吐いた。
客の列が、少しずつ減っていく。
「ガリー?」
ヴィクトリアが振り返った。
「どうしたの?」
その目は、純粋だった。
何も知らない。
「……」
ガリーは何も言わない。
ただ、視線を逸らした。
ヴィクトリアは、少しだけ首を傾げた。
――怒ってる?
そう思ったが、理由がわからない。
やがて、作業は終わった。
二人は魚を受け取り、市場を後にした。
夜。
簡素な宿。
波の音が、遠くから聞こえる。
ヴィクトリアは床に座り、静かに魚を食べていた。
ガリーは、横になっている。
目は閉じているが――眠りは浅い。
「……」
やがて。
呼吸が乱れ始めた。
「……やめ……」
小さな声。
ヴィクトリアは顔を上げた。
「ガリー?」
彼の額には汗が滲んでいる。
眉が歪む。
苦しそうに。
「……違う……」
何かを拒むように、首を振る。
「……俺は……」
ヴィクトリアは近づいた。
肩に手を置く。
「起きて……」
軽く揺らす。
その時。
ガリーの口から、言葉が零れた。
「……すまない……」
かすれた声。
「……許してくれ……」
ヴィクトリアは息を止めた。
「……俺は……」
そして。
「……お前たちを……殺すしかなかった……」
静寂。
波の音だけが、遠くで鳴っている。
ヴィクトリアの手が、止まった。
「……」
彼女は、何も言わない。
ただ――その言葉を、聞いていた。
このエピソードを楽しんでいただけたなら幸いです。次のエピソードも近いうちにアップロードします。




