旧友への清算
査定会の翌日、俺は港の外れにいた。
北門から少し離れた、倉庫地区のさらに先。荷馬車の轍が乾いた泥を刻み、潮風が古い木戸を白く傷ませるような場所だ。表通りの華やかさはない。夜になれば風は強いだろうし、冬場は客足も落ちるだろう。
だが、海が見えた。倉庫の屋根越しではなく、店の裏手からそのまま見える。
路地の奥で、マロニエは壁にもたれていた。薄茶の外套を羽織り、いつものように何を考えているのか分からない顔をしている。口元には軽い笑み。目だけは妙に冷静だった。
「よう。金持ち冒険者」
「金持ちになった覚えはない」
「Dランクにしちゃ、だいぶ景気のいい袋を持ってるじゃねえか」
そう言って、マロニエは俺の報酬袋を顎で示した。
「で、例の件だが」
彼は路地の奥を指差した。
「偶然、安い物件を見つけてな」
俺は目の前の建物を見た。小さな二階建て。一階は食堂用の広間と厨房。二階は物置と住み込み用の部屋。
店の裏手には、海へ向かって張り出した木製のテラスがある。手すりは潮で少し白くなり、帆布の庇は古い。丸い卓が三つ置ける程度の狭い場所だ。
高級店ではない。むしろ、手を入れなければすぐに駄目になる。だが、悪くない。
「前の店主は年寄り夫婦だった」
マロニエが背後で言う。
「旦那が死んで、奥方も店を畳んだ。客入りは意外と悪くなかったが、場所が場所だ。潮風で建具が傷む。冬は寒い。だから安い」
「厨房は使えるのか」
「竈は修理がいる。煙突も掃除。水回りは生きてる。鍋と皿は古いが、まあ使えんことはない」
「十分だ」
「本気で買うのか?」
「契約条件次第だ」
マロニエは少し笑った。
「エルナ嬢に似てきたな」
「いい傾向だ」
「違いねえ」
脳裏にガノンの姿が浮かぶ。灰狼亭で皿を運んでいた大柄な男。右袖の空白。片腕で器用に酒瓶を抱える手。
不機嫌な声。干し肉を押しつけてきた顔。――返さなくていい。
一度目の人生で、あいつはそう言った。俺は返せなかった。あの雪山で死んだからだ。
いや、死ななかったとしても、返せただろうか。三十四歳のDランク冒険者。壊れた身体。あと十四日で人生が詰む男。たぶん、返せなかった。だから今、返す。
正確には、返すなどという言葉では足りない。右腕一本。失われた夢。失われた時間。店一つで釣り合うわけがない。だが、それでも。何もしないよりは、ずっとましだ。
「マロニエ。契約を進めてくれ」
「報酬の大半が飛ぶぞ」
「命の値段に比べれば安い」
マロニエは、少しだけ真顔になった。
「命の恩人ってやつか」
「それだけじゃない」
俺は竈を見た。灰を掻き出せば、まだ使える。煙突を掃除し、火を入れれば、ここは厨房になる。
「ガノンの夢を、俺が勝手に終わったことにしたくない」
マロニエはしばらく黙っていた。そして、鼻で笑った。
「面倒くせえ男だな。だが、嫌いじゃねえ」
「それはどうも」
「礼はいらん。仲介料は取る」
「偶然見つけた物件なのにか」
「偶然にも手間がかかるんだ」
マロニエはそう言って、ようやくいつもの軽い笑みに戻った。
ガノンは灰狼亭の厨房にいた。昼の仕込み前だというのに、もう鍋の前に立っている。片腕で器用に鍋を揺すり、木べらで底をさらう。左目の眼帯は古く、右腕の袖は短く留められていた。店の奥では、灰狼亭の店主が何か文句を言っている。
「煮込みはもっと薄くしろ。香草を使いすぎるな。ここに来る客はどうせ味なんか分からん」
ガノンは返事をしなかった。ただ、木べらを動かしている。俺はその背中を見て、少しだけ黙った。あの背中は、戦場で見た背中とは違う。
「ガノン」
声をかけると、ガノンが振り返った。
「おう。生きてたか」
灰狼亭の店主がこちらを見た。
「何だ、ロイドか。飯ならまだだぞ」
「今日は飯じゃない」
「じゃあ何だ」
「ガノンを借りる」
店主の顔が歪んだ。
「すぐ済む」
「仕込みがあるんだ。困るんだよ、こいつがいないと」
その言い方に、ガノンの眉がわずかに動いた。便利な道具がなくなると困る。そういう声だった。俺は店主を見た。
「困るなら、名前を出してやれ」
「は?」
「この煮込みは灰狼亭の煮込みじゃない。ガノンの煮込みだ」
店主の顔が赤くなる。ガノンが低く言った。
「ロイド」
「少し借りるだけだ」
俺はそれ以上、店主を見なかった。ガノンは木べらを置き、布で手を拭いた。
「分かった。すぐ戻る」
「戻らなくていい」
俺が言うと、ガノンは足を止めた。
「何だと」
「来い」
港外れの古い食堂まで、ガノンは黙って歩いた。潮風が吹くたび、ガノンの外套の空いた袖が揺れる。途中で何度か俺を見たが、何も聞かなかった。マロニエは店の前で待っていた。
「よう、料理人」
「相変わらず口が悪いな、マロニエ」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてねえ」
ガノンは店を見上げた。看板の外れた古い建物。潮で白くなった木戸。裏手から聞こえる波の音。
ロイドが鍵を差し込む。錆びた音を立てて、扉が開いた。中には、古い木の匂いと、わずかな潮の匂いが残っていた。
長く火を使っていない厨房。客の声が消えた広間。埃をかぶった椅子。使い込まれた釜。
そして、奥の木戸の向こうに、海へ張り出した小さなテラス。
ガノンの足が止まった。料理人の目になっていた。厨房の配置を見ている。
水場。釜。調理台。客席までの距離。裏口。仕入れ用の通路。火の通り。そして、海から入る風。
「何の真似だ」
ガノンが言った。俺は鍵を差し出した。
「店だ」
「それは見りゃ分かる」
「お前の店だ。厨房は生きている。修理はいるが、使える。客席は少ない。だが、始めるには十分だ」
ガノンの顔が変わった。怒る前の顔だ。
「ロイド。ふざけるんじゃねえ」
「ふざけてない」
「ふざけてるだろうが」
ガノンは鍵を受け取らなかった。左手が拳になっている。
「お前、自分の装備はどうする。腕をやったんだろ。剣も盾も直すんだろ。なのに何だこれは」
「投資だ。贈り物じゃない」
俺は鍵を持ったまま言った。
「俺が帰る場所への投資だ」
マロニエが壁にもたれたまま、わざとらしく海を見ている。余計なことは言わない。珍しく、空気を読んでいる。
「お前は戦場で俺を庇って、右腕を失った。自分の店を持つ夢も、その時にほとんど奪われた。俺はその後、何も返せなかった」
「ロイド」
「だから、これは返済じゃない。利子にもならない」
「やめろ」
「やめない」
ガノンの顔が歪む。怒りか。痛みか。それとも、その両方か。
「これは俺が勝手にやることだ。お前が諦めたものを、俺まで諦めたくない」
ガノンは何も言わなかった。路地に、夕方の風が通る。古い店の扉が、かすかに軋んだ。
俺は鍵をもう一度差し出す。
「だから受け取ってくれ」
ガノンの目が大きく開いた。
「馬鹿野郎」ガノンは顔を背けた。「そんな借りの返し方があるか」
「俺が決めた」
「昔から勝手な奴だ」
「お前ほどじゃない」
ガノンはしばらく黙っていた。やがて、ようやく鍵を取った。片手で握る。ぎゅっと。そのまま、しばらく動かなかった。
「儲かったら返す」
「返さなくていい。飯を食わせろ」
「それで済むのか」
「済む。俺は高い飯を食う気だ」
ガノンはやっと笑った。ひどく下手な笑い方だった。
「じゃあ、覚悟しろ。開店日はお前、皿洗いだ」
「右腕が治ったらな」
「左でやれ」
「厳しい店だ」
「俺の店だからな」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ息を吐いた。俺の店ではない。灰狼亭でもない。ガノンの店だ。それでいい。




