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エピローグ

 仮開店の日は一週間後だった。正式な開店ではない。看板もまだ新しい板に仮書きしただけだ。

 

 《帰り火亭》少し歪んだ文字だった。ガノンが片腕で書いた。フィンが横から文句を言ったらしい。

 

 「字が曲がってる」

 「味があるだろ」

 「看板は味じゃなくて読みやすさだ」

 「読めりゃいい」

 

 そんなやり取りを三回ほどしたと、マロニエが楽しそうに教えてくれた。店の中には、まだ古さが残っている。壁の傷も、床の軋みも、椅子の高さのばらつきもそのままだ。

 

 だが、厨房には火が入っていた。それだけで、店は生き返る。

 鍋から湯気が上がっている。肉と根菜。港で仕入れた魚。香草。少し焦がした玉ねぎ。

 

 灰狼亭で嗅いだ匂いより、深い。香草をケチっていない。油も古くない。塩も、きちんと効いている。ガノンは鍋を片腕でかき混ぜながら、俺たちを見た。

 

 「奥へ行け。今日は天気がいい。テラスを使え」

 「風があるぞ」

 「飯が冷める前に食えばいい」

 

 そう言って、ガノンは奥の木戸を顎で示した。仮開店の日、俺たちは店の奥へ通された。

 厨房の横を抜け、細い木戸を開ける。その先に、海があった。

 

 港の外れ。倉庫街の向こうに、冬の海が広がっている。店の裏手には、小さなオープンテラスが張り出していた。

 古い木の床板。潮風で少し白くなった手すり。帆布の庇。丸い卓が三つ。高級店のような洒落た場所ではない。だが、海が見えた。アンジェが一歩先に出た。

 

 「……へえ」

 それだけ言って、彼女は真っ先に一番海が見える席へ向かった。

 

 「悪くないわね」

 「悪くないと言いながら、一番いい席を取ったな」

 「確認よ。客席の確認」

 

 海風が吹いた。アンジェの髪がふわりと揺れる。彼女は慌てて手で押さえた。

 「ちょっと、風が強いわね」

 「海沿いだからな」

 

 ガノンが厨房から言った。

 「嫌なら中で食え」

 「嫌とは言ってないでしょ」

 

 そう言いながら、アンジェは席を離れなかった。むしろ、少しだけ椅子を海の方へ向けている。

 「この席、人気が出るわよ」

 「なら高く取るか」

 「最初から商売っ気を出すのね」

 「店だからな」

 「……悪くないわ」

 

 アンジェはもう一度海を見た。口元が緩んでいる。本人は気づいていないのかもしれない。セラはテラスの入口で立ち止まっていた。両手で胸元の外套を押さえ、海を見ている。

 

 「セラ?」

 俺が呼ぶと、彼女は少し遅れて振り返った。

 

 「ここで、食べていいんですか」

 「そのための席だろう」

 「でも、海が見えます」

 「見えるな」

 「外なのに、地下みたいに寒くありません」

 

 セラは真剣な顔で言った。

 「音も違います。塔の下の音は、ずっと閉じていました。でも、ここの音は……開いています」

 

 アンジェが少し笑った。

 「気に入ったのね」

 セラは小さく頷く。

 「はい」

 

 それから、海に一番近い椅子へそっと座った。潮風に揺れる庇を見上げ、テーブルを撫でる。

 「温かい料理を、ここで食べるんですね」

 「そうよ」

 

 アンジェが隣の椅子を引いた。

 「今日は贅沢していい日よ」

 「では、贅沢します」

 

 セラはそう言って、少しだけ背筋を伸ばした。その顔が、いつもより幼く見えた。

 俺にとって海は、血と泥と濡れた鉄の匂いだった。だが、アンジェは髪を押さえながら席を選び、セラは海の音に耳を澄ませている。

 

 同じ海でも、見る者が違えば、こうも違うらしい。席には、エルナもいた。仕事帰りのように書類鞄を椅子の横に置き、疲れた顔で座っている。

 

 マロニエは当然のように風下の席を占領している。フィンは厨房とテラスを行ったり来たりしていた。

 

 「この潮風、金具がやられるぞ。蝶番は早めに替えた方がいい」

 「食う前に文句を言うな」

 

 ガノンが言う。

 「職人としての助言だ」

 「客として座れ」

 「釜を直したのは僕だぞ」

 「なら余計に座れ。直した釜の料理を食え」

 

 フィンは不満そうにしながらも席に戻った。ガノンが大皿と深皿を運んできた。

 片腕で器用に盆を支え、テーブルへ置いていく。港で仕入れた白身魚の香草焼き。

 根菜と肉の煮込み。焼き目のついた黒パン。温かい豆のスープ。それから、小さな皿に盛られた貝の蒸し物。

 

 「仮開店にしては多くないか」

 俺が言うと、ガノンは鼻を鳴らした。

 

 「出資者様が来たからな。少しくらい見栄を張らせろ」

 

 セラは湯気の上がる皿を前に、真剣な顔をしていた。

 「熱いか」

 

 俺が聞くと、セラは頷いた。セラは両手で匙を持ち、慎重に煮込みをすくった。息を吹きかける。また吹きかける。まだ吹く。アンジェが横から言う。

 

 「もう冷めるわよ」

 「前に熱いまま食べて、舌をやりました」

 「学習してるのね」

 「はい」

 

 ようやく口に運ぶ。セラの目が少しだけ大きくなった。

 「……おいしいです」

 

 ガノンの動きが一瞬止まった。

 「そうか」

 「はい。身体の中が温かくなる味です」

 

 店の中が少し静かになった。潮風の音だけが、帆布の庇を揺らす。セラはたぶん、深く考えて言ったわけではない。だが、その言葉はこの店に合っていた。

 身体の中が温かくなる味。ガノンは鍋の方を見たまま、低く言った。

 

 「なら、また食え」

 「はい」

 アンジェも匙を運んだ。少し目を細める。

 

 「灰狼亭より、おいしいわね」

 「当たり前だ」

 

 ガノンが即答する。

 「あそこじゃ香草をケチられてた」

 「やっぱり」

 「肉もな」

 「それは許せないわね」

 「だろう」

 

 妙なところで意気投合している。アンジェは今度、魚の香草焼きを口に運んだ。

 「これもいいわ。海を見ながら食べると、味が変わるのね」

 

 ガノンが片眉を上げる。

 「それは俺の腕じゃなくて景色のせいか」

 

 セラが真面目に答えた。

 「両方です」

 

 ガノンは少しだけ口元を緩めた。

 「なら許す」

 

 エルナは黙ってスープを飲んでいた。しばらくして、深く息を吐く。

 「……疲れた日に、これは危険ですね。仕事に戻りたくなくなります」

 「なら食ってから戻れ」

 「そうします」

 

 マロニエは勝手に酒瓶を開けていた。

 「誰が開けていいと言った」

 

 ガノンが睨む。

 「偶然、栓が緩んでいてな」

 「偶然で酒が注がれるか」

 「知らなかったか? 俺の人生にはよくある」

 「ろくでもない人生だな」

 

 フィンは貝を食べながら、まだ厨房を見ている。

 「なあ、ガノン。テラスに出すなら、皿はもう少し厚手にした方がいい。風で冷める」

 「食ってから言え」

 「食いながら考えてる」

 「職人は面倒だな」

 

 店の中に、声が重なっていく。笑い声。匙の音。波の音。鍋の煮える音。椅子が軋む音。

 外では、帝国の冬がまだ続いている。資源局の問題も、監察局の調査も、古代炉も、魔族も、何一つ終わっていない。

 

 それでも、今夜は鍋が煮えている。アンジェが海風に乱れる髪を押さえながら料理を選び、セラが熱い皿を両手で抱え、エルナが仕事を忘れたふりをし、マロニエが勝手に酒を注ぎ、フィンが厨房に難癖をつけている。

 

 ガノンが片腕で鍋をかき混ぜる。俺はそれを見て、ようやく思った。帰ってきたのだ、と。

 

 「ロイド」

 ガノンが呼んだ。

 「味はどうだ」

 

 俺は皿の煮込みを口に運んだ。熱い。少し濃い。肉は柔らかく、根菜は崩れすぎていない。香草の苦味が、後から来る。灰狼亭で食べたものより、ずっとガノンの味だった。

 

 「うまい」

 俺は言った。ガノンは鼻を鳴らす。

 

 「それだけか」

 「灰狼亭よりうまい」

 「当たり前だ、馬鹿野郎」

 

 そう言いながら、ガノンは少しだけ笑っていた。俺は海を見た。

 

 潮の匂いは、まだ少し苦手だ。血と泥と濡れた鉄の匂いを思い出す。だが今は、その上に鍋の湯気が重なっている。

 

 焼いた魚と香草と、温かいパンの匂いがある。アンジェの笑い声がある。セラが匙を吹く音がある。ガノンの鍋をかき混ぜる音がある。悪くない。夕暮れが海に落ちていく。

 

 店の灯りが、テラスの手すりを淡く照らしている。港へ帰る船があれば、この灯りを見るだろう。

 

 北門から帰ってくる冒険者がいれば、鍋の匂いに気づくだろう。寒い道を歩いた者が、扉を開けるかもしれない。

 

 その時、ここに火がある。片腕の料理人がいて、鍋が煮えている。仲間がいて、帰る場所がある。そうだ。取り戻したのだ。全てではない。それでも、俺は人生を取り戻した。

これにて「氷河期世代の冒険者」の完結となります。これまでの応援感謝です! 

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