やり直し
ただ、真っ暗な空間に俺は浮かんでいた。死んだのか。そう思った。なら、地獄だろうか。
戦場で殺した魔物の数は覚えていない。人間だって、たぶん間接的には死なせている。ろくな場所には行けない。そう思ったとき、声がした。
『ロイド』
女の声だった。静かで、冷たくて、それでいてどこか懐かしい声。
『あなたには、為すべきことがあります』
俺は笑おうとした。声が出ない。為すべきこと? 今さら?
三十四年も負け続けて、最後にようやく子供一人助けただけの男に?
『もう一度、人生をやり直しなさい』
言葉の意味を問い返す前に、闇の中へ光が差した。まぶしい。目を閉じようとした。
その瞬間、まぶたの感覚が戻った。指先が動く。喉が乾いている。布団の匂いがする。古い木材と、湿った藁と、薄い石鹸の匂い。
俺は目を開けた。知らない天井ではない。見覚えがあった。古い安宿の一室だ。壁の染み。窓枠の傷。机の上に置かれた、口の欠けた水差し。
「……生きてる?」
声が出た。俺は体を起こした。痛みがない。最初にそう思った。脇腹に手を当てても、狼に裂かれたはずの傷がない。なぜだ? 村人が治療してくれたのか?
左腕を見るが噛み跡もない。それどころか、身体が軽かった。
鉛を詰められたようだった肩。冬になるたび軋んだ膝。冷気を吸うだけで焼けるように痛んだ肺。戦気を燃やしすぎた夜に、眠れないほど疼いた腰。
その全部が、嘘みたいに静かだった。俺は恐る恐る息を吸った。冷たくない。痛くない。肺が、焼けない。
「……なんだ、これ」
それは快適というより、不気味だった。痛みがない身体なんて、いつ以来だ。戦場に行く前か。いや、その頃の感覚すら、もう思い出せない。
俺は部屋の隅にある小さな鏡へ近づいた。そこに映っていたのは、三十四歳の疲れたCランク冒険者ではなかった。
頬は痩せているが、まだ張りがある。目の下の濃い隈はない。髭も薄い。白髪もない。肌には戦場帰り特有の荒れが残っているが、それでも若かった。
「……は?」
間抜けな声が出た。部屋を見回すと見おぼえがあった。ここは、俺が駆け出しの頃に住んでいた安宿だ。
家賃が安い代わりに壁が薄く、隣の男のいびきが毎晩聞こえた。下の食堂の豆スープが薄くて、よく文句を言っていた。そんなことまで覚えている。
俺は部屋を飛び出した。階段を駆け下り、宿の外へ出る。
朝の街だった。市場の準備をする商人。石畳に水をまく女。木箱を運ぶ少年。まだ新しい看板。今はもう潰れたはずのパン屋。全部、昔の記憶の中の街だった。
通りすがりの老人が、俺を怪訝そうに見る。俺は思わず、その腕を掴みそうになった。だが寸前で止める。声だけが先に出た。
「なあ今、何年だ」
「なんだね、朝から」
「いいから、暦を教えてくれ!」
老人は眉をひそめた。酔っ払いを見る目だった。まあ、無理もない。だが俺には、それどころではなかった。
「頼む。今の年号を言ってくれ」
老人はしばらく俺を見てから、面倒そうに答えた。帝国歴七二十年。つまりは十四年前の年号を。頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
俺はその場に立ち尽くした。二十歳。
戦争が終わり、社会に放り出され、何をすればいいのかも分からず、ただ冒険者ギルドの底辺で食いつなぎ始めた年。
十五歳で戦場に送られた俺たちが、ようやく帰ってきて。けれど、帰る場所なんてもうどこにもなかったと知った年。
まだ、Bランク昇格期限までは十四年ある。まだ、身体は壊れきっていない。
まだ、俺は何も取り戻せていない。だが、まだ、何も失い切ってもいない。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。嬉しかった。取り返せるかどうかなんて分からない。
変えられる保証なんてどこにもない。また失敗するかもしれない。また誰かを救えないかもしれない。
また、俺は同じように壊れるのかもしれない。それでも、取り返そうとする時間がある。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
そして胸の奥で、冷え切っていた何かに火がついた。それは希望なんて綺麗なものじゃなかった。怒りだった。未練だった。みっともないほど消え残った、報われたかったという願いだった。
俺は拳を握った。今度は違う。今度は、ただ流されない。奪われるだけで終わらない。ギルドの査定表に、俺たちの人生を赤字として書かせない。
時代遅れの一言で、戦場に立った人間を廃棄品にさせない。俺たちみたいな、使い潰されて終わる人間が、終わらずに済む戦い方を作る。氷河期世代を捨てた社会に正義の請求書を突き付けてやる。そうだ、俺の戦いはここから始まるんだ。
俺は、俺の人生を――
「全部、取り返す」
小さな声と共に二回目の人生が始まった。




