撤退戦
「くそったれ!」
俺は振り返って走った。息が切れる。肺が焼ける。冷たい空気を吸うたび、胸の奥へ氷片を突き刺されるみたいだった。
咳を噛み殺しながら山道を駆ける。夕闇は既に濃く、木々の間には青黒い影が沈み始めていた。
まずい。完全に夜になる前に戻らなければ。狼は暗くなってから本格的に動く。
飢えた群れなら尚更だ。三十四歳の身体は、若い頃みたいには動かない。
それでも走る。もう何年も、こうやって走ってきた。誰かを助けるために。誰かを死なせないために。そして大抵、その結果、自分が損をした。
倒木の陰が見えた。斜面を滑るように駆け下りた。枝が顔を掠める。雪が跳ねる。藪を突き抜けた瞬間——。
いた。少年が。火の傍で、腰を抜かしている。
その周囲を囲んでいたのは、灰色の獣だった。狼。四頭。冬毛で膨らんだ身体。飢えた黄色い目。低い唸り声。火を警戒しながら、じりじり距離を詰めている。少年は顔を真っ青にしていた。
「お、おじさん……!」
その瞬間、一頭が飛び掛かる。体が反射で動く。
「下がれ!!」
剣閃。鉄の光が夕闇を裂く。狼の身体が吹き飛び、雪の上を転がった。血飛沫。熱い獣臭。残り三頭が一斉に距離を取る。低く唸る。
俺は少年の前へ立った。改めて剣を構える。若い回避型なら、一旦距離をとっただろう。軽い装備で斜面を駆け、狼の包囲を抜け、山道で布陣。それが今の冒険者の正解だ。敵の正面に立たない。受けない。足を止めない。
生き残るためには、その方が正しい。だが、背後には足を怪我した子供がいる。逃げられない者がいる時、戦い方は変わる。
誰かが前に立たなければならない。誰かが牙を受け、足を止め、時間を稼がなければならない。
息が白い。心臓が速い。だが頭は妙に静かだった。戦場の感覚。久しく忘れていた感覚が戻ってくる。
敵数確認。地形確認。退路確認。雪で足場は悪い。左側は斜面。右側は倒木。正面は開けている。
囲まれるとまずいな。俺はゆっくり位置を変え、倒木を背にした。これで左右からは来れない。正面だけ見ればいい。多対一で生き残るための基本。
狼たちは警戒していた。対峙している男が弱っていることは分かる。だが同時に、危険だということも理解している。
獣は馬鹿じゃない。特に冬を生き延びる個体は。俺は視線を動かさない。
「……坊主、火を絶やすな」
「う、うん……!」
「あと俺の後ろから出るな」
少年は必死に頷いた。狼の一頭が、低く姿勢を落とす。来る。俺は重心を下げた。
瞬間。二頭同時に飛び掛かる。
「っ!」
俺は半歩だけ前へ出た。避けない。受ける。左の狼へ体当たり気味に剣を叩き込み、そのまま肩で押し返す。
もう一頭の牙が肩当てを噛む。衝撃。鈍い音。俺は肘で狼の鼻面を殴りつけた。悲鳴。雪へ転がる。だが呼吸が苦しい。
「……っ、げほ!!」
肺が痛む。視界が一瞬揺れる。狼たちは、その隙を見逃さない。横から一頭が回り込む。
「チッ!」
俺は雪を蹴って位置を変える。斜面側へ誘導。数を活かさせない。これは戦場でも同じだった。狭所へ押し込め。包囲を潰せ。敵の強みを殺せ。今の若手冒険者は、こういう戦いを嫌う。
泥臭くて、効率が悪いからだ。だが、事故は必ず起きる。撤退戦も。孤立も。時間稼ぎも。戦場では絶対に消えない。
剣を構えたまま呼吸を整える。
「っ……はぁ……」
肺が痛い。吸うたび焼ける。戦気を使った反動も出始めていた。
視界の端が微かに揺れている。だが狼たちはまだ下がらない。仲間が二頭傷ついているにも関わらず、じりじり包囲を維持している。
飢えているのだ。冬の獣はしつこい。特に人間を狩れると判断した群れは。俺は剣先を少し下げた。力を抜く。肩の緊張を殺す。長時間戦う構えだ。
その時だった。遠くから光が見えた。揺れる火。松明。
「おーい!!」
人の声。山道の向こうから、複数の人影が駆けてくる。
猟師たちだった。毛皮外套。槍。弓。そして、その先頭には髭面の中年男。少年が顔を上げる。
「父ちゃん!!」
男の顔色が変わった。
「リオ!!」
村人たちが駆け寄る。狼たちは低く唸りながら距離を取った。数が増えたことで警戒している。だがまだ退かない。俺は少年の襟首を掴み、村人の方へ押し出した。
「坊主を連れて下がれ」
少年の父親が俺を見る。その視線で状況を理解したようだ。
「アンタが助けてくれたのか……!」
「説明は後だ。今は動け」
俺は狼から目を離さない。父親は急いで少年を抱き抱える。少年は涙目で俺を見る。
「おじさんも来てよ!」
「いいから行け、走れ!!」
怒鳴った瞬間、狼たちが反応した。一頭が飛ぶ。俺は即座に前へ出る。剣を叩き込む。骨を割る感触。狼が雪の上をのたうち回る。
「っ……!」
同時に肺が軋む。息が苦しい。だが後退しない。村人たちは既に撤退を始めていた。少年の父親が叫ぶ。
「アンタも早く——!」
「まだだ! 今動けば追われる!」
これは撤退戦だった。狼の群れは逃げる背中を狩るのが大得意だ。誰かが殿をやらなければ、全員喰われる。
俺は知っている。戦場で何度もやった。吹雪の砦。崩壊した防衛線。撤退戦の最後尾。それが殿だ。それが俺たち重装前衛の役目だった。
狼たちは包囲を狭めてくる。五頭。いや、木々の奥にまだいる。群れだ。まずい。長引けば死ぬ。だが、それでも、ここで退くわけにはいかなかった。
「……行ったか」
ちらりと後ろを見る。松明の灯りが遠ざかっている。村人たちは少年を連れて下山を始めていた。それを確認し、ゆっくり息を吐く。白い。肺が痛い。視界が滲む。
「さて……」
剣を握り直す。手が震えていた。寒さか。疲労か。後遺症か。多分全部だ。
狼たちが唸る。暗闇の中で黄色い目が光る。俺は苦笑した。昔なら、この程度もっと楽だった。もっと動けた。もっと強かった。
だが今は違う。三十四歳の壊れかけた身体。古傷。戦気焼け。氷河期世代の成れの果て。
それでも剣を下ろさない。狼が飛ぶ。俺は半歩踏み込む。斬撃。血飛沫。雪。牙。衝撃。視界が一瞬だけ揺れた。
そして、その一瞬だった。死角。雪の陰から、もう一頭が低く走り込んでくる。気付くのが、ほんの少し遅れた。横合いから、灰色の影が跳んだ。
「っ——」
反応はした。だが遅かった。狼の牙が、脇腹へ深々と食い込む。鈍い衝撃。鎧が裂ける音。次の瞬間、焼けるような激痛が走った。
「がッ……!」
身体が雪の上へ叩きつけられる。
息が抜けた。視界が白く弾ける。狼はすぐ離れた。深追いしない。弱った獲物が死ぬのを待つ動きだった。俺は雪の上で呻いた。
「っ……は……ぁ……」
呼吸が出来ない。脇腹が熱い。いや、熱いのは最初だけだった。すぐに冷たくなっていく。血だ。大量に流れている。
雪へ赤黒い染みが広がっていく。冬の空気が傷口へ入り込み、内臓を直接撫で回されているみたいに痛かった。
俺は歯を食いしばり、無理やり起き上がろうとする。だが身体へ力が入らない。
指先が痺れる。剣を握る感覚が薄い。狼たちは距離を取りながらこちらを見ていた。
黄色い目。静かな視線。獲物が弱るのを待っている。俺は雪へ片手を突いた。冷たい。感覚が鈍い。
「……っ、クソ……」
声が掠れる。遠くで村人の声が聞こえた気がした。少年の泣き声も。無事、逃げられたらしい。それだけ確認すると、小さく息を吐いた。白い。その白さが、すぐ闇へ溶けていく。
空を見上げると、木々の隙間から暗い空が見えた。雪が降り始めていた。細かい雪。冷たい。頬へ落ちる感触だけが妙にはっきり分かる。
ぼんやりと思う。ああ死ぬんだな、と。不思議なくらい、恐怖はなかった。戦場で何度も死を見てきた。
仲間が死ぬのも自分が死にかけるのも。見慣れている。だから分かる。これはもう駄目だ。俺は薄く笑った。
「……まあ、いいか」
声は雪へ吸われるみたいに小さかった。
「一人……助かったなら……」
それで十分だ。そう思おうとする。だが、胸の奥に、別の感情が残っていた。
消えない。諦めきれない。震える息を吐く。
「……いや違う、な……」
血が口から溢れた。視界がぼやける。遠くで狼が唸る。だがもう襲ってこない。死ぬのを待っている。俺は雪の上で天を見上げたまま、掠れた声を漏らした。
「本当は……俺だって……」
白い雪が頬へ落ちる。冷たい。その冷たさだけが妙に優しく感じた。視界が暗くなる。身体の感覚が遠い。昔の記憶が浮かぶ。戦場。吹雪。エルナ。ガノン。ギルド。酒場。
何も成し遂げられなかった人生。Cランク。中年。氷河期世代。国に使い潰され、社会に回収されなかった人間。それでも。
「……報われたかった、な……」
最後の言葉は、ほとんど息だった。手から剣が滑り落ちる。雪へ沈む。狼たちがゆっくり近づいてくる。
だがその姿も、もう見えない。視界が暗い。寒さも消えていく。音が遠い。
そして、俺の人生は、静かに終わった。
ブクマ、感想等々、励みになりますのでよろしくお願いします。




