不器用な生き方
山道を吹き抜ける風は冷たく、息を吸うたび肺の奥が軋む。俺は外套の襟を掴み、首元を押さえる。冷気が喉へ刺さる。
「……っ、げほ」
小さく咳が漏れた。胸の奥が焼ける。
戦気焼けだ。戦気とは、人間の生命力そのものを循環させる、冒険者にとって必須の技術だ。
若い頃、何度も身体を無理やり燃やした代償。戦場では便利だった。筋肉は動き、痛みは消え、死にかけても前へ出られた。だから皆、使った。使わなければ死んだからだ。そのツケが、今になって身体を食い潰している。
山道は荒れていた。凍った泥。露出した岩。踏み固められた雪。
ブーツの底が石を踏むたび、硬い感触が足裏へ響く。湿気を吸った革鎧は重く、肩当てが歩くたび鈍く軋んだ。
遠くで鳥が鳴く。冬の山特有の静けさだった。生き物の気配が少ない。その代わり、時折風に混じって獣臭が流れてくる。
俺は無意識に剣の柄へ触れた。魔界との境界圏の山道では珍しくない。狼。牙犬。飢えた低級魔物。冬は餌が減る。魔物も獣も、人里近くまで降りてくるのだ。
空を見上げると、日没が近い。依頼地の隣町フェルドまでは、あと三時間ほど。
本来なら馬車を使う距離だが、急募依頼だったせいで足がなかった。徒歩。三十四歳の身体には少し堪える。
「……クソ」
吐き捨てるように呟く。昔なら、この程度の山道で息は上がらなかった。
戦争中はもっと酷い場所を歩いた。吹雪の中。血の海の上。三日間眠らず、それでも進んだ。進むしかなかった。だが今は違う。身体が明確に衰えている。膝は痛むし、肩は重い。肺は壊れている。
風が強くなると、木々が揺れ、枝に残った雪がぱらぱらと落ちた。
頭の中では、ずっと同じ計算をしていた。この依頼を成功させれば、Bランク昇格条件へ届く可能性がある。
昇格査定。評価点。危険任務補正。緊急依頼だから加点は大きい。うまくいけば間に合う。三十五まで。あと数週間。
このクエストを終えれば、Bランクだ。
Bランクになれば、受けられる依頼が増える。報酬も上がる。医療補助も受けられる。部屋の家賃に怯えなくて済む。古い剣を買い替えられる。毎日、安い豆の煮込みを食わなくてもいい。
何より、証明できる。俺は終わっていない。三十四歳のCランクでも、まだ上がれる。そう思ったときだった。
「……血?」
雪の上に赤黒い染みがあった。目が細くなる。風の音。木々の軋み。
そして、微かに、何かを押し殺したような、うめき声。俺はゆっくり剣の柄へ手を掛けた。夕闇の山道が、急に静かになる。血痕は、道脇の藪へ続いていた。
腰を落として、ゆっくり藪へ近づいた。雪を踏む音を抑える。呼吸を浅く。視線は左右。血痕の量は多くない。なら大型魔物ではない。
だが油断はできなかった。境界圏では、負傷者を囮にする魔物もいる。
剣を半ば抜きながら藪を掻き分ける。湿った枝が外套へ引っ掛かった。冷たい雪が首筋へ落ちる。その瞬間。
「……ひっ!」
小さな悲鳴。俺は反射的に剣を構えた。だが次の瞬間、藪の奥で震えていたのは、魔物ではなかった。
子供だ。十二、三歳くらい。痩せた少年だった。粗末な毛織服。擦り切れた靴。雪で濡れた栗色の髪。
左脚を押さえている。血が滲んでいた。少年は怯え切った目で俺を見る。その腕には、小さな木箱が抱えられていた。薬箱だった。俺は剣を下ろす。
「……人間か」
少年は何か言おうとして、唇を震わせた。
「おい」
俺は駆け寄った。少年はびくりと肩を震わせた。
「大丈夫か」
少年が持っていた布袋の中には、小さな薬瓶が入っていた。割れてはいない。少年の顔は青い。痛みだけではない。疲労と恐怖で震えている。
周囲を見回す。魔物の気配はない。少なくとも今は。俺はゆっくりと近づいた。
「怪我を見せてみろ」
少年はびくりと肩を震わせたが、抵抗はしなかった。俺は膝をつく。雪が鎧越しに冷たい。
傷を見る。足首の捻挫。加えて岩で切った裂傷。痛いだろうが深くはない。
「……一人か?」
少年が小さく頷く。
「なんでこんな時間に山道を歩いてた」
「……母さんの、薬……隣町まで買いに……でも、転んで……」
山越えの町フェルドには薬師がいる。この辺りの村人は、病人が出ると命懸けで山を越えるしかない。冬場なら尚更だ。
「家はどこだ」
「……南の森……」
かなり戻る方向だった。空を見ると夕暮れが深い。日没までもう長くない。このまま夜になれば山は危険だ。狼が出る。魔物も動く。
だが——。俺の脳裏に別の計算が浮かぶ。
ここから反対方向の少年の村まで戻るとする。送り届けた後、再び山道へ出る。
往復で数時間だ。依頼地到着は深夜になる。集合時刻は午後9時、開始に間に合わない。
緊急依頼だ。遅延は致命的になり得る。評価点も下がる。つまり、Bランク昇格が消える。
少年が不安そうにこちらを見る。
「あの……おじさん?」
その呼び方に、俺は少しだけ眉を動かした。三十四歳。もうそう呼ばれる年齢なのかもしれない。
「……足を出せ。応急処置だ」
少年の顔に、少しだけ安堵が浮かぶ。俺は革袋から包帯を取り出した。応急処置だ。戦場で何百回もやった。自分で。仲間で。知らない兵士で。少年が痛みに顔を歪める。
「いっ……!」
「我慢しろ」
俺は淡々と言った。包帯を締めて足首を固定。その後、小枝を集めて火を起こす。
乾燥した苔へ火花を落とすと、弱々しい炎が揺れた。周囲へ少しだけ熱が広がる。保存食の干し肉を取り出し、少年へ差し出した。
「食え」
少年は恐る恐る受け取る。腹が減っていたのだろう。すぐに齧りついた。
俺はそれを見ながら、無言で空を見上げた。暗い。まずいな。ここで時間を使いすぎている。依頼に間に合わなくなる。
俺は拳を握った。そして、ようやく決断する。
「……いいか」
少年が顔を上げる。
「火を絶やすな。朝になれば街道へ人が来る」
俺は背嚢から毛布を取り出し、少年の肩にかけてやった。
「おじさんは?」
「俺には……仕事がある。もう行かなきゃならない」
少年の目が揺れた。
「そっか。助けてくれてありがとう、おじさん」
行かないでくれ、とは口にしなかった。だから余計に苦しかった。俺はその目を見ないように立ち上がった。
「薬瓶は割れてない。お前は大丈夫だ」
誰に言っているのか分からなかった。少年にか。自分にか。
俺は山道へ戻った。一歩。二歩。三歩。背中に少年の視線を感じる。
構うな。俺には時間がない。俺だって、もう十分に奪われた。
15歳で戦場に送られた。教育も職も得られなかった。仲間も失った。だが国は何も返さなかった。
最後のチャンスくらい、俺が受け取ってもいいだろう。俺が俺の人生を優先して、何が悪い。誰に非難する権利がある。
だが、胸の奥で別の声がした。無理しないでくださいね。エルナの声だった。違う。これは無理じゃない。これは必要なことだ。
村人も今頃は探しに来てるだろう。合理的に考えれば、俺が進むべきだ。
戦場でもそうだった。助けられない者を助けようとすれば、結局は部隊全員死ぬ。切り捨てる判断が、生存率を上げる。俺はそうやって生き残った。生き残ってしまった。
「くそ」
三十五歳まで、あと二週間。ここで失敗すれば、自分の人生は終わる。
もう若くない。やり直しも利かない。氷河期世代ってのは、そういう世代だ。一度転べば終わり。誰も助けちゃくれない。
だから本来なら、切り捨てるべきだった。自分が生き残るために。自分の人生のために。
——なのに。脳裏には、古い戦場の光景が浮かんでくる。
吹雪。血。崩れた防壁。そして、自分を突き飛ばしたガノンの姿。
『下がれ、ロイド!!』
次の瞬間、魔物の牙がガノンの右腕を食い千切った。雪へ血が飛び散る。絶叫。白い息。赤黒い雪。
俺は思わず立ち止まった。
「……何の得にもならなかった」
ガノンは英雄になれなかった。勲章も貰えなかった。腕を失い、料理人の夢を潰され、今は酒場で皿を運んでいる。国は何も報いなかった。社会も。それでも、あいつはあの時俺を庇った。恨み言一つも言わずに。
俺は拳を握る。爪が掌へ食い込む。
「ああ、ちくしょう」
笑ってしまう。乾いた笑いだった。
「結局、こういう時に切り捨てられないから……」
風が吹く。白い息が揺れる。俺は、自嘲気味に呟いた。
「だから俺は、ダメだったんだろうな」
氷河期世代。落ちこぼれ。中年Cランク。
何一つ上手くいかなかった人生。もっと冷たくなれれば違ったのかもしれない。もっと合理的なら。他のやつらみたいに自分だけを優先できれば、成功できたのかもしれない。
だが、出来なかった。
「くそったれ!」
俺は振り返って走った。




