緊急依頼
俺はギルドを出た。空は鉛色で、冷たい風が頬を打った。石畳の隅に溜まった雪が、泥混じりに黒く変色している。
それでも街路を歩く人々の顔は明るい。市場には焼き菓子の匂いが漂い、子供たちが木剣を振り回して笑っている。
平和だった。俺たちが失ったものの上に積み上がった、穏やかな平和だった。
若い冒険者たちが笑いながら通り過ぎた。軽い足取り。未来のある歩き方だ。
俺はふと、自分の足元を見る。使い古した重い革靴。泥。擦り減った金具。まるで自分の人生そのものみたいだった。
昼前だというのに、酒場《灰狼亭》は薄暗かった。窓が小さいせいもある。だが、それ以上に、この店には昼の光が似合わなかった。
扉を開けた瞬間、熱気と油臭さが押し寄せてくる。焦げた肉。酸っぱい酒。しわくちゃの外套。
氷河期世代の人間ばかりが集まる店特有の臭いだった。店内では、くたびれた冒険者たちが昼間から酒を煽っている。
義手の男。片目の男。脚を引きずる元兵士。誰も大声では笑わない。酒を飲んでいるというより、時間を潰している顔だった。
店の隅には、昔、重装前衛だった男が座っていた。
氷河期戦争の頃、あいつは魔物の突進を盾で止めることで知られていた。
防壁が破られた時、最後に残るのはいつもあいつの盾だった。だが、今は、椅子から立ち上がるだけで顔を歪ませる。木杯を持つ手も震えている。寒い日は階段も上れない。
若い冒険者たちは、ああいう姿を見て学んだのだろう。受けるな。耐えるな。前に立つな。死なないためには、避けろ。
俺たちの戦い方は、いつの間にか勝つための技術ではなく、壊れるための技術として語られるようになっていた。
店主は俺を見るなり、何も言わずに安酒を置いた。俺の顔に何が書いてあったのか、自分では分からない。
酒は薄かった。だが喉を焼くには十分だった。一杯。二杯。三杯。飲むほどに、腹の底に溜め込んでいたものが浮いてくる。
俺は何を間違えた? どこで間違えた?
戦場で逃げなかったことか。仲間を助けようとしたことか。戦争が終わった後、腐らずに冒険者になったことか。Eランクから一つずつ実績を積んできたことか。
俺は努力した。たぶん、努力した。だが、努力は時代と期限に勝てなかった。
椅子にもたれ、天井を見上げる。梁に積もった埃が、午後の光に照らされていた。何もかもが馬鹿らしい。
そのとき、カウンターの奥で、店員がちらりとこちらを見た。
「……昼間から随分と景気悪そうじゃねえか」
低い声だった。俺が顔を上げると、そこにいたのは大柄な男だった。
右袖は空のまま、腰の位置で結ばれている。無精髭。日に焼けた顔。だが目だけは妙に優しかった。
「久しぶりだな。ガノン」
「昨日も来ただろうが。ボケたか?」
「そうだったか。まあ三十四だからな。若い奴から見ればもう老人だろ」
ガノンが鼻で笑う。その笑い方は昔と変わっていなかった。
俺は少しだけ肩の力を抜く。ガノンは同世代の戦友だった。
氷河期戦争の時、同じ前線にいた男。俺が死にかけた時、こいつは自分の右腕を犠牲にして俺を庇ってくれた。
元々、ガノンは料理人志望だった。戦争が始まる前は、帝都の有名店へ弟子入りする予定だったらしい。
だが徴兵された。腕を失った。そこでガノンの夢は終わった。片腕ではまともな店では料理人として雇われない。
今は酒場で配膳をしている。木杯を運ぶだけの仕事だ。ガノンは乱暴に酒を置いた。薄い安酒。ほとんど薬品みたいな匂いがする。
「ツケは増やすなよ」
「増やせる信用がまだ残ってるだけマシだろ」
「ははっ、違いねえ」
俺は追加の酒を流し込む。喉が焼けた。胃が熱い。空腹の身体にアルコールが回るのが早い。
しばらく二人とも黙っていた。店内では、誰かが小さく咳き込んでいる。厨房からは肉を焼く音。窓の外では荷車が石畳を軋ませて通り過ぎていく。
戦争が終わっても、世界は続く。自分たちだけ置き去りにして。
「……で? その顔は何かあった顔だな」
ガノンが口を開いた。
「何もねえよ」
俺は無理やり笑った。
「ある時の顔だな。また仕事飛んだか?」
俺の手が止まる。ガノンはその反応を見て、深く溜息を吐いた。
「図星か……」
「依頼主が直前で変更だとさ」
「あー……」
ガノンは天井を仰いだ。
「もしかして、新型探索組か」
「よく分かるな」
「最近どこもそれだ。高速探索、高速回収、高速撤退。今さら重装前衛なんか流行らねえよ」
淡々とした声だった。慰めではない。ただ事実を言っているだけ。それが逆に痛かった。
「まあ、しゃーねえよ。時代だ」
その言葉に、眉がぴくりと動く。嫌というほど聞いた言葉だった。時代。効率。最適化。合理化。その全部が、自分たちを切り捨てるための言葉に聞こえる。ガノンは静かに言った。
「なあ、もう諦めろ、ロイド」
俺の目が細くなる。
「……何をだ」
「わかってんだろ。Bランクだよ」
酒場の空気が少しだけ静まった。近くの席の中年冒険者が、ちらりとこちらを見る。誰も口は挟まない。
「三十五まであと何日だ? 今さら昇格して何が変わる?」
俺は答えない。いや答えられない。ガノンは続ける。
「身体もボロボロだ。戦争での後遺症も治るどころか、悪化してんだろ」
「じゃあどうしろってんだ」
俺は酒杯を乱暴に置いた。テーブルが軋む。
「辞めろ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃねえよ!」
珍しくガノンが声を荒げた。店内が静まり返る。厨房の音まで止まった気がした。ガノンは片腕の袖を掴む。
「俺だって諦めたくて諦めたんじゃねえ!」
低い怒声だった。
「料理人になりたかった」
その一言だけで、空気が変わる。誰も笑わない。笑えない。
この店にいる連中は、多かれ少なかれ似たような夢を失っている。鍛冶師。教師。商人。職人。戦争が全部潰した。俺は歯を食いしばった。
「なあ、ロイド……俺たちは戦ったはずだよな。国のために、人類を守るために……」
途中で言葉が詰まった。怒鳴りたいのに。叫びたいのに。胸の奥から出てくるのは、怒りより疲労だった。
「なのに、なんで……」
続きが出ない。ガノンは何も言わなかった。俺は拳を握る。震えていた。怒りか。後遺症か。もう自分でも分からない。
その時だった。酒場の扉が、勢いよく開いた。冷たい風が吹き込む。
「ロイドさん! 探しました……!」
エルナだった。息を切らし、頬を赤くし、片手に書類を握っている。普段の彼女らしくない。
酒場中の視線が集まる中、彼女は真っ直ぐ俺の元へ駆け寄った。
「……どうした」
エルナは肩で息をしながら、一枚の依頼票を差し出した。
「急募依頼が入ったの」
そこで彼女は、一瞬だけ言葉を止めた。そして、静かに続ける。
「未帰還調査隊の捜索任務。高危険度指定……でも、成功すれば評価点が大きいです。……Bランク昇格条件、届くかもしれません」
酒場の空気が変わった。俺は黙って依頼票を見た。紙には、赤い緊急印が押されていた。赤い緊急印。その色だけが、妙に鮮やかに見えた。酒場の薄暗い空気の中で、それは血みたいだった。
俺は無言で依頼票を受け取る。羊皮紙は冷たく湿っていた。エルナが走ってきたせいか、端が少し汗で滲んでいる。
【緊急依頼】【旧監視塔区域】【未帰還調査隊捜索】
危険度――B級相当。その文字を見た瞬間、俺の眉が動いた。
「……随分デカいな」
「本来ならBランク以上向けよ」
エルナは呼吸を整えながら言う。
「でも、上位パーティーが出払ってる。北方の魔物発生で、高ランク勢がそっちへ回されたの」
「だから穴埋めか」
「……そう」
俺は依頼票へ目を落とした。未帰還調査隊。この手の依頼は大抵ろくなことにならない。調査隊が消える時は、大体二種類だ。全滅したか。良くない何かを見つけたか。ガノンが険しい顔になる。
「やめとけ。B級相当だぞ。今のお前じゃ——」
「今の俺だからだろ」
俺は小さく笑った。だが、その笑みには熱がなかった。自嘲だった。
「どんなに危険でも、もうこれに賭けるしかないんだ」
俺は依頼内容を読み進めた。旧監視塔区域。魔界寄りの外縁地帯だ。昔、帝国軍の前線監視塔が並んでいた地域。氷河期戦争では激戦区だった。今は半分放棄されている。理由は単純。危険すぎるから。
「依頼主は?」
「帝国北方資源局よ」
「……官製か」
面倒だな、と俺は思った。帝国案件は危険度の割には報酬が低い。その癖、責任だけは重い。だが、ギルド内部の評価基準において緊急依頼の達成点は大きい。この依頼を果たせば、本当にBランクへ届く可能性がある。
俺は無意識に自分の右手を見た。少し震えていた。疲労。後遺症。あるいは年齢。三十四歳。冒険者としては若くない。全盛期はとうに過ぎた。肺は焼け、関節は軋み、寒い日は古傷が疼く。
それでも。それでも、まだ諦めきれなかった。
「ロイド」
エルナが不安そうにこちらを見る。
「断ってもいいのよ」
「断ったら?」
彼女は答えなかった。答えられない。自分自身、分かっている。次はない。これが最後だ。ガノンが低い声で言う。
「死ぬぞ」
俺は酒を飲み干した。薄い安酒が喉を焼く。
「今さら命惜しがってもな」
「バカ野郎」
立ち上がる。その瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
一瞬だけ呼吸が止まりそうになる。戦争の後遺症。肺が軋む。だが俺は表情を変えなかった。もう慣れている。ガノンはそれを見て、顔をしかめる。
「……本当に行くのか」
「行くしかねえだろ」
ガノンは乱暴に頭を掻いた。そして厨房の奥から、小さな包みを持ってくる。
「持ってけ。干し肉だ。昨日の余り」
「店のもんだろ」
「どうせ売れ残る」
俺は少しだけ笑った。
「借りとく」
「返さなくていい」
その言い方が妙に気に障った。まるで最後みたいだった。ロイドは視線を逸らし、外套を羽織る。エルナが小さく言う。
「ロイドさん、無理、しないでくださいね」
その言葉は妙に胸に残った。俺は笑おうとした。だが、うまくいかなかった。
「その、依頼書類は後で正式処理するから。先に北門で補給を受け取って」
「分かった」
短く答える。酒場の扉へ向かう。背後では誰も喋らなかった。皆、知っているのだ。こういう依頼から帰ってこなかった人間を。何人も。
俺は扉を開けた。冷たい風が吹き込む。灰色の空。雪混じりの空気。遠くで鐘が鳴っていた。
三十五まで、あと二週間。多分、俺の人生は泣いても笑ってもここで決まるんだろう。俺は白い息を吐き、北門へ歩き出した。
だが、この時はまだ知らなかったのだ。自分がもう一度、人生をやり直すことになることを。
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