突然の取り消し
「今朝、取り消しになりました」
周囲の音が一段と遠くなった。若い冒険者の笑い声。硬貨の鳴る音。依頼票を剥がす音。嫌な静けさだけが、妙にはっきり耳に残る。
「取り消し? 出発は今日の予定だ。依頼は受託済みだし、準備も終えてる」
「はい……分かっています」
「なら、どういうことなんだ」
エルナは唇を噛んだ。その沈黙でだいたい分かった。
「そうか……依頼主が、別の冒険者を指名したんだな」
「……はい」
「それは一体誰なんだ」
エルナは答えなかった。
だが、その必要はなかった。カウンターの向こう、ギルドの奥の扉から、派手な銀細工の鎧を着た若い男が出てきたからだ。
カイル・ヴァーレン。地方貴族の三男。年齢は33でBランク。剣の腕は大げさにいっても並。性格は下。だが親の顔が広い。ギルドでは、そういうものも実力に数えられる。
カイルは俺を見つけると、わざとらしく眉を上げた。
「おや、ロイドさん。どうしました? まさか、まだあの護衛依頼を受けるつもりだったんですか?」
周囲の若い冒険者たちが、ちらちらとこちらを見る。俺は無視しようとした。だが、カイルは楽しそうに続けた。
「いやあ、依頼主も不安だったんでしょうねえ。氷河期世代、いや失礼、三十四歳のCランクに、商隊の命運を任せるのは」
笑いが漏れた。小さな笑いだ。だが、こういう笑いはよく響く。そしてその一言で、全部が繋がる。年齢。ランク。信用。全部が足りない。
カイルはわざとらしく俺の装備へ視線を落とした。
「それに、今は護衛も速度の時代ですからね」
俺の肩当てが、冷えた空気の中で鈍く軋んだ。
「重い鎧でのそのそと歩いて、敵が来たら正面から受け止める。立派です。実にベテランらしい。でも、商人が欲しいのは英雄じゃない。荷を予定通り運べる冒険者です」
周囲の若い冒険者たちが、気まずそうに笑った。
「あなたのような重装前衛は治療費が高い。怪我も重い。移動も遅い。護衛対象に合わせて柔軟に動けない。依頼主からすると、ちょっと……古いんですよ」
古い。その一言が、妙に胸に残った。弱いと言われた方が、まだ殴り返せたかもしれない。だが古いと言われると、どうにもならない。
剣の腕でも、根性でも、実績でもない。俺という人間が、時代の側から不要品に分類されたような気がした。
「年齢制限、もうすぐでしたよね? 本当にお気の毒です」
――あと十四日。
頭の中で、数字が響く。二週間で、人生が決まる。成功か、失敗か。生きるか、消えるか。全てか。無か。
腹の奥が熱くなる。昔からそうだ。戦場で死に損なった人間より、カイルのように後から安全な場所で椅子に座っている人間の方が評価される。
魔界氷河期。
19年前、北方の魔界に突如として訪れた大寒波。凍りついた大地から逃げ出した魔物たちは、人間の領域へと流れ込んだ。魔王によって指揮された魔物たちは次々と国境の都市を陥落させていった。
帝国には時間も人手も足りなかった。だから俺たちの世代は、時間稼ぎの、使い捨ての兵士として徴兵された。まだ15歳だった。
本来なら、学校に行き、職を選び、失敗して、恋をして、くだらない夢を語っていたはずの年齢だ。
だが俺たちは剣と盾を持たされた。凍った泥の中で眠り、魔物の爪で仲間の腹が裂ける音を聞き、食料が尽きた夜には、誰が明日まで生き残れるかを無言で数えた。
五年後、国境線まで勢力を押し返し、氷河期戦争と呼ばれた長い戦いが終わった後、帝国政府は言った。都市の再建を優先するため退役兵への補償を打ち切る。各自、個人の努力で通常の社会生活へ復帰せよ。
通常の社会生活。笑わせる。十代後半を戦場に捨てた人間に、通常も何もあるか。
教育は受けられなかった。技能もない。故郷は魔物によって焼かれた。二十歳で退役した俺は冒険者として食いつなぐ以外に生きるすべはなかった。それでも俺はまだましな方だった。後遺症を抱えた仲間は働くこともできず、死んだ者は墓の下で文句も言えない。
いつしか俺たちの世代は、こう呼ばれるようになった。氷河期世代。戦争によって失われた世代という意味だ。凍ったのは魔界だけじゃない、俺たちの人生もだ。
「ロイドさん」
エルナの声で、俺は我に返った。彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
「すみません。私も抗議はしたんです。契約締結後の一方的破棄だから、違約金条項にも触れるって。でも、向こうが違約金を払うと言ってきて……」
「お前が謝ることじゃない」
「でも」
「いい。もういいんだ」
俺はカウンターから手を離した。爪が木に食い込んでいた。指先が痛い。エルナは少しだけ迷った後、書類の端を握りしめた。
「最近改定された査定基準だと……被弾率がより重く見られるの」
俺は彼女を見る。
「被弾率?」
「昔は、前衛が攻撃を受け止めたら評価された。護衛対象を守った。仲間を守った。そういう形で。でも今は違うの。傷を負った時点で、治療費と離脱リスクが計上される。どれだけ誰かを守っても、書類の上では損耗率が高い冒険者になる」
俺は笑った。笑うしかなかったからだ。
「つまり、真面目に守るほど評価が下がるってことか。俺にとっては死刑宣告だな」
エルナは答えなかった。その沈黙が、答えだった。
契約書をどれだけ読み込んでも、制度の側が切り捨てると決めた人間は守れない。盾になった人間は、守った人数ではなく、受けた傷の数で評価される。
それが今の冒険者ギルドだった。カイルが肩をすくめる。
「ご安心下さい、ロイドさん。あなたから引き継いだ護衛任務。僕が必ず成功させてみせますから」
俺は何も言わなかった。言ってしまえば、たぶん殴っていた。
殴れば、俺の負けだ。冒険者ギルドで暴力沙汰を起こしたCランクの中年冒険者。昇格どころか、資格停止処分。それは永遠の人生の敗北を意味する。
俺はゆっくりと受付から離れた。
「エルナ。面倒かけるが、俺宛の依頼が来たら、また連絡を頼む」
「ロイドさん……!」
エルナが顔を上げる。だが、その先の言葉が出ない。彼女にも分かっている。どうしようもないのだ。
「……ごめんなさい」
結局、彼女はそれしか言えなかった。隣の若い受付嬢が書類を片付けながら言う。
「まあ、まだ時間はあるんですよね? 誕生日まで二週間くらいは残っていますし」
どこまでも軽く、他人事の口調だった。だが俺には、その言葉が妙に遠く聞こえた。二週間。たった二週間。その間にBランクへ上がれなければ終わりだ。
昇格審査資格喪失。年金受給資格剥奪。中年Cランクに待っているのは、二つの運命だ。壊れるまで、誰もやりたがらない危険な仕事を回されるか。あるいは、静かに消えるか。
俺達氷河期世代は国を守った英雄のはずだった。なのに、現実は戦後不況の邪魔者、再訓練コストの高い不良在庫。それが戦後14年間の社会の本音だった。
気付けば、俺は無意識に拳を握っていた。右肩の古傷が軋む。戦場で槍を受けた場所だ。
「……っ」
呼吸が浅くなる。胸が重い。だが、それ以上に苦しかったのは別の感覚だった。空っぽだった。身体の真ん中に穴が空いたみたいに。
何年も。何十年も。必死にしがみついてきたものが、今、静かに剥がれ落ちていく。
「……酒場に行ってくる」
俺はそれだけ言って、歩き出した。背後でエルナが何か言いかけた。しかし結局、その声は喧噪に飲まれて消えた。
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