当たり依頼
ギルドに行くと、朝の喧騒はそのままだった。掲示板の前で騒ぐ若い冒険者たち。受付に並ぶ列。書類を運ぶ職員。一度目の人生の時と、ほとんど変わらない光景。違うのは、俺の視点だけだ。
俺は掲示板に近づいた。羊皮紙を一枚一枚、目で追う。討伐依頼。護衛依頼。採取依頼。
この中にあるはずだ。当時は気づかなかった、だが後になって「当たり」だった依頼。記憶を掘り起こす。
あの頃、俺はただ日銭を稼ぐことしか考えていなかった。報酬の額と危険度だけで選んでいた。
だが、今は違う。結果を知っている。失敗した依頼。全滅した依頼。逆に、莫大な利益を生んだ依頼。視線が一枚の紙で止まった。
《北東の森・魔物の巣調査(報酬:銅貨五枚)》
地味な依頼だ。討伐ではなく調査。報酬も安い。銅貨五枚。一週間分の食費にも満たない。だから当時、誰も受けなかった。
俺も受けなかった。だが――。
「……これだ」
数日後、その森の地下で魔力結晶の小鉱脈が見つかった。最初に見つけたパーティは、一気にランクを上げ、資金も手に入れた。持ち帰った結晶だけで数か月は暮らせるだけの金になった。
俺は、その話を酒場で聞いた。遠い世界の話として。今なら、それを自分のものにできる。
指が紙に触れたその時、横から声がした。
「やめといた方がいいぞ」
振り向くと、見覚えのある顔があった。粗雑な革鎧。無精ひげ。軽薄な笑み。ダラスだ。当時の俺と同じEランクで、何度か組んだことがある男だ。後に、無理な討伐で致命傷を負い引退した。俺は一瞬、言葉を失った。
「……なんだ、その顔。お化けでも見たのか」
「いや、別に」
ダラスは肩をすくめた。
「その依頼、割に合わねえよ。調査ってのは面倒なだけで金にならねえ。北東の森は魔物も多いしな」
「そうかもな」
「お前、金ねえんだろ? だったら南の採取依頼の方がいい。安全だし、確実に稼げる」
俺は内心苦笑した。確かに一度目の俺なら、そうしていた。安全で、確実で、失敗しない道。その積み重ねが、三十四歳のCランクを作った。俺は羊皮紙を剥がした。
「おい、それ受けるのか?」
「ああ」
ダラスは呆れたように笑った。
「まあ、好きにしろ。死ぬなよ」
――死ぬなよ。冒険者にとってはあいさつみたいなものだ。それでも、その言葉に妙な重みを感じた。
「お前もな」
短く返した。ダラスは「は?」という顔をしたが、すぐに笑って手を振った。
俺は受付へ向かった。カウンターの奥に立っていたのはエルナだった。十四年前のまだ若いエルナ。手元の書類を何度も確認しながら、慣れない手つきで羽ペンを動かしている。制服はまだ身体に馴染んでおらず、袖口が少し余っていた。
「いらっしゃいませ」
事務的な声。当然だ。まだ俺のことを知らない。俺にとっては十四年分の記憶があるが、彼女にとっては初対面だ。それでも、胸の奥がざわつく。
「この依頼を受けたい」
俺は羊皮紙と冒険者証を差し出した。エルナはそれを見て、少し眉を寄せた。
「北東の森の調査、ですか? 危険度の割に報酬が低いですが……大丈夫ですか?」
同じだ。あのときと同じ言い方。ただ、あのときは俺に言ったわけじゃない。別の冒険者に向けた言葉を、俺は横で聞いていただけだ。今は、俺に向けられている。
「問題ない」
「……分かりました」
エルナは慌てて書類を揃えた。少しだけ手つきがぎこちない。羽ペンのインクが指についていることにも気づいていない。
一度目の彼女なら、そんな失敗はしなかった。それが、妙に苦しかった。
この若いエルナが、これから十年以上、便利な非正規職員として使われ続ける。法務も契約も、実務も覚える。なのに正規には上がれない。責任だけ増えて、給料は増えない。誰かが八つ当たりをすれば、黙って頭を下げる。俺はそれを知っている。
「ロイドさん?」
エルナが不思議そうに俺を見る。俺はとっさに視線を逸らした。
「顔色が悪いですよ。戦争のお怪我がまだ……」
「いや、何でもない。大丈夫だ」
反射的にそう答えてから、苦笑しそうになった。大丈夫。何度この言葉を使っただろう。本当は大丈夫じゃない時ほど、人間はそう言う。
エルナは少し心配そうに眉を寄せたが、それ以上は踏み込まなかった。受付としての距離感を守ったのだろう。
「では、こちらが依頼書です。お気をつけて」
「ああ。ありがとう、エルナ」
名前を呼んだ瞬間、彼女が少し目を丸くした。
「あの、私、名乗りましたっけ?」
しまった。一瞬、喉の奥が詰まる。
「……書類の担当欄に名前があった」
「あ、そうでしたか」
エルナは少し照れたように笑った。明るい笑顔だった。俺は冒険者証を握りしめる。この笑顔が、十年後に疲れたものへ変わっていくのを、俺は知っている。だからこそ、何かを変えなければならなかった。
外に出ると、太陽はすでに高く昇っていた。北東の森までは、街から歩いて半日ほどかかる。時間はある。だが、油断はできない。
この依頼が「当たり」だということを、俺は知っている。数日後、森の地下から小規模な魔力結晶の鉱脈が発見される。最初に見つけたパーティは、結晶の売却と情報提供の報酬によって、一気にランクを上げた。
もっとも、無傷で成功したわけではない。三人で森へ入り、帰ってきたのは二人だけだった。俺は街道を外れ、北東へ続く細い道を進んだ。道と呼べるのは、最初のうちだけだった。
しばらく歩くと、轍は消え、踏み固められていた土も草に覆われていく。木々の密度が増し、頭上を枝葉が塞いだ。
昼間だというのに、森の中は薄暗い。湿った土の匂い。苔の生えた木の幹。どこか遠くで鳴く鳥の声。
北東の森は、駆け出しの冒険者が一人で入るような場所ではない。狼。ゴブリン。毒を持つ小型魔獣。時には、それらを狩る大型個体も現れる。
一度目の人生の俺なら、森へ入る前から盾を構え、足元だけを見て進んでいただろう。
敵が出てきたら受ける。殴られたら耐える。攻撃が止まったところで、剣を振る。それしか知らなかった。だが、今回は違う。
俺は木々の間へ足を踏み入れた。その瞬間だった。
「……なんだ?」
思わず足を止める。空気の流れが変わった。いや、空気そのものが変化したわけではない。俺の感じ方が変わったのだ。
枝葉の揺れ。地面の傾斜。湿った土に残る、浅い足跡。それまで個別に存在していた情報が、頭の中でひとつにつながっていく。
正面の獣道。右手の茂み。左奥にある、わずかに開けた場所。
どこを通れば姿を隠せるか。どこに立てば逃げ道を塞がれるか。どこから襲われる可能性が高いか。
森の一部が、上から見下ろした地図のように意識の中へ浮かび上がった。
その中に、ひとつだけ不自然な空白がある。右。そう理解した瞬間、俺は体を捻っていた。
茂みが激しく揺れる。灰色の狼が飛び出してきた。牙を剥き、俺の脇腹へ食らいつこうとしている。
だが、遅い。狼が茂みから姿を現すより先に、俺の剣は動いていた。横薙ぎに振り抜いた刃が、狼の首元を裂く。
血が飛び、狼の身体が地面を滑った。俺は剣を構えたまま、倒れた狼を見つめた。
あまりにも、あっさりしていた。狼が弱かったわけではない。俺の身体能力が、急に高くなったわけでもない。
今の俺は、十四年前と同じ二十歳の身体だ。筋力も。速度も。戦気の総量も。
一度目の人生のこの時期と、大きく違うはずがない。違うのは、敵が動き出す前から、その位置が分かっていたことだ。
「……見えた」
俺は小さく呟いた。狼そのものを見ていたわけではない。草の揺れ。鳥の沈黙。風に混じった獣の匂い。地面を踏む、ごく小さな振動。
それらを拾い、狼が飛び出してくる位置を予測した。そこまでは、理解できる。十四年間、戦場と冒険者稼業で生き残ってきた。
敵の気配を読むこと自体は、不思議ではない。だが、先ほど感じたものは、それだけではなかった。
俺はゆっくりと周囲を見回す。正面の獣道は、先へ進むには早い。左側の斜面を回れば、足音を抑えられる。
右奥の茂みには小動物がいる。そのさらに向こうには、何かが歩いた痕跡がある。森の状況が、意味を持った情報として頭の中へ流れ込んでくる。まるで、戦場全体が俺に語りかけているようだった。
「こんな感覚は……」
なかった。少なくとも、一度目の人生で意識したことはない。似たことなら、あった。戦争中、敵の攻撃が集中する場所が分かった。
味方の隊列が崩れる直前には、空気が変わった。誰かが逃げ出せば、次にどの部隊が巻き込まれるかも見えた。
だが当時の俺は、それを役立てることができなかった。命令する立場ではなかった。ただ盾を持ち、崩れかけた場所へ走り、自分の身体で穴を塞いでいただけだ。
見えていても、動かせなかった。理解していても、伝えられなかった。それが今、明確な形となって俺の中に現れている。
俺は目を閉じた。森の音を聞く。小枝が落ちる。遠くで何かが地面を掻く。情報が集まり、頭の中で整理されていく。
危険な位置。安全な経路。敵が通りそうな場所。こちらが利用できる地形。ひとつの言葉が、意識の底から浮かび上がった。《戦域管制》。
「……戦域、管制?」
冒険者としては聞いたことのないスキルだった。いや、軍の用語としてなら分かる。複数の部隊から情報を集め、戦場の状況を把握し、それぞれへ適切な命令を出す。戦場を点ではなく、面で捉える。敵味方を駒として見るのではない。
地形、時間、補給、退路、すべてを含めて戦いを動かす。だが、そんなものは本来、一人の兵士が持つスキルではない。
司令部が。伝令が。斥候が。複数の人間を使って行う仕事だ。それを、俺一人で?
「まさかな」
思わず否定する。ただの勘かもしれない。十四年分の経験が、若い身体へ戻ったことで鮮明になっただけかもしれない。
狼一匹を倒した程度で、自分に特別なスキルが目覚めたと考えるのは早すぎる。
それでも、胸の奥に残った違和感は消えなかった。俺は狼の死体を茂みの陰へ移し、血のついた剣を拭った。
立ち止まっていても仕方がない。確かめればいい。この感覚が偶然なのか。それとも本当に、俺の中に新しい何かが生まれたのか。
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