街への撤退
撤収準備は昼前に整った。出発前、俺は旧監視塔を振り返った。
塔は沈黙している。入口を塞いだ崩落石の隙間から、青白い光はほとんど漏れていない。だが、完全に消えたわけではない。塔の根元の霜はまだ解けず、地面の下で何かが眠っているような気配がある。
オルディンは死んだ。他の調査員の遺体も回収出来なかった。その事実は重い。だが、今は全員をこれ以上地下へ行かせるわけにはいかない。カイルも塔を見ていた。
「私は、彼らを見捨てたのでしょうか」
「今は救えなかった。それだけだ」
俺は答えた。
「今戻れば?」
「全員死ぬ可能性が高い」
カイルは目を閉じた。
「分かっています」
「なら、その判断を持って帰れ」
「判断を?」
「ああ。現場で何を見て、なぜ撤退したのか。お前が記録して残せ。隊長として」
カイルは俺を見た。
「責任として残せ、ということですね」
「そうだ」
「厳しいですね」
「指揮官になるならな」
彼は少しだけ笑った。疲れた笑みだった。
「あなたの方が、よほど指揮官に向いている」
「俺は指揮官じゃない」
「では何ですか」
俺は少し考えた。重装前衛か。退役兵か。冒険者としては暫定Eランク。だが、戦場で俺がしていることは、もうただの盾役ではない。
味方を見る。敵を見る。弱点を見る。地形を見る。誰か一人が死なないように、戦場を組み直す。
「戦域管制士」
言葉が、自然に口から出た。カイルが聞き返す。
「戦域管制士?」
「ああ」
俺は塔から目を離した。
「まだ名乗れるほどじゃないがな」
アンジェリーナが近くで聞いていたらしい。
「いいじゃない。戦域管制士」
「軽く言うな」
「だって、重装前衛より今のあなたに合ってるわ」
セラも小さく頷いた。
「私も、そう思います。ロイドさんは、戦場を見て、繋いでくれますから」
少し、胸の奥がむず痒かった。褒められるのは、やはり慣れない。だが、否定もしなかった。重装前衛だった俺は、一度目の人生で時代に置いていかれた。
盾としてしか評価されず、殿として消耗し、最後は雪山で死んだ。だが、その経験は無駄ではなかった。見てきた死。守れなかった仲間。
間違った命令。撤退の失敗。地形の罠。恐怖で火球を撃つ魔術師。一人で突っ込む前衛。見えない貢献を消される支援職。全部が、今の俺の経験になっている。なら、名乗ってもいいのかもしれない。重装前衛ではなく。戦域管制士として。
「出発する」
カイルが声を上げた。隊が動き始める。俺たちは旧監視塔を背にした。
街の北門が見えた瞬間、何人かが息を吐いた。門の内側は、外より少しだけ暖かかった。石畳。見慣れた門兵。朝の薄い光。
それだけで、人間は助かった気になる。だが、俺はまだ気を抜かなかった。門をくぐっただけでは、依頼は終わらない。負傷者が治療に入る。危険物が封鎖される。証拠が記録される。そこまで終わって、初めて帰還になる。
「旧監視塔救助隊、帰還!」
カイルが門兵に向かって声を張った。疲労で声は掠れている。だが、言葉は崩れていない。
「生存者一名。危険核片一件。重要証拠複数。ギルドへ緊急連絡を。治癒院には負傷者搬送の準備を要請してください」
門兵が一瞬、固まった。当然だ。
朝帰りの冒険者が、土まみれの箱と担架と証拠袋を抱えて、いきなりそんなことを言えば誰でも固まる。だが、北門の兵はすぐに動いた。
「治癒院へ走れ! ギルドにも急使!」
門の内側が慌ただしくなる。リーネを乗せた担架が、石畳の上へ慎重に下ろされた。
ミレアがその横で膝をつき、移動用の微温結界を保っている。顔色は悪い。だが、銀杭を握る手はまだ確かだった。
「急に温めないでください」
ミレアが治癒院から駆けつけた治癒師へ言う。
「保存膜明けです。末端からではなく、体幹の魔力循環を優先してください。冷却障害と魔力低下が混じっています」
治癒師は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かりました。担架をそのまま。布を増やして。火鉢は近づけすぎないで」
リーネが運ばれていく。黒匣記録板は、彼女の胸元から外された。彼女は意識がないまま、それを離すまいと指を動かした。俺はその手を見た。
「帰って来たぞ」
そう言うと、リーネの指の力が少しだけ抜けた。治癒院の担架が彼女を運んでいく。ミレアも同行する。セラも治癒院側へ回されかけたが、本人が杖を抱えたまま首を振った。
「私は、核片の反応確認を」
「駄目です。専門家に任せましょう」
ミレアが即座に言った。
「このままでは倒れます」
「でも」
「倒れます」
ミレアは本気だった。アンジェがセラの肩を押した。
「行きなさい。あなたが倒れたら、ロイドがまた無茶するわ」
「それは……困りますね」
「ならさっさと行きなさい」
セラは不満そうだったが、抵抗する力は残っていなかった。治癒院へ連れていかれる。フェイは土箱を抱えたまま、石畳に座り込んでいた。
「これ、持ったまま治癒院行っちゃ駄目ですよね」
「駄目だ。治癒師は命を預かる。証拠と危険物は、別の者が預かる」
俺は答えた。
「じゃあ、俺は」
「まだ仕事だ」
気の毒だが、仕方ない。その土箱は、今のところ街で一番厄介な荷物だ。そして、厄介な荷物には、厄介な専門家が寄ってくる。
「おい、ロイド!」
聞き慣れた声が、門の方から飛んできた。フィンだった。
寝起きなのか、髪は跳ね、工房の前掛けをつけたまま外套を羽織っている。片手には工具鞄。もう片方には、魔導測定用の細い棒を握っていた。
「ギルドから緊急で呼ばれたと思ったら、何だい、この騒ぎは。アンジェの制動環でもまた壊れたのか?」
「いや、もっと厄介なものだ」
「じゃあ何を持ち帰って……」
フィンの視線が、フェイの抱える土箱で止まった。軽口が消える。目つきが変わった。職人の目だ。
彼は一歩近づき、土箱の表面を見た。手は触れない。ただ、霜の走り方を見る。灰を混ぜた土の継ぎ目。箱の外へ均一に出る冷気ではなく、脈を打つように浮かぶ白い筋。フィンの顔が険しくなる。
「……おい。これ、」
フェイの顔が引きつった。
「やっぱり危ないんですか」
「危ないなんてもんじゃないよ」
フィンは測定棒を箱へ近づけた。棒の先に付いた小さな魔導針が、触れる前に震えた。
「冷気が漏れてるんじゃない。周りの熱を吸ってる。しかも一定じゃない。中でまだ寝返りを打ってる」
「寝返り……」
フェイが土箱をさらに大事そうに抱えた。
「保存筒を使わなかったのは正解だね。あれは反応を止める道具じゃない。反応をそのまま残す道具だ。こんなものを入れたら、活性状態の爆弾を丁寧に保存するようなものだ」
フェイが小さく呻いた。
「俺、爆弾抱えてたんですか」
「今さら気づいたのかい」
「気づきたくなかったです」
フィンらしい表現だった。だが、ありがたかった。俺たちの判断が、職人の目で裏付けられた。エルナが駆けてきたのは、その直後だった。
外套の留め具が片方外れている。髪も乱れていた。事務方の顔ではなく、戦場を知る者の顔だった。
「ロイドさん! よくぞ、ご無事で。状況は」
「リーネ・ハルト、生存。保存膜明けで治癒院へ搬送。オルディン・レーンは死亡。第二層で強制補助起動を行い、防御機構アルゴスを起こした。核片は安定状態。黒匣記録板を確保した」
エルナの表情が変わった。怒りではない。もっと冷たいものだ。
「証拠は」
カイルが前へ出た。
「こちらです」
彼は証拠袋を差し出した。だが、完全には手放さない。
「ギルドの立会いで、仮封印をお願いします。資源局単独への引き渡しは避けてください」
エルナは一瞬、カイルを見る。若い貴族の三男。昨日までなら、資源局の役人を相手にそこまで言えたかは分からない。
だが、今の彼は言った。現場責任者として。エルナは頷いた。
「妥当ですね。ギルド記録官を呼びます。」
その判断は早かった。だからこそ、次に来る者も早かった。




