核片処置
「暴走するか」
「急に抜けば、たぶん」
セラの声が細くなる。
「でも、抜かないと……ロイドさんの腕が先に死にます」
槍を通して、冷却が伝わってきていた。指先の感覚はもうない。手首も遠い。肘の内側に、細い氷の針を差し込まれているような痛みがある。ミレアが駆け寄ろうとした。
「ロイドさん、すぐに手を――」
「来るな」
俺は言った。
「結界を離れるな」
ミレアが足を止める。その顔が歪んだ。治癒術師にとって、目の前の負傷者に近づけないのは苦痛だろう。
だが、今はその優しさが危ない。俺の腕一本より、微温結界の中にいるリーネの命が優先だ。
「あとどれくらい持ちますか」
ミレアが聞く。
「俺か、核か」
「両方です」
「俺は少し」
「嘘ですね」
「核は」
セラが答えた。
「長くはありません。槍に冷却が集まりすぎています。ロイドさんの戦気が削れています」
アンジェが一歩前へ出る。
「私が支える」
「触るな」
「でも」
「触れば、お前の指も持っていかれる」
アンジェは唇を噛んだ。だが、踏み止まった。いい判断だ。熱くなって前へ出るだけなら、彼女は昔のままだ。今は我慢することを覚えている。
「なら、どうするの」
「別の栓を作る」
俺は言った。
「フェイ。乾いた土を集めろ。水気のある土は駄目だ。冷えた瞬間に割れる」
フェイが青ざめる。
「乾いた土……この雪の中で?」
「兵舎の内側だ。炉の冷気が入っていない場所の土を削れ。灰も混ぜろ。箱にする」
フェイは一瞬だけ固まった。だが、すぐに動いた。
「やります!」
彼は崩れた兵舎の内側へ走り、杖を地面に突き立てた。土と灰が盛り上がる。戦闘中の壁とは違う。今必要なのは、固く、高い壁ではない。冷気を急に逃がさず、核片を眠らせたまま受け止める器だ。
「ミレア。布を」
ミレアは微温結界の端から包帯布を投げた。
「直接触れないでください。内側に巻いて、土箱との間に噛ませてください」
アンジェは細剣を構えたまま、アルゴスの胸部を見ていた。
「私は」
「支柱を一本だけ切れ。核片が落ちる道を作る。二本目は切るな」
「欲張らないわよ」
「さっき欲張りかけた」
「今は違う」
そう言って、アンジェは笑わなかった。フェイが土箱を作って戻ってくる。粗末な箱だった。乾いた土と灰を圧縮しただけの、四角い塊。だが、形は保っている。
「これで、本当に受けられるんですか」
フェイの声は震えていた。
「高級な箱で暴れるより、泥箱で眠る方がいい」
「……分かりました」
カイルが前へ出た。短剣しか持っていない。剣は水槽室で失った。それでも、彼は来た。
「私が支えます」
「手が震えているぞ」
「震えています」
カイルは正直に言った。
「ですが、離しません」
悪くない。俺は頷いた。
「なら支えろ。震えてもいい。落とすな」
「はい」
フェイの土箱に、ミレアの布をカイルが敷く。ダグラスの盾がその下へ入る。アンジェが細剣を胸部の支柱へ当てる。
セラは目を閉じたまま、息を細く吐いている。誰も大声を出さなかった。さっきまでの戦闘音が嘘のように、旧兵舎跡が静かになる。雪の落ちる音。
微温結界の小さな震え。俺の槍から伝わる、青い核の脈。それだけがあった。爆ぜるなら、一瞬だ。凍るのも一瞬。誰かが手順を間違えれば、勝利はその場で死に変わる。
「セラ、手順を指示してくれ」
セラは目を閉じたまま答える。
「槍を半寸だけ引いてください」
「半寸か」
「はい。光が強くなったら止めてください。弱くなったら、また半寸。三度目か四度目で、核片が落ちます」
「分かった」
ミレアが低く言った。
「ロイドさん。無理に早く抜かないでください」
「分かっている」
「あと少しで指が死にます。ですが、急げば全員が死にます」
「分かりやすいな」
「笑い事ではありません」
実際、笑えなかった。俺は槍を握り直す。握っている感覚はもうない。ただ、腕の奥と肩で、槍の重さだけを覚えている。
「始める」
俺は槍を、半寸引いた。青い光が一気に強くなる。
「止めて!」
セラが叫ぶ。止める。腕が軋む。槍が押し戻されそうになる。
冷却反応が、出口を探している。押さえろ。杭だ。俺は自分に言い聞かせる。俺自身が杭だ。戦気を槍先だけに残せ。青い光が少し弱まった。
「次、半寸」
セラの声。俺はまた引く。今度は、胸部の奥から低い音が鳴った。ぐ、と。金属が内側から噛み合うような音。
アンジェの細剣が支柱を切った。一本だけ。切られた支柱が落ちる。核片の周りに、わずかな隙間ができた。
「まだ落ちない」
セラが言う。
「ロイドさん、止めて。今、波が戻ります」
俺は止めた。次の瞬間、槍を通して強い冷気が上がった。肘から肩へ、白い痛みが走る。視界の端が暗くなる。カイルの声がした。
「ロイドさん。支えています」
見る余裕はない。だが、彼の声は震えていた。それでも土箱は動いていない。セラが息を呑む。
「次で落ちます。たぶん」
「たぶんが多いな」
俺は三度目に槍を引いた。半寸。青い光が跳ねる。アルゴスの残った眼の一つが、かすかに灯った。
「ノア!」
すかさず、矢が飛んだ。光った眼を射抜く。青い破片が散る。同時に、核片の音が変わった。硬い音ではない。氷の中で、金属の小石が外れるような音。
「今!」
セラが叫んだ。
「箱、上げて!」
カイルが土箱を押し上げる。ダグラスが盾で底を支える。アンジェが支柱の残骸を細剣で弾く。
俺は最後の半寸を引いた。核片が落ちた。青白い光を帯びた小さな塊が、布の上へ落ちる。軽い音。あまりにも軽い音だった。
帝国を救うかもしれない危険物が、泥と灰の箱の中で、こつん、と鳴った。その瞬間、土箱の外側に霜が走る。ひびが入る。
「固めます!」
フェイが杖を叩きつけた。土箱の表面がさらに圧縮される。ミレアが結界の端を広げ、箱の片側だけを微温の膜に触れさせた。
「温めすぎないで。急に戻すと割れます」
「分かってます!」
フェイの声は裏返っていた。カイルは両手で箱を支えている。指先が白くなっていた。だが、離さない。
「反応は」
俺は聞いた。セラは目を閉じたまま、しばらく黙った。その数息が長かった。雪が落ちる。誰も動かない。アルゴスの巨体は、倒れたまま軋んでいる。
青い光は、土箱の中でゆっくり弱まっていく。セラが、ようやく息を吐いた。
「安定……しています」
その一言で、全員の肩から力が抜けた。だが、完全には緩まない。
「反応、低下。暴走音なし。眠っています」
「よし」
俺はようやく槍を抜いた。抜いたというより、腕から落ちた。槍の石突きが雪に刺さる。その瞬間、膝が崩れた。アンジェが支えた。今度は止めなかった。
「ちょっと、格好つけたまま倒れないでよ」
「倒れてない」
「私が支えてるの」
「なら倒れてない」
「屁理屈」
ミレアが駆け寄り、俺の腕を取った。その顔が険しくなる。
「指が白い。感覚は?」
「少しある」
「それも嘘です」
治癒術師は厳しい。ミレアは俺の手首へ布を巻き、微温結界の縁へ引いた。
「すぐ処置します。凍傷寸前です」
「後でいい」
「今です」
逆らう余地はなかった。カイルは土箱を見下ろしていた。両手はまだ震えている。
だが、箱は落としていない。中には、冷却循環制御核片がある。オルディンが欲しがったもの。監督官が開けようとしたもの。ハルムが記録を残して止めようとしたもの。リーネが命をかけて警告したもの。それが今、粗末な土箱の中に収まっている。
「保存筒は使うな」
俺は言った。カイルが頷く。
「はい。反応を保存するのではなく、眠らせたまま運びます。その方が安全ですから」
いい判断だ。フェイが土箱の外側をさらに固める。ダグラスが息を吐き、盾を肩に戻した。
「帝国を救うかもしれない核片が、泥箱入りか」
「人が死なないなら泥箱で十分だ」
俺は言った。誰も笑わなかった。その言葉の重さを、全員が分かっていた。
カイルは俺の槍を見た。それから、アルゴスの胸に打ち込まれていた杭の跡を見る。
「教本でしか、見たことがありませんでした」
彼は静かに言った。
「重騎士の対大型獣迎撃スキル。天槍杭撃……」
「昔から教本の説明は必要以上に盛る傾向がある」
俺は手首を押さえながら答えた。
「今のは泥臭い現場用だ」
カイルは微温結界の中のリーネを見た。土箱の中の核片を見る。そして、倒れたアルゴスを見る。
「ですが私たちを救う技でした」
俺は何も言わなかった。言う必要もなかった。アルゴスの眼は消えている。塔の中の低い振動も、少しずつ弱くなっていた。古代魔導炉は完全には起きなかった。だが、眠りも浅くなった。ここに長居はできない。
「撤収しよう。リーネを担架で運ぶ準備。核片、黒匣記録板、主起動印、監督官記録片を確認。オルディンの遺体は……今は無理だ」
カイルが目を閉じた。
「記録します」
「そうしろ」
彼は短剣を納め、深く息を吸った。
「全員、撤収準備。負傷者を中心に、隊列を組み直します」




