脱走
第一警戒の時間は、静かに過ぎた。時折、ノアが塔の窓へ矢を向ける。だが、射ることはない。ダグラスは盾を抱え、肩を冷やさないように布を巻いている。
雪は強くなったり、弱くなったりを繰り返した。微温結界の光は、呼吸のように揺れている。
その中でリーネは眠り、ミレアは目を閉じながらも手を結界から離さなかった。
俺も眠った。深くはない。戦場で覚えた眠りだ。目を閉じているが、耳は完全には落ちない。
身体は休ませるが、死線だけは遠くで見ている。夢を見た。氷河期戦争の夜だった。
白い海岸。裂けた船体。右腕を失ったガノン。青い布を結んだ杭。
「こっちだ、ロイド」
誰かが言った。だが、その声へ返事をしてはいけない。返事をすれば、死んだ者の列に入る。
俺は目を開けた。第二警戒に交代する少し前だった。カイルとアンジェが起きる。ダグラスが短く状況を報告した。
「塔に動きなし。雪は強め。風は北西。土壁に異常なし」
ノアが続ける。
「青い光は見えない。窓の影も動いていない」
「了解しました」
カイルが頷く。アンジェは外套を羽織り、細剣を腰に戻した。
「寝起きで見張りって、貴族令嬢の生活じゃないわね」
「冒険者ですから」
カイルが真面目に返す。アンジェは少しだけ笑った。
「そうね。今はそれでいいわ」
俺は目を閉じた。今度は、さらに浅く眠る。第二警戒は、もっと嫌な時間だ。人間の身体が一番鈍る。火が弱くなる。眠気が深くなる。
見張りが、自分の集中を疑わなくなる。だが、カイルとアンジェなら持つ。そう判断した。
実際、しばらくは何も起きなかった。風の音。雪が土壁を叩く音。ミレアの短い詠唱。リーネの弱い呼吸。オルディンの静かな寝息。
それらが、薄い層になって耳へ乗っていた。だが、途中でひとつ、層が抜けた。俺は目を開けた。何かが足りない。すぐには分からない。
敵の音ではない。敵が増えたのではなく、味方が減った。俺は身体を起こす。アンジェがこちらを見た。
「どうしたの」
声は小さい。警戒中の声だ。俺は指を一本立て、静かにと示した。
耳を澄ませる。リーネ。ミレア。フェイの寝息。ダグラスの低い呼吸。ノアの衣擦れ。カイルの足音。アンジェの呼吸。セラの眠り。
ない。オルディンの寝息がない。俺はゆっくり立ち上がった。中央を見る。そこに、オルディンの姿はなかった。
外套だけが丸められ、眠っている人間の形に見えるよう置かれている。革鞄もない。
「カイル。オルディンがいない」
俺は低く呼んだ。カイルが振り返る。彼の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「……オルディン殿?」
アンジェが細剣を抜いた。
「嘘……いつから?」
「今気づいた」
カイルは外套をめくった。中には、石が二つ入っていた。人間の重みと形を誤魔化すためのものだ。フェイが目を覚ます。
「何ですか?」
「声を落とせ」
俺は言った。ミレアも目を開けた。
「リーネさんは無事です」
最初にそれを言うのは、治癒術師として正しい。カイルは胸元の証拠袋を確認した。
「主起動印はあります」
「黒匣記録板は」
「リーネさんが抱えています」
ミレアが確認した。
「封印帯も切られていません」
オルディンは主起動印を盗んでいない。黒匣記録板も奪っていない。なら、目的はひとつ。主起動印なしで動けると判断した。補助認証片。やはりあの男は、最初から持っていた。
「補助認証片を隠し持っていたな」
俺が言うと、カイルの顔が歪んだ。
「鞄にはありませんでした」
「鞄に入れるほど間抜けじゃない」
アンジェが低く吐き捨てる。
「袖? 靴? 腰帯?」
「どこでもいい」
俺は塔の入口を見る。
「今、ここにいないことが問題だ」
セラが目を覚ました。いや、完全には眠れていなかったのだろう。顔色は悪いが、目だけは鋭い。
「下の音が増えています」
「どんな音だ」
「水槽の奥です。扉の向こう……いえ、もっと下。低い音が起きています」
「第二層か」
セラは頷いた。
「まだ完全には起きていません。でも、誰かが触っています」
カイルは歯を食いしばった。
「僕の責任です。監視対象を――」
「責任を今悔やむな」
俺は遮った。カイルが息を止める。
「後で記録しろ。今はオルディンを探すのが最優先だ」
「……はい」
確かに過失と言えば過失だろう。だがカイルもアンジェも、完全に眠りこけていたわけではない。起きていることと、警戒し続けることは違うのだ。
カイルは考えすぎていた。想定外の環境。主起動印、黒匣記録板、リーネの容態、第二層、オルディンの処遇。現場責任者として抱えるものが多すぎた。
アンジェは動ける。誰よりも速く動ける。だが、動かずに待つ疲労には、まだ慣れていない。敵が来れば反応できた。刃が飛べば避けられた。しかし、何も起きない時間。敵が来ないのに、ずっと敵が来ると思い続ける時間。
それらは、剣を振るう疲労とは別のものだ。身体ではなく、判断の薄皮を少しずつ削っていく。
俺はそれを知っている。氷河期戦争の夜、そうやって死んだ奴を何人も見た。眠っていたわけではない。油断していたわけでもない。ただ、集中が数息だけ削れた。その数息に、敵は来る。
オルディンは、たぶん最初から待っていたのだ。第一警戒、まだ全員の緊張が残っている時間ではない。第三警戒、夜明け前、俺が起きる時間でもない。
第二警戒。身体が一番重くなり、最初の緊張が切れ、だが朝まではまだ遠い時間。オルディンは、その一瞬の隙を使った。
「足跡は」
ノアが壁上から降りる。
「ある。塔の入口へ向かっている。雪で消えかけているが、ひとり分。急いでいる」
フェイが立ち上がった。
「俺も行くよ」
「残れ」
フェイの顔が強張る。
「でも、第二層で火力が必要なら――」
「拠点を守る奴が要る。俺たちが戻ってきた時、ここが崩れていたら終わりだ」
フェイは言葉に詰まった。さっきまでなら、前へ出られないことを不満に思ったかもしれない。だが今は違う。微温結界の中にはリーネがいる。ミレアはそこを離れられない。ダグラスは正面を支える。ノアは塔を見張る。
そして、土壁と足場を維持できるのはフェイだけだ。
「……つまり、ここを維持するのも救助ってことですか」
「そうだ」
俺は頷いた。
「中へ入る奴だけが救助しているわけじゃない。戻る場所を守る奴がいなければ、救助は成立しない」
フェイは杖を握り直した。
「分かりました。土壁、朝まで持たせます」
アンジェは既に準備を終えていた。
「私は当然行くわよね」
「切り札を寝かせておく余裕はない」
「こういう時だけ都合よく使うのね」
「そうかもな」
「否定しなさいよ」
だが、彼女の口元は少しだけ上がっていた。セラも立ち上がる。ミレアが眉を寄せた。
「セラさん、まだ」
「行きます」
セラの声は小さいが、はっきりしていた。
「下の音を拾える人が必要です。私が行かないと、扉の先で迷います」
ミレアは俺を見る。止めるなら今だ、という目だった。俺はセラを見た。顔色は悪い。だが、目はまだ死んでいない。
「必要な分だけだ。無理をしたら、担いで戻す」
「はい」
「本当に大丈夫か」
「はい」
頑固だ。誰に似たのかは、考えないことにした。カイルは剣を取り、証拠袋を胸元に固定した。
「僕も行きます。責任者ですから」
彼の声は震えていない。だが、怒りはある。自分への怒り。オルディンへの怒り。資源局への怒り。それを剣に乗せると危ない。
「カイル。殺すために追うな」
カイルの目が揺れた。
「……止めるために追います」
「それでいい」
俺は外に残るミレアへ向き直った。
「ミレア、リーネと黒匣記録板を守れ。危なくなったら反響針を連続で鳴らせ」
ミレアはリーネの横で、微温結界の銀杭を打ち直した。
「戻ってきた時、結界を受け入れ状態にしておきます」
「頼む」
「生きて戻ってください」
フェイが土壁の一部を開いた。塔へ向かう細い道ができる。塔へ入るのは四人。多すぎれば、罠にかかる。少なすぎれば、止められない。今の隊で、これが限界だった。
「行くぞ」
俺は剣を握った。アンジェが左側面へ出る。カイルは俺の右。セラは中央。
夜明け前の雪は青かった。空はまだ暗い。だが、東の端に、ほんの少しだけ灰色が混じっている。
時間は少ない。塔の入口へ近づくほど、地下からの低い振動が強くなった。セラが顔をしかめる。
「炉の音が、増えています」
「まだ間に合うか」
「分かりません。でも、完全には起きていません」
「なら、間に合わせる」
塔の入口の帝国軍旗が、風に揺れていた。赤い布の端に、細い傷がある。誰かが掴んだ跡。オルディンだ。足を止めずに、目印として進んだのだろう。
アンジェが横で細剣を抜く。
「取り返すわよ」
「ああ」
塔の中は、さっきよりも冷たかった。地下から、低い音が響いている。眠っていた巨大なものが、寝返りを打つ音。そう聞こえた。俺たちは四人で、再び旧監視塔の腹の中へ入った。




