夜明け前
夜の旧兵舎跡は、昼よりも狭く感じた。崩れた壁。半分だけ残った屋根。フェイが固めた土壁。ミレアの微温結界。
その淡い光の外側には、雪と闇がある。塔は黒かった。
旧監視塔は、昼間よりもさらに沈黙していた。雪を被った外壁も、崩れた窓も、こちらを見ていないようで、見ている。そういう嫌な気配があった。
俺たちは兵舎跡を、夜を越すための陣地に作り替えた。
入口側にダグラス。右手の崩れた壁上にノア。風上側にフェイの土壁。中央にミレアの微温結界。その内側に、リーネ・ハルト。
女性調査員は、まだ意識を取り戻していない。呼吸は浅いが、途切れてはいない。黒匣記録板は、彼女の腕の中にある。ミレアが無理に外さなかった。
「この人が離すまで、外さない方がいいです」
ミレアはそう言った。
「身体が記録板を守る姿勢で固まっています。無理に外すと、循環が乱れます」
記録を守るために、身体が死にかけの形を覚えている。戦場では珍しくない。
旗を掴んだまま死んだ奴。伝令筒を抱えたまま凍った奴。仲間の識別票を握ったまま、手だけが開かなかった奴。人間は最後に、意味のあるものを握ろうとする。リーネにとって、それが黒匣記録板だった。
「見張りは予定通りです」
カイルが言った。彼は雪の上に簡単な配置図を描いていた。
「第一警戒、ノア。第二警戒、僕とアンジェリーナ殿。第三警戒、ダグラスとロイドさん」
「俺も第一でいいぞ。肩は動く」
ダグラスが言った。
「動くことと、使えることは違います」
ミレアが即座に言った。ダグラスは口を閉じた。治癒術師に言われると、盾役は意外と弱い。
「第一警戒の間は、盾を構えて立ち続けないでください。必要な時だけ使う。肩を冷やさない。分かりましたか」
「……分かった」
「返事が弱いです」
「分かった、治癒師殿」
ミレアはそれで許した。アンジェは微温結界の外側で、細剣の手入れをしていた。刃についた霜を布で拭い、制動環の留め具を確認している。
「本当に寝るのね」
「寝る」
俺は剣を壁に立てかけた。
「寝られる時に寝ろ。戦場で一番先に死ぬのは、眠る判断を侮った奴だ」
アンジェは細剣を鞘に戻し、俺を見た。
「あなた、そういうことを言う時だけ妙に説得力があるわ」
「普段はないのか」
「ある時とない時がある」
「便利な評価だな」
彼女は小さく笑った。だが、すぐに塔へ目を向ける。
「第二層。炉。アルゴス。補助認証片」
「気になるか」
「気にならない方がおかしいでしょ」
アンジェは声を落とした。
「オルディンは、まだ何か隠してる。あいつ、逃げると思う?」
「逃げるなら、外じゃない」俺は塔を見た。「中へ行く」
アンジェの表情が固まった。
「なら、なぜ拘束しないの」
「疑わしいとは言え政府機関の同行者だ。犯罪者じゃない」
「面倒ね、書類って」
「マロニエが聞いたら喜ぶぞ」
「絶対喜ぶわね」
アンジェは不満そうにオルディンを見た。
オルディンは、微温結界から少し離れた中央の位置に座っている。革鞄は手元。カイルが確認した後、返したものだ。
封鎖札。保存筒。測定盤。資源局の記録具。怪しいものは多い。
だが、補助認証片らしきものはなかった。だからといって、持っていないとは限らない。袖。腰帯。靴底。外套の裏。人間は、小さなものならいくらでも隠せる。
オルディンは自分が疑われていることを知っている。その上で、静かに座っていた。それが余計に厄介だった。
カイルがこちらへ来た。彼はオルディンへ視線を向け、それから俺に言う。
「ロイド殿。第二層へすぐ入らない判断、本当に正しかったのでしょうか」
声は低い。他の者には聞かせたくないのだろう。責任者の迷いだ。悪いことではない。迷わない責任者の方が、よほど危ない。
「正しいかどうかは、全てが終ってからわかる」
俺は答えた。カイルは眉を寄せる。
「今は分からない、ということですか」
「そうだ」
俺は微温結界の中のリーネを見た。
「だが、今入れば失敗する理由は揃っていた。セラは消耗している。ミレアは結界を離れられない。フェイは土壁を維持したばかり。ダグラスの肩も万全じゃない」
「それでも、下に記録片があります」
「記録は死なない」
「ハルム氏の遺体も」
「遺体も、これ以上は死なない」
カイルは息を止めた。きつい言い方だった。だが、言わなければならない。
「生きている奴を連れて帰る。そのために、死んでいる奴を後に回す。戦場ではそういう判断もある」
カイルは拳を握った。
「慣れたくありませんね」
「慣れるな。慣れた奴は、今度は生きている奴も数字にする」
カイルが顔を上げる。
「では、どうすれば」
「苦いと思ったまま判断しろ」
俺は槍を取って、膝の上に置いた。
「指揮官は、苦くない判断を探す仕事じゃない。苦い判断を飲み込んで、隊を帰す仕事だ」
カイルは黙っていた。やがて、静かに頷く。
「覚えておきます」
それで、会話は終わった。




