休養
「第二層に、まだ人はいるか」
リーネは喉を鳴らした。
「……ハルム……さん……」
「生きているか」
少し間があった。それが答えだった。それでも彼女は、言葉にしようとした。
「炉の……前……で……もう……」
ミレアが俺を見る。これ以上喋らせるな、という目だ。だが、リーネはまだ言葉を続けようとしている。
「記録……監督官の……記録片……ハルムさんが……隠して……」
「場所は」
「炉心……制御盤……下……」
カイルが素早く書き留める。リーネの呼吸が乱れる。ミレアが強く言った。
「ここまでです」
「待って……」
リーネの指が黒匣記録板を掴む。
「補助……認証……片……」
その言葉で、オルディンの顔が動いた。わずかだが、動いた。カイルが見逃さない。
「補助認証片とは何ですか、リーネさん」
リーネは答えようとした。だが、喉が鳴るだけだった。ミレアが首を振る。
「駄目です。意識が限界です」
リーネは最後に、ほとんど息だけの声で言った。
「止め……ないと……炉……起きる……」
言葉はそこで切れた。瞼が落ちる。微温結界の光が、彼女の胸の動きを追って淡く揺れた。ミレアが呼吸を確認する。
「まだ生きています。ですが、これ以上の聴取は無理です」
「十分だ。よく頑張ってくれた」
俺は立ち上がった。十分すぎる。第二層。炉。補助認証片。死んだ調査員ハルム。炉心制御盤の下に隠された監督官の記録片。アンジェがオルディンを睨む。
「あなた、今の言葉に反応したわよね」
「彼女は極度の低体温と魔力循環不全により錯乱の可能性がある」
オルディンは静かに言った。
「断片的な証言だけで、古代施設の危険性を断定するのは――」
「また断片」
アンジェの声が冷えた。
「監督官の死体。起動印。第二層の扉。保存膜。黒匣記録板。壁の刻字。本人の証言。それでも断片?」
「それらは、まだ体系立てられていない」
「体系立てたら、あなたに都合が悪くなるんじゃない?」
オルディンは答えなかった。カイルが黒匣記録板へ目を向ける。
「この記録板を確認できますか」
オルディンがすぐに言った。
「専門知識が必要だ。私が――」
「あなたには渡しません」
カイルは遮った。オルディンの口が止まる。カイルは続けた。
「セラさん。表面反応だけで、何か読めますか。封印を破らずに」
セラは少し迷った。
「完全な読み取りは無理です。でも、表層の魔力残響なら拾えるかもしれません。黒匣記録板は、記録そのものを守るために、外側にも警告を残すことがあります」
「お願いします。ただし、危険なら止めてください」
「はい」
セラは結界の内側へ入り、黒匣記録板へ杖を近づけた。リーネの腕から無理に外さない。抱えさせたまま、表面だけを読む。黒い板の縁に巻かれた封印帯が、かすかに光った。
古代文字ではない。資源局の暗号でもない。記録板そのものが、最後に記録した危険信号を浮かび上がらせている。
セラの額に汗が滲む。外は寒い。微温結界の内側も、暖かいわけではない。それでも汗をかくほど、集中している。
「読める部分だけでいい。無理をするな」
俺は言った。セラが小さく頷く。
「……地下第二層、冷却炉心管理区画」
全員が黙った。炉心。やはり、ただの地下施設ではない。セラは続ける。
「主起動印……補助認証片……両認証により、安全起動」
カイルが紙へ書き写す。
「片方だけでは?」
セラは眉を寄せた。
「主起動印のみでは起動保留。補助認証片のみでは……強制補助起動」
「強制補助起動?」
フェイが不安そうに聞いた。セラは唇を噛んだ。
「正規手順ではありません。主認証がないまま、補助側から炉を起こす方法です」
カイルの視線が、オルディンへ向いた。
「補助認証片。資源局は、それを持ち込んでいたのではありませんか」
「私は正式には聞いていない」
返答は同じだった。だが、今度は誰も、その言葉を信じなかった。セラの声が震える。
「警告があります。強制補助起動時、防御機構が不正起動と判定する可能性」
「防御機構の名称は」
セラは黒匣記録板を見つめる。封印帯の光が、一瞬だけ強くなった。
「……天眼監視機獣、アルゴス」
その名が、兵舎跡の中に落ちた。風の音が遠くなる。フェイが小さく呟いた。
「機獣……?」
ダグラスが盾を握り直す。
「嫌な名前だな」
ノアは塔の窓を見たまま、矢を番えた。
「内部に動きはなし」
「今は、な」
俺は言った。オルディンは黙っていた。知らないふりをするには、材料が増えすぎた。だが、認める気もない。この男はまだ、何かを諦めていない。カイルが黒匣記録板の内容を書き写し終え、紙を証拠袋へ入れた。
「整理します」
彼は全員へ向き直った。
「旧監視塔地下には、依頼書に記載されていない地下第二層が存在します。そこには冷却炉心管理区画、つまり古代魔導炉に類する施設がある可能性が高い」
オルディンが口を挟もうとした。カイルはその前に続ける。
「主起動印は監督官の死体から回収し、こちらで保全中。補助認証片の存在が黒匣記録板に記録されています。強制補助起動により、防御機構アルゴスが起動する危険がある」
「危険がある、というだけだ」
オルディンが言った。
「必ず起動するとは限らん」
「危険があるなら、救助隊はそれを前提に行動します」
カイルは言い切った。
「また、第二層奥の調査員ハルム氏は死亡している可能性が高い。ただし、監督官の記録片を炉心制御盤下に隠した可能性がある」
ミレアがリーネの状態を見ながら言う。
「リーネさんの証言は、身体状態を考えると長時間のものは無理です。ただ、補助認証片と炉に関する部分だけは、反応が強かった。錯乱だけで片づけるには、黒匣記録板の表層記録と一致しすぎています」
アンジェがオルディンを見た。
「だそうよ」
オルディンは静かに答える。
「私はわざわざ医療判断には口を挟まんよ」
「他のことにはずいぶん挟むのに」
「アンジェ」
俺は止めた。彼女は不満そうに口を閉じる。責めるのは後だ。今は、次を決める時間だ。
空はかなり暗くなっていた。兵舎跡の外では雪が強くなっている。風が土壁に当たり、細かな雪を巻き上げる。塔の黒い入口は、夜の口のように開いていた。
セラは顔色が悪い。地下での索敵、保存膜の確認、黒匣記録板の表層読み取り。魔力だけでなく、神経を削られている。
ミレアは微温結界を維持しながらリーネを処置している。フェイも土壁の維持で魔力を使っている。ダグラスの肩には、監視殻虫戦で受けた傷が残っている。カイルも平静を装っているが、指先に疲労が出ていた。
この状態で第二層へ入る。無理だ。救助ではなく、自殺になる。
「今日は入らない」
俺は言った。全員がこちらを見る。オルディンが最初に反応した。
「それは危険だ。時間を置けば、内部の状況が悪化する可能性があるぞ」
「今入れば、こちらの状況が悪化します」
「しかし、第二層には監督官の記録片があり、施設の状況を把握するためにも――」
「記録は死なない」俺は遮った。「人間は死ぬ」
オルディンの目が細くなる。俺は構わず続けた。
「セラの耳が鈍れば、罠を探知できない。ミレアが崩れれば、救助者が死ぬ。今の隊で第二層へ入るのは、救助じゃない。死体を増やすだけだ」
フェイが黙った。セラも、反論しなかった。自分が消耗していることを、彼女自身が一番分かっている。カイルは深く息を吸った。それから、全員へ向き直る。
「現場責任者として判断します。本日は第二層へ突入しません。理由は、救助を成功させるための戦術的休養です」
言葉が、兵舎跡の中で重く響いた。
「リーネさんの処置、微温結界の維持、外部防衛線の再構築、各員の睡眠と魔力回復を優先します。夜間は交代で見張り。夜明け前に再評価し、第二層への突入可否を決定します」
「夜明け前?」
フェイが言う。
「朝になってからじゃないんですか」
「朝になれば、塔の外から見られる可能性もあります」
ノアが静かに言った。
「夜明け前が一番、目が鈍る。敵も味方も」
ダグラスが頷く。
「それに、雪が止むなら明け方だろう。今よりは動きやすい」
ミレアが言った。
「リーネさんの状態も、数時間あれば少し安定させられます。今すぐ再突入されるより、成功率は上がります」
セラも小さく頷いた。
「私も、少し眠れれば、下の音をもう一度拾えます」
アンジェは腕を組んだ。
「寝てから地下の炉心へ突入って、なかなか嫌な予定ね」
「寝ないで突入するよりましだ」
アンジェは一瞬、何か言い返そうとして、やめた。
「……分かったわ。切り札も手入れが必要だものね」
「そうだ」
「そこで素直に肯定しないでくれる?」
少しだけ、空気が緩んだ。だが、ほんの少しだ。塔の奥にあるものは変わらない。アルゴス。古代魔導炉。補助認証片。
そして、オルディンがまだ隠している何か。カイルは見張りの割り振りを始めた。
「第一警戒、ダグラスさんとノア。第二警戒、僕とアンジェリーナ殿。第三警戒、ロイドさんとセラさん。ただしセラさんは完全睡眠を優先。異常があった場合のみ起こします。フェイは土壁の再構築後、休息。ミレアはリーネさんの処置を優先し、可能な範囲で仮眠」
「オルディンは?」
アンジェが聞く。カイルはオルディンを見た。
「中央で休んでください。荷物は確認させていただきます」
オルディンの表情が初めて、はっきり硬くなった。
「私物の検査か」
「危険物の確認です」
「私は資源局職員だ。機密物もある」
「ここは機密保持室ではありません。救助現場です」
カイルの声は揺れない。
「確認書に基づき、生存者救助と隊の安全を優先します。封鎖具、保存筒、認証具に類するものがある場合、申告してください」
オルディンはしばらく黙っていた。それから、革鞄をゆっくり差し出した。
「どうぞ。ただし、内容物の取り扱いには注意を」
俺はその手元を見ていた。差し出した革鞄。だが、袖口。腰帯。ブーツの内側。隠せる場所はいくらでもある。
カイルも、それに気づいたようだった。だが、ここで裸にして調べるわけにはいかない。まだ、この男は同行者だ。囚人ではない。その曖昧さが、現場を難しくする。
革鞄からは、封鎖札、保存筒、記録具、資源局の測定盤が出てきた。補助認証片らしきものはない。オルディンは静かに言った。
「ご納得いただけたか」
カイルは鞄を返した。
「現時点では」
オルディンは微笑を戻した。だが、その目だけは笑っていなかった。
ミレアの微温結界が、淡く光っている。その内側で、リーネは黒匣記録板を抱えたまま眠っていた。
彼女が命より先に守ろうとした記録。監督官が消そうとした記録。資源局が欲しがり、隠したがっている記録。
それを持ち帰れば、依頼の形は変わる。だが、持ち帰るためには、まず生きて夜を越えなければならない。
俺は剣を抱え、兵舎跡の外へ目を向けた。旧監視塔は、雪の向こうで沈黙している。沈黙しているものほど、次に動いた時が厄介だ。
「寝られる奴から寝ろ」
俺は言った。
「夜明け前に、もう一度あの腹へ入る」
誰も軽口を叩かなかった。それぞれが、自分の武器と役割を確認し、微温結界の淡い光を背に、夜へ入っていった。




