生存者の証言
「リーネさん。聞こえますか」
ミレアが呼びかける。女性の瞼がかすかに動いた。
「あなたは地上にいます。微温結界の中です。急に動かないでください」
唇が震える。声にならない息。ミレアは水を含ませた布で唇を湿らせた。
「喋れるなら、一言ずつ。無理なら頷くだけでいいです」
リーネの目が、薄く開いた。焦点は合っていない。だが、こちらを見ようとしている。
「……記録……」
「記録板はあります」
カイルが言った。
「あなたが抱えています。奪わせません」
その言葉に、リーネの指から少しだけ力が抜けた。だが、まだ板は離さない。俺は彼女の横に膝をついた。
「聞きたいことがある。答えられる分だけでいい」
リーネの視線がこちらへ向く。
「第二層に、まだ人はいるか」
リーネは喉を鳴らした。
「……ハルム……さん……」
「生きているか」
少し間があった。それが答えだった。それでも彼女は、言葉にしようとした。
「炉の……前……で……もう……」
ミレアが俺を見る。これ以上喋らせるな、という目だ。だが、リーネはまだ言葉を続けようとしている。
「記録……監督官の……記録片……ハルムさんが……隠して……」
「場所は」
「炉心……制御盤……下……」
カイルが素早く書き留める。リーネの呼吸が乱れる。ミレアが強く言った。
「ここまでです」
「待って……」
リーネの指が黒匣記録板を掴む。
「補助……認証……片……」
その言葉で、オルディンの顔が動いた。わずかだが、動いた。カイルが見逃さない。
「補助認証片とは何ですか、リーネさん」
リーネは答えようとした。だが、喉が鳴るだけだった。ミレアが首を振る。
「駄目です。意識が限界です」
リーネは最後に、ほとんど息だけの声で言った。
「止め……ないと……炉……起きる……」
言葉はそこで切れた。瞼が落ちる。微温結界の光が、彼女の胸の動きを追って淡く揺れた。ミレアが呼吸を確認する。
「まだ生きています。ですが、これ以上の聴取は無理です」
「十分だ。よく頑張ってくれた」
俺は立ち上がった。十分すぎる。第二層。炉。補助認証片。死んだ調査員ハルム。炉心制御盤の下に隠された監督官の記録片。アンジェがオルディンを睨む。
「あなた、今の言葉に反応したわよね」
「彼女は極度の低体温と魔力循環不全により錯乱の可能性がある」
オルディンは静かに言った。
「断片的な証言だけで、古代施設の危険性を断定するのは――」
「また断片」
アンジェの声が冷えた。
「監督官の死体。起動印。第二層の扉。保存膜。黒匣記録板。壁の刻字。本人の証言。それでも断片?」
「それらは、まだ体系立てられていない」
「体系立てたら、あなたに都合が悪くなるんじゃない?」
オルディンは答えなかった。カイルが黒匣記録板へ目を向ける。
「この記録板を確認できますか」
オルディンがすぐに言った。
「専門知識が必要だ。私が――」
「あなたには渡しません」
カイルは遮った。オルディンの口が止まる。カイルは続けた。
「セラさん。表面反応だけで、何か読めますか。封印を破らずに」
セラは少し迷った。
「完全な読み取りは無理です。でも、表層の魔力残響なら拾えるかもしれません。黒匣記録板は、記録そのものを守るために、外側にも警告を残すことがあります」
「お願いします。ただし、危険なら止めてください」
「はい」
セラは結界の内側へ入り、黒匣記録板へ杖を近づけた。リーネの腕から無理に外さない。抱えさせたまま、表面だけを読む。黒い板の縁に巻かれた封印帯が、かすかに光った。
古代文字ではない。資源局の暗号でもない。記録板そのものが、最後に記録した危険信号を浮かび上がらせている。
セラの額に汗が滲む。外は寒い。微温結界の内側も、暖かいわけではない。それでも汗をかくほど、集中している。
「読める部分だけでいい。無理をするな」
俺は言った。セラが小さく頷く。
「……地下第二層、冷却炉心管理区画」
全員が黙った。炉心。やはり、ただの地下施設ではない。セラは続ける。
「主起動印……補助認証片……両認証により、安全起動」
カイルが紙へ書き写す。
「片方だけでは?」
セラは眉を寄せた。
「主起動印のみでは起動保留。補助認証片のみでは……強制補助起動」
「強制補助起動?」
フェイが不安そうに聞いた。セラは唇を噛んだ。
「正規手順ではありません。主認証がないまま、補助側から炉を起こす方法です」
カイルの視線が、オルディンへ向いた。
「補助認証片。資源局は、それを持ち込んでいたのではありませんか」
「私は正式には聞いていない」
返答は同じだった。だが、今度は誰も、その言葉を信じなかった。セラの声が震える。
「警告があります。強制補助起動時、防御機構が不正起動と判定する可能性」
「防御機構の名称は」
セラは黒匣記録板を見つめる。封印帯の光が、一瞬だけ強くなった。
「……天眼監視機獣、アルゴス」
その名が、兵舎跡の中に落ちた。風の音が遠くなる。フェイが小さく呟いた。
「機獣……?」
ダグラスが盾を握り直す。
「嫌な名前だな」
ノアは塔の窓を見たまま、矢を番えた。
「内部に動きはなし」
「今は、な」
俺は言った。オルディンは黙っていた。知らないふりをするには、材料が増えすぎた。だが、認める気もない。この男はまだ、何かを諦めていない。カイルが黒匣記録板の内容を書き写し終え、紙を証拠袋へ入れた。
「整理します」
彼は全員へ向き直った。
「旧監視塔地下には、依頼書に記載されていない地下第二層が存在します。そこには冷却炉心管理区画、つまり古代魔導炉に類する施設がある可能性が高い」
オルディンが口を挟もうとした。カイルはその前に続ける。
「主起動印は監督官の死体から回収し、こちらで保全中。補助認証片の存在が黒匣記録板に記録されています。強制補助起動により、防御機構アルゴスが起動する危険がある」
「危険がある、というだけだ」
オルディンが言った。
「必ず起動するとは限らん」
「危険があるなら、救助隊はそれを前提に行動します」
カイルは言い切った。
「また、第二層奥の調査員ハルム氏は死亡している可能性が高い。ただし、監督官の記録片を炉心制御盤下に隠した可能性がある」
ミレアがリーネの状態を見ながら言う。
「リーネさんの証言は、身体状態を考えると長時間のものは無理です。ただ、補助認証片と炉に関する部分だけは、反応が強かった。錯乱だけで片づけるには、黒匣記録板の表層記録と一致しすぎています」
アンジェがオルディンを見た。
「だそうよ」
オルディンは静かに答える。
「私はわざわざ医療判断には口を挟まんよ」
「他のことにはずいぶん挟むのに」
「アンジェ」
俺は止めた。彼女は不満そうに口を閉じる。責めるのは後だ。今は、次を決める時間だ。
空はかなり暗くなっていた。兵舎跡の外では雪が強くなっている。風が土壁に当たり、細かな雪を巻き上げる。塔の黒い入口は、夜の口のように開いていた。
セラは顔色が悪い。地下での索敵、保存膜の確認、黒匣記録板の表層読み取り。魔力だけでなく、神経を削られている。
ミレアは微温結界を維持しながらリーネを処置している。フェイも土壁の維持で魔力を使っている。ダグラスの肩には、監視殻虫戦で受けた傷が残っている。カイルも平静を装っているが、指先に疲労が出ていた。
この状態で第二層へ入る。無理だ。救助ではなく、自殺になる。
「今日は入らない」
俺は言った。全員がこちらを見る。オルディンが最初に反応した。
「それは危険だ。時間を置けば、内部の状況が悪化する可能性があるぞ」
「今入れば、こちらの状況が悪化します」
「しかし、第二層には監督官の記録片があり、施設の状況を把握するためにも――」
「記録は死なないが、人間は死ぬ」
オルディンの目が細くなる。俺は構わず続けた。
「セラの耳が鈍れば、罠を探知できない。ミレアが崩れれば、救助者が死ぬ。今の隊で第二層へ入るのは、救助じゃない。死体を増やすだけだ」
フェイが黙った。セラも、反論しなかった。自分が消耗していることを、彼女自身が一番分かっている。カイルは深く息を吸った。それから、全員へ向き直る。
「現場責任者として判断します。本日は第二層へ突入しません。理由は、救助を成功させるための戦術的休養です」
言葉が、兵舎跡の中で重く響いた。
「リーネさんの処置、微温結界の維持、外部防衛線の再構築、各員の睡眠と魔力回復を優先します。夜間は交代で見張り。夜明け前に再評価し、第二層への突入可否を決定します」
「夜明け前?」
フェイが言う。
「朝になってからじゃないんですか」
「朝になれば、塔の外から見られる可能性もあります」
ノアが静かに言った。
「夜明け前が一番、目が鈍る。敵も味方も」
ダグラスが頷く。
「それに、雪が止むなら明け方だろう。今よりは動きやすい」
ミレアが言った。
「リーネさんの状態も、数時間あれば少し安定させられます。今すぐ再突入されるより、成功率は上がります」
セラも小さく頷いた。
「私も、少し眠れれば、下の音をもう一度拾えます」
アンジェは腕を組んだ。
「寝てから地下の炉心へ突入って、なかなか嫌な予定ね」
「寝ないで突入するよりましだ」
アンジェは一瞬、何か言い返そうとして、やめた。
「……分かったわ。切り札も手入れが必要だものね」
「そうだ」
「そこで素直に肯定しないでくれる?」
少しだけ、空気が緩んだ。だが、ほんの少しだ。塔の奥にあるものは変わらない。アルゴス。古代魔導炉。補助認証片。
そして、オルディンがまだ隠している何か。カイルは見張りの割り振りを始めた。
「第一警戒、ダグラスさんとノア。第二警戒、僕とアンジェリーナ殿。第三警戒、ロイドさんとセラさん。ただしセラさんは完全睡眠を優先。異常があった場合のみ起こします。フェイは土壁の再構築後、休息。ミレアはリーネさんの処置を優先し、可能な範囲で仮眠」
「オルディンは?」
アンジェが聞く。カイルはオルディンを見た。
「中央で休んでください。荷物は確認させていただきます」
オルディンの表情が初めて、はっきり硬くなった。
「私物の検査か」
「危険物の確認です」
「私は資源局職員だ。機密物もある」
「ここは機密保持室ではありません。救助現場です」
カイルの声は揺れない。
「確認書に基づき、生存者救助と隊の安全を優先します。封鎖具、保存筒、認証具に類するものがある場合、申告してください」
オルディンはしばらく黙っていた。それから、革鞄をゆっくり差し出した。
「どうぞ。ただし、内容物の取り扱いには注意を」
俺はその手元を見ていた。差し出した革鞄。だが、袖口。腰帯。ブーツの内側。隠せる場所はいくらでもある。
カイルも、それに気づいたようだった。だが、ここで裸にして調べるわけにはいかない。まだ、この男は同行者だ。囚人ではない。その曖昧さが、現場を難しくする。
革鞄からは、封鎖札、保存筒、記録具、資源局の測定盤が出てきた。補助認証片らしきものはない。オルディンは静かに言った。
「ご納得いただけたか」
カイルは鞄を返した。
「現時点では、記録しておきます」
オルディンは微笑を戻した。だが、その目だけは笑っていなかった。
ミレアの微温結界が、淡く光っている。その内側で、リーネは黒匣記録板を抱えたまま眠っていた。
彼女が命より先に守ろうとした記録。監督官が消そうとした記録。資源局が欲しがり、隠したがっている記録。
それを持ち帰れば、依頼の形は変わる。だが、持ち帰るためには、まず生きて夜を越えなければならない。
俺は剣を抱え、兵舎跡の外へ目を向けた。旧監視塔は、雪の向こうで沈黙している。沈黙しているものほど、次に動いた時が厄介だ。
「寝られる奴から寝ろ」
俺は言った。
「夜明け前に、もう一度あの腹へ入る」
誰も軽口を叩かなかった。それぞれが、自分の武器と役割を確認し、微温結界の淡い光を背に、夜へ入っていった。




