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保存膜

 俺達は最後の数段を上がりきる。塔一階。入口。外の冷たい白光。その向こうに、ミレアが待っていた。

 

 「ここへ!」

 ミレアは荷車の板を外し、簡易担架を作っていた。

 

 ダグラスが盾で入口側を守り、フェイが土壁の一部を開け、ノアが外部へ矢を向けている。兵舎跡は、もうただの廃墟ではなかった。治療拠点であり防衛線だ。

 

 担架で微温結界の内側へ運び込んだ女性調査員は、まだ黒匣記録板を離さなかった。意識はない。呼吸も浅い。それでも、両腕だけは板を抱え込むように固まっている。

 凍えた指は白く、爪の先は紫色だった。普通なら力など入るはずがない。だが、それでも離さない。肉体の力ではなく、最後に残った意思で掴んでいるように見えた。

 

 ミレアが膝をつき、保存膜の表面に手を当てた。

 「全員、少し下がってください。外気と結界内の温度差を急に変えたくありません」

 

 フェイが土壁の陰から顔を出す。

 「温めればいいんじゃないんですか?」

 「急に温めると死にます」

 

 ミレアは短く答えた。フェイの顔がこわばる。ミレアは治療袋から白布を取り出し、女性調査員の胸と腹の上へ重ねた。

 

 「手足を先に戻すと、冷えた血と乱れた魔力が一気に心臓へ戻ります。まず胴体。呼吸。心臓。魔力循環の中心からです」

 

 治癒術師の声だった。戦場で命を扱う者の声。焦りはない。同情に溺れることもない。ただ、助けるために必要な順番を、淡々と積み上げている。セラが杖を握ったまま、保存膜を見つめていた。

 

 「膜の内側で、魔力が引き延ばされています」

 「引き延ばす?」

 

 アンジェが聞く。

 「流れを止めるんじゃなくて、薄く長く伸ばしている感じです。人を治すためじゃなくて、状態を変えないために」

 

 ミレアが頷いた。

 「おそらく、古代式の保存膜です。死なせないための処置ではあります。でも、治癒ではありません」

 「どう違うの」

 

 アンジェが問う。ミレアは女性調査員の首筋に指を当てながら答えた。

 「治癒は、人間を生きている状態へ戻します。これは、人間を今の状態に留めています」

 「つまり」

 「死なない程度に、死にかけのまま固定している」

 

 フェイが息を呑んだ。ダグラスが低く呟く。

 「悪趣味だな」

 「ああ」俺は答えた。「本来は人間を回復するための膜じゃない。何かの反応をそのまま残すための膜だ」

 

 オルディンは黙っていた。いつものような説明も、訂正もない。その沈黙が、むしろ雄弁だった。

 カイルはそれを見ていた。証拠袋に収めた主起動印。女性調査員が抱える黒匣記録板。保存膜。監督官の死体。地下第二層の扉。彼の中で、それらが一本の線になりつつあるのが分かる。

 

 「ミレア。膜は剥がせるか」

 「剥がす、というより、結界側へ移します。でも時間をください。無理に破れば、この人の身体が外気に耐えられません」

 「必要なものは」

 「乾いた布、温めていない水、細い杭を四本。それと、風が強くて体温が下がる恐れが」

 「フェイ。土壁を半歩分だけ内へ寄せろ。高くしすぎるな。空気が籠もる」

 「分かりました」

 

 フェイはすぐに杖を立て、兵舎跡の外壁に沿って低い土壁を動かした。俺はカイルを見た。

 「証拠袋は」

 「ここに」

 

 カイルは胸元の内側を押さえた。主起動印を封じた袋は、外から見えない位置にある。

 「オルディン殿からも、離しています」

 

 オルディンが静かに言った。

 「私をそこまで警戒する必要があるのか」

 「あります」

 

 カイルが即答した。以前なら、少し躊躇ったかもしれない。だが今は違う。

 「依頼書に記載されていない第二層。監督官の起動印。保存膜。黒匣記録板。これらについて、あなたは説明していません」

 「私も正式に知らされておらんよ」

 「その言葉は、もう記録しました」

 

 カイルは淡々と言った。

 「次に必要なのは、現場判断です」

 

 オルディンの目が、ほんの少し細くなる。カイルは視線を逸らさなかった。怒りに飲まれてはいない。責任者として立ち始めている。

 ミレアが保存膜の端へ杭を打った。微温結界の淡い光が、膜の表面へ染み込むように広がる。白い膜が震えた。女性調査員の呼吸が、一瞬止まりかける。

 

 「息が浅い」

 セラが言った。

 

 「大丈夫です。まだ戻せます」

 ミレアは女性の胸に手を置き、短く詠唱した。派手な光はない。ただ、微温結界の淡い光が、呼吸の上下に合わせて細く脈打つ。

 

 「名前が分かりますか」

 ミレアが聞いた。カイルが女性の首元にある識別札を確認する。

 

 「リーネ・ハルト。北方資源局、測量補助員」

 「リーネさん。聞こえますか」

 

 ミレアが呼びかける。女性の瞼がかすかに動いた。

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