生存者
アンジェが左へ流れ、セラが水面の音を拾う。カイルは俺の横に立ち、オルディンを視界の端に入れた。
オルディンの表情から、血の気が少し引いていた。知らないものを見た顔ではない。知っていたものが、予想より悪い形で出てきた顔だった。カイルが静かに言う。
「オルディン殿。ここから見える範囲で身元を確認してください」
オルディンは一歩前へ出かけた。カイルの剣先が、その前を遮る。
「そこからで結構です」
オルディンは足を止めた。
「北方資源局、現地監督官ベルトラム・ゼーゲン。今回の調査隊責任者だ……」
「なぜ、依頼書にない金属扉の前で死んでいるのですか」
「現地で未知の扉を発見し、確認を試みた可能性が……」
「その手に持っているものは」
監督官の右手には、円形の金属盤が握られていた。扉中央の窪みと、同じ大きさに見える。オルディンはすぐには答えなかった。その沈黙が答えの一部だった。
「オルディン殿」カイルの声がさらに低くなる。「専門家として、答えてください」
「……起動印、あるいは認証盤に類するものだ」
「鍵ですね」
「その可能性はある」
可能性。類するもの。かもしれません。この男は、言葉に逃げ道を作るのが上手い。俺は監督官の死体へ近づいた。黒い水が揺れる。
「水中、右に二つ。小さいです」
セラが言った直後、水面から青い殻虫が跳ねた。アンジェの細剣が一体を貫く。もう一体は俺が剣の腹で弾き、壁へ叩きつけた。
俺は監督官の前に膝をつく。胸の傷を見る。細く、深い。人間の剣ではない。金属の針か、脚。監視殻虫より大きな何かに、胸を貫かれている。
監督官の顔は凍りついていた。恐怖だけではない。最後に、自分が間違えたことを理解した顔に見えた。
短剣を抜き、凍りついた指を一本ずつ外した。円形の起動印は、死体の魔力を吸っているように淡く光っていた。
「セラ。これを外すと何か動くか」
セラが目を閉じる。
「扉が反応しています。でも、足りません」
「足りない?」
「受け取る場所が二つあります。これは片方だけです。もう一つ、別の認証が必要です」
オルディンの肩がほんの少し動いた。セラは扉を見たまま言った。
「恐らく、主になる印と、補助の認証片……だと思います。片方だけだと、扉が開かない。でも、完全に眠るわけでもない」
「補助認証片」
カイルがその言葉を繰り返した。オルディンの顔から、ほんの一瞬、色が消えた。
それで十分だった。俺は起動印を外した。扉の紋様が青く光る。水槽室全体に、低い振動が走った。
古代文字が扉の表面を流れ、すぐに止まる。開かない。だが、完全に沈黙もしない。まるで、片目だけを開けた獣のようだった。
「主起動印を確認」
セラが呟くように言った。
「でも、補助認証がないから、保留状態になっています」
カイルがオルディンを見る。
「補助認証片について、資源局は把握していたのですか」
「私は正式には聞いていない」
またそれだ。アンジェが冷たく笑う。
「正式じゃなければ、何を知っていても知らないことにできるのね」
オルディンは答えなかった。俺は起動印を布で包み、カイルへ渡した。
「証拠袋に入れろ。誰にも渡すな」
オルディンが口を開く。
「それは資源局の管理対象だ」
「今は救助隊の危険物です。帰ってから奪って下さい」
カイルは起動印を証拠袋へ入れ、封をした。
「現場責任者として保全します。救助完了まで、資源局単独での管理は認めません」
オルディンの微笑が、また少し薄くなった。水槽奥の金属扉は、低く鳴っている。開かない。だが、待っている。俺はその音を聞きながら言った。
「これ以上、扉は触らない。他の第一層の探索を続けよう」
オルディンが言う。
「しかし、扉の向こうに救助対象がいる可能性もある」
「可能性だけで、足りない認証を補えません。開け方も、閉じ方も分かっていない。今触れば、救助じゃなく事故になります」
カイルが頷いた。
「同意します。第一層で生存者の確認を優先します」
雨水槽を離れ、右側通路へ向かう。途中、壁に削られた文字があった。帝国文字だ。資源局の誰かが、短剣か工具で刻んだのだろう。
『記録を消される』 『監督官は知っていた』『炉』
最後の文字は途中で途切れている。その下に、血の跡。誰かがここで倒れかけ、それでも文字を残した。
カイルは声を失ったように立ち尽くした。アンジェが低く言う。
「もう、十分じゃない?」
「まだだ」
俺は言った。
「十分だと決めるには、生きている奴を探してからだ」
セラが杖を右奥へ向けた。
「小部屋があります。中に、弱い人の呼吸音。かなり薄いです」
「行こう」
小部屋の扉は、凍りついていた。アンジェが細剣を差し込み、蝶番の霜を削る。
カイルが肩で押し、俺が下から持ち上げる。扉が鈍い音を立てて開いた。
中は避難壕のような場所だった。壁には古代文字の警告。床には資源局の測量具。
壊れたランタン。破れた記録紙。そして、部屋の奥に白い膜があった。人の形を包んだ、薄い氷のような膜。
「あちらです」
セラが言った。声が少し震えていた。白い膜の中にいたのは、女性調査員だった。年は二十代半ばほど。
資源局の防寒服を着ているが、袖は破れ、左足は不自然な角度で固定されている。
彼女は両腕で、黒い板のようなものを抱えていた。表面に細い古代文字。縁に封印帯。ただの記録板ではない。黒匣記録板。消される前に持ち帰るべきもの。
「保存膜か」
オルディンが後ろから言った。今度は興奮を隠せていなかった。
「冷却反応を利用した生命維持……いや、停止保存に近い。これは――」
「生きているんですか」
俺が聞くと、オルディンは言葉を止めた。
「おそらくな。だが確認が必要だ」
セラは慎重に近づいた。杖先を保存膜へ向ける。
「膜の中に、すごく弱い音があります。心臓……だと思います。でも、遅いです」
生きている。かろうじて。カイルが一歩入ってくる。
「救助対象です。外へ運びましょう」
オルディンが即座に言った。
「待て。保存膜を破れば、急激な温度変化で死亡する恐れがある。まず構造を確認し、解除手順を――」
「それは救助のためですか、記録のためですか」
俺が聞くと、オルディンは表情を硬くした。
「両方だ。乱暴に動かせば助からない」
それ自体は正しい。正しいが、続きがあるはずだ。
「解除には?」
「最低でも半刻。正確には、反応式を読み取らなければ」
「半刻ここに留まるのは危険です」カイルが言った。「外へ連絡し、ミレアを呼ぶべきでは」
「駄目だ」
俺は即答した。カイルが振り返る。
「なぜです」
「外の四人を崩すな。ミレアを中へ入れると、入口の防衛が弱くなる。さらに負傷者を増やす可能性がある」
「ですが、生存者が」
「だから、こちらから外へ送る」
俺は保存膜を見る。
「セラ。膜を壊さずに、移動できるか」
セラは青ざめた顔で考えた。
「膜そのものは、壁の魔力流路から供給されています。切り離すと壊れます。でも……短い間なら、私の魔力を流し込んでで形を保てるかもしれません」
「どれくらい」
「分かりません。数分……いえ、もっと短いかも」
「十分だ」
オルディンが口を挟む。
「危険だ。保存膜は貴重な反応です。無理に動かせば、本人も反応も失われる」
「人間の方を先に心配しなさいよ」
アンジェが低く言った。オルディンはアンジェを見る。
「もちろん、生存者の安全を考えての発言だ」
「そう聞こえないのよ」
室内の空気が冷える。ただでさえ寒い部屋の中で、別の冷たさが加わった。カイルが一歩前へ出た。
「確認書の第一項。生存者確認時、資源資料および試料の回収より救助を優先する」
彼ははっきりと言った。
「この方は生存者です。救助を優先します」
カイルの横顔は以前より少し違っていた。肩書きを守るためではなく、責任を果たすために声を出している。まだぎこちない。だが、悪くない。
「やるぞ」俺は言った。「手順を決める。セラが保護膜を保つ。俺が担ぐ。アンジェとカイルは周囲の警戒。外の反響針へ二回、負傷者ありの合図を送る」
「分かりました」
セラが杖を握る。俺は壁の反響針を二回叩いた。こん。こん。少し遅れて、外から二回返る。伝わった。ミレアは準備するはずだ。
「セラ。無理をするな。膜が崩れそうなら言え」
「でも」セラは唇を結び、頷いた。「はい」
彼女は保存膜へ杖を向けた。魔力が広がる。透明な殻が一瞬揺らぎ、青白い光を帯びた。男の身体が、わずかに震える。
「今です」
俺は女性を持ち上げた。軽い。軽すぎる。三日間、この冷たい膜の中で生命だけを細く燃やしていた身体だ。
「顔を下げるな。気道を確保しろ。膜内の空気が偏る」
俺は一瞬だけオルディンを見た。目的がなんであれ、今の指示は救助に役立つ。
「分かりました」
女性の頭の角度を直す。避難壕を出る。その瞬間、壁が喋った。
「置いていかないで」
女性の声だった。いや、女性の声に似せた壁の声。アンジェの肩が揺れる。
「無視しろ」
俺は言った。
「今ここにいるのが本物だ」
「分かってるわよ」
だが、声は続く。
「こっちよ。第二層へ」
最後の声で、全員の足が一瞬止まりかけた。第二層。壁がその言葉を使った。つまり、調査隊の誰かがここでその言葉を言ったのだ。
「進め。声に意味を探すな。今は運ぶ」
セラの息が荒くなっている。保存膜を保つ魔力制御は、彼女にとって軽くない。しかもこの地下では、音も魔力も壁に吸われる。
「あと少しだ」
階段が見える。そこまで行けば、入口へ繋がる。セラが息を詰める。
「膜、持ちません……!」
「あと少しだ。踏ん張ってくれ」
「はい……!」
階段を上がる。女の身体が冷たい。だが、胸の奥でかすかに鼓動がある。
「アンジェ、先に出て道を開け」
「了解!」
アンジェが階段を駆け上がり、入口へ向かう。
「外! 生存者一名! 保存膜付き!」
彼女の声が響いた。入口から光が見えた。
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