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入り口での攻防

 カイルは塔を見上げたまま、剣を握っていた。助けを求める声。救助隊。現場責任者。その三つが、彼を前へ押している。だが、カイルは一度目を閉じた。そして、低く言った。

 

 「全員、入口へ直行せず、周囲確認を継続してください」

 いい判断だった。苦しそうな顔で出せたなら、なおいい。

 

 「ノア、塔上部に射線。フェイ、入口前の雪をどけるな。罠があるかもしれない。ダグラス、兵舎跡を先に見る」

 

 カイルの声が、少しずつ指揮の形を取り始めていた。俺は何も言わなかった。代わりに、塔入口の左側へ視線を向ける。

 倒れた石柱の陰に、何かが落ちていた。革表紙の小さな帳面。半分が凍りつき、端は破れている。俺は近づき、短剣の先で雪を払った。

 

 「セラ。触る前に魔力を見てくれ」

 セラが杖を近づける。

 

 「弱いです。罠ではないと思います。ただ、冷えています」

 俺は布を巻いた手で帳面を拾った。表紙には資源局の小印。調査隊の記録帳だ。中を開く。紙は湿って凍り、文字は滲んでいた。だが、いくつかは読める。

 

 《一日目。旧監視塔到着。外周安全確認。塔上部に音響反応あり。》

 《地下第一層、予定より低温。雨水槽奥に不自然な金属壁。》

 

 ページをめくる。

 《監督官は記録不要と言う。だが測量値が合わない。地図より深い。》

 《扉を発見。地図にない。資源局は知っていたのか。》

 

 次のページは、文字が乱れていた。

 《第二層へ入るな。》

 

 そこだけ、強く書かれている。紙を裂くほどの筆圧で。アンジェが横から覗き込んだ。

 

 「第二層……」

 セラが息を呑む。カイルも近づき、帳面を見た。

 「地図にない地下構造」

 

 昨日の追加確認書の文言が、そこに重なる。オルディンが手を伸ばした。

 「その記録帳は資源局の所有物だ。確認を」

 

 俺は渡さなかった。

 「カイル」

 

 カイルは一瞬だけ迷った。だが、すぐに言った。

 「その記録は、救助隊全体の判断に関わります。ここで共有します」

 

 オルディンの手が止まる。

 「誤解するな。隠す意図はない」

 

 そう言いながら、その目は帳面の文字を追っていた。特に、《第二層》の文字を。

 「オルディン殿」カイルが言った。「第二層について、事前に情報は?」

 「ない」

 

 早い。やはり早い。カイルもそれに気づいたのか、眉をひそめた。

 「即答できるのですね」

 「把握していないものは、把握していないとしか答えられんよ」

 

 オルディンは穏やかに返す。だが、空気はもう変わっていた。誰もが、救助依頼の下に別のものがあると理解し始めている。その時、塔の上からまた声が響いた。

 

 「助けてくれ……入口だ……こっちへ……」

 同時に、塔の外壁で何かが動いた。ノアが弓を上げる。

 「上!」

 

 黒い石壁の亀裂から、丸い殻が滑り出した。虫。いや、虫の形をした魔導生体だ。

 拳ほどの大きさ。薄い金属光沢のある殻。六本の脚。頭部には小さな青い光点がある。一体ではない。亀裂から、窓枠から、崩れた屋根の陰から、次々と這い出してくる。

 監視殻虫。古代施設の外部監視機構が、魔物化したか、半ば暴走したものだろう。

 

 「ノア、撃つな」

 俺は言った。ノアの指が止まる。

 

 「まだ撃たないのか」

 「一体撃つと、全部がこっちを見る。先に戦場を把握する」

 

 監視殻虫は、すぐには襲ってこなかった。塔の外壁を這い、青い光点をこちらへ向けている。観察している。数を数えている。距離を測っている。そしておそらく、入口へ追い込むつもりだ。塔の声。入口へ誘う偽の救難信号。外壁から出る監視殻虫。繋がっている。

 

 「入口で戦うな。全員、兵舎跡へ下がる」

 フェイが驚いた顔をした。

 「下がるのか? 入口を取られるぞ」

 「入口前は敵が選んだ戦場だ。ならこっちは兵舎跡を使う」

 

 俺は崩れた兵舎跡を指した。塔の入口から斜め右。

 三方の壁が半分ほど残り、屋根の一部も落ちずに残っている。入口に近すぎず、遠すぎない。塔から敵が出てきても誘導できる。後方の雪原へも下がれる。ダグラスが頷いた。

 

 「賛成だ。入口前は地面が凍っていて、やり辛い」

 ミレアが兵舎跡の床を見て言った。

 「ここなら、簡易結界を張れそうよ」

 

 カイルが振り返った。

 「結界?」

 「完全な防御結界ではありません。敵の攻撃を防ぐものでも、傷をすぐ塞ぐものでもありません」

 

 ミレアは治療袋から白い布と小さな銀杭を取り出した。

 「ただ、冷えと出血の進行を遅らせます。負傷者を一時的に置く場所にはできます」

 「戦闘中に張るのですか」

 「戦闘中だからです」

 

 ミレアの声は落ち着いていた。

 「倒れてから治すのでは間に合いません。倒れても戻れる場所を先に作ります」

 

 その言葉に、カイルが一瞬黙った。俺は頷いた。

 「やってくれ。ここを治療拠点にする」

 

 ミレアの表情が引き締まる。俺はすぐに指示を出した。

 「ダグラス、兵舎跡の西壁。盾で穴を塞げ。フェイ、土壁を足して防御を固めろ。だが、高くしすぎるな、視界を残せ。ノアは井戸の横。オルディンは荷車の陰」

 

 オルディンが言う。

 「私は入口確認に同行する必要が」

 「今は邪魔よ」

 

 アンジェが即答した。俺は続ける。

 「セラ、偽の声を消せるか」

 「全部は無理です。でも、方向だけならずらせます」

 「入口ではなく、兵舎跡から聞こえるようにしろ」

 

 セラが一瞬、目を見開いた。

 「誘うんですね」

 「ああ。向こうが音で誘うなら、こっちも誘い返す」

 

 カイルが剣を握り直した。

 「ロイドさん。私はどこを守ればいい」

 

 その一言で、周囲の空気が少し変わった。カイルが、自分から聞いた。どこを攻めればいい、ではない。どこを守ればいい、と。俺は兵舎跡の背後、雪に埋もれた旧街道の方を指した。

 「入口じゃない。退路だ」

 

 カイルはそちらを見る。目印として打ち込んだ帰還標が、少し離れた石標の根元で揺れている。

 「帰還標から兵舎跡までの線を切らせるな。敵がそこへ回り込んだら、最悪の場合、退却できなくなる」

 

 カイルは短く頷いた。

 「分かりました。ダグラス、僕と帰還標側を押さえる。フェイはロイドさんの指示通り通路を絞れ。ノア、塔の上部。ミレアは結界を」

 

 命令が通った。今度は、カイルの声で。それでいい。俺の指示を、そのまま隊の命令へ変える。現場責任者がそうできるなら、隊は迷わない。

 

 ミレアは兵舎跡の床に白い布を広げ、四隅へ杭を打った。

 

 布の上には、薄い治癒文字が刺繍されている。派手な魔法陣ではない。小さな文字が、糸のように繋がり、床の冷えを押し返す形になっている。

 

 ミレアが左手を布へ置き、短く詠唱した。淡い光が床を走る。温かい、と言うほどではない。だが、そこだけ冷気の刺さり方が少し弱くなった。

 「《微温結界》です」

 ミレアが言った。

 

 「体温と魔力循環を、ほんの少しだけ守ります。長くは持ちません」

 「十分だ」

 

 その直後、塔の壁が鳴った。かりかり。石を削るような音。

 「来るぞ!」

 

 カイルが叫ぶ。監視殻虫が、塔の入口と壁から一斉に這い出した。セラが杖を振る。塔の入口から聞こえていた偽の声が、兵舎跡の奥へずれた。

 

 「助けてくれ……こっちだ……」

 声が、兵舎の崩れた壁の向こうから聞こえるように変わる。監視殻虫の青い目が、一瞬そちらへ向いた。

 

 「今です!」

 「ノア!」

 矢が飛んだ。一体目の青い目を貫く。殻虫は壁から落ち、雪の上で脚を痙攣させた。

 フェイが杖を地面へ叩きつける。兵舎跡の手前に、低い土壁が盛り上がった。高くはない。膝ほど。だが、虫の脚を引っかけるには十分だった。ダグラスが盾を構える。

 

 「こっちだ、化け物ども!」

 

 彼は正面で受けない。盾を斜めにして、突っ込んできた殻虫の勢いを兵舎跡の通路へ流す。そこへカイルの剣が入る。殻の隙間。脚の根元。青い目の下。カイルの剣は派手ではないが、正確だった。

 

 「フェイ、右の土壁を少し下げろ!」俺は叫ぶ。「高すぎる。ノアの射線が死ぬ!」

 「了解!」

 

 フェイがすぐに土壁を削る。彼の顔には焦りがあった。だが、火球を撃とうとはしない。土を動かす。足場を作る。壁を整える。地味だ。だが、その地味な仕事が、兵舎跡を陣地に変えていく。

 

 アンジェが左側面を走った。塔の壁を伝って回り込もうとした殻虫へ、細剣を突き込む。

 一体。二体。攻撃の後、彼女はすぐに戻る。速さを、突出ではなく帰還に使っている。

 

 「切り札らしく働いてるわよ!」

 アンジェが叫ぶ。

 「喋る余裕があるなら右上だ!」

 「見えてる!」

 

 右上の窓から飛び出しかけた殻虫を、アンジェが壁を蹴って叩き落とす。その下へノアの矢が刺さる。連携が少しずつ噛み合っている。だが、敵も止まらない。

 一体の殻虫が、土壁を越えて内側へ飛び込んだ。狙いはミレアの結界。ミレアは動かない。動けない。微温結界を維持しているからだ。

 

 「カイル!」

 俺が叫ぶより早く、カイルが前へ出た。剣で殻虫の脚を払う。だが、完全には止めきれない。殻虫の爪がミレアの腕をかすめた。血が散る。

 

 「結界を維持します!」

 ミレアは顔を歪めたが、手を布から離さなかった。

 「軽傷ですから、騒がないでください」

 

 冷静な声。それが逆に、周囲を落ち着かせた。俺は前へ出て、殻虫の青い目を盾で叩き潰す。殻が割れ、青白い液が雪に落ちた。

 

 ミレアの腕から血が流れている。だが、微温結界の内側にいるためか、血の流れは早くない。彼女は自分の腕に短い布を巻き、片手で結界を維持し続けた。

 

 「治癒術師の仕事は、傷を塞ぐことだけではありません」

 ミレアが言った。

 「生きて戻ってこられる場所を、先に作ることです」

 

 カイルがその言葉を聞いていた。彼の表情が変わる。何かを覚えた顔だった。

 「結界の内側へ入れるな!」

 

 カイルが叫んだ。

 「ダグラス、正面の敵を対応! フェイ、左の壁を厚く! ノア、上の眼を!」

 

 命令が早くなった。まだ荒い。だが、責任者の声になっている。ダグラスが低く笑った。

 「了解だ、隊長」

 

 カイルは一瞬だけ苦い顔をしたが、すぐに前を見る。監視殻虫の群れは、兵舎跡の通路へ流れ込んでくる。

 

 入口で戦っていれば、こちらが囲まれていた。だが、今は違う。土壁。半壊した石壁。ノアの射線。アンジェの側面遊撃。ミレアの微温結界。セラの偽声誘導。

 それらが、ひとつの陣地を作っている。俺は後方寄りから全体を見る。赤黒い死線がいくつも走る。

 

 土壁を越えられる線。ミレアへ飛び込まれる線。オルディンが勝手に塔入口へ動く線。ノアの射線が塞がる線。フェイが焦って火を撃つ線。それらを一つずつ潰す。

 殻虫の数が減っていった。セラが偽声を薄くし、ノアが青い目を射抜き、フェイの土壁が脚を止める。ダグラスとカイルが通路を支え、アンジェが側面から落とす。

 そして、怪我をした者は結界内で一瞬立て直す。ダグラスが肩を打たれた時も、ミレアが短く指示した。

 

 「結界内へ一歩。肩を回さないで」

 「まだ動ける」

 「動ける時間を買うだけです。治したわけではありません」

 

 ダグラスは一歩だけ結界内へ下がり、呼吸を整えた。微温結界の光が彼の肩を淡く包む。完全に治るわけではない。だが、指先の震えが少し止まった。

 「十分だ」

 

 ダグラスは再び前へ出た。フェイも冷気で指が鈍った時、結界の縁に杖をついて息を整えた。

 「手が戻った……!」

 「結界の外へ出すぎないでください」

 

 ミレアが言う。

 「分かってます!」

 

 今のフェイは、火球を撃つより土壁を維持する方に集中している。良い変化だ。最後の監視殻虫が、塔の入口へ逃げ戻ろうとした。

 ノアが射る。だが、殻が硬く、矢が弾かれた。アンジェが追いかけようとする。

 「追うな!」

 

 俺は叫んだ。アンジェは足を止めた。殻虫は入口の闇へ消えかける。その瞬間、塔の入口の床から細い針が一斉に突き出した。青白い針。入口前に踏み込んでいたら、足も胴も貫かれていた。アンジェが息を呑む。カイルも顔を青くした。

 

 「入口で戦っていたら……」

 「そういうことだ」

 

 俺は言った。監視殻虫の残骸が雪の上に転がっている。兵舎跡には、土壁と矢と血の跡。微温結界の淡い光。誰も死んでいない。ミレアの腕に浅い傷。ダグラスの肩に打撲。フェイの指に軽い冷却障害。

 

 それだけで済んだ。カイルは兵舎跡を見回した。土壁。治療点。射線。彼はゆっくり息を吐いた。

 「戦う前に、戻る場所を作る……」

 ミレアが結界を維持したまま言った。

 

 「負傷者は、戻る場所がなければ負傷者ではなくなります。ただの死体になります」

 重い言葉だった。だが、戦場ではそれが事実だ。俺は頷いた。

 

 「覚えておけ。倒れてから考える隊は、だいたい間に合わない」

 カイルは静かに頷いた。

 「覚えておきましょう」

 

 オルディンが塔の入口を見ていた。針罠が出た床。逃げ込んだ殻虫。そして、その奥の闇。

 「入口内部の危険性は確認できた」

 彼は言った。

 「しかし、調査隊が中にいるなら、これ以上の遅延は――」

 「遅延ではありません」

 

 カイルが遮った。オルディンが彼を見る。カイルは剣を収めずに言った。

 「救助のための準備です。慎重を期して当然です」

 

 その言葉を、俺は黙って聞いた。悪くない。ミレアが結界を少し弱める。

 「このままでは長く持ちません。内部進入班が中へ入るなら、外の防衛拠点として最低限維持します」

 「できるか」

 

 俺が聞く。

 「はい。ただし、私がここを離れると結界は消えます」

 「なら、外に残ってくれ」

 

 ミレアは頷いた。カイルが顔を上げた。

 「内部へ入る人数を絞ります」

 「ああ」

 俺は塔の入口を見る。狭い塔内では中に入る人数が多いほど、射線が詰まり、指揮も難しくなる。外を守る人数が少なければ、救出者受け入れが出来ない。

 

 「中へ入るのは、俺、アンジェ、セラ、カイル。オルディン氏は必要な技術情報を持つため同行してもらう。ただし中央固定、単独行動禁止だ」

 

 ダグラスがすぐに理解したように頷いた。

 「俺たちは外か」

 「ダグラス、フェイ、ノア、ミレアは兵舎跡を守れ。ここが防御の要だ」

 

 ミレアの微温結界が淡く光る。

 「救助者を連れ出したら、ここで治療するわ」

 ミレアが言った。

 「保存膜や低体温状態でも、直接雪風に晒すよりは持ちます」

 「そのための結界だ」

 

 俺は頷く。現時点では、まだ内部で生存者を見つけられるかどうかは分からない。だが、防衛と治療のための拠点はできた。それだけで生存率は驚くほど変わる。

 カイルが外の四人を見る。

 

 「ダグラス、兵舎跡正面。フェイ、土壁維持と足場固定。ノア、外壁警戒。ミレア、結界維持と負傷者受け入れ。外が危険になったら反響針を連続で鳴らしてください」

 

 全員が頷いた。命令が通る。もう、ただの寄せ集めではない。短い戦闘を通じて、この隊は自分たちの形を少し掴んだ。

 

 俺はガノンの黒パンと干し肉を取り出した。アンジェが目を瞬く。

 「今食べるの?」

 「皆も中へ入る前に、腹へ入れておけ。冷えた地下で空腹だと判断が鈍る」

 

 ガノンの干し肉を全員へ分ける。外に残る四人にも渡した。ミレアは微温結界を維持しながら、片手で干し肉を受け取った。

 「ありがとうございます」

 「礼はガノンに言え」

 

 フェイが干し肉をかじる。

 「硬い……でも、うまいな」

 

 ダグラスが黒パンを割った。

 「戦場飯ってやつだな」

 

 ノアは黙って食べる。セラも小さく齧り、少しだけ表情を和らげた。アンジェは干し肉を噛みながら、塔を見た。

 

 「食べてから地獄に入るのね」

 「地獄に入るなら、なおさら食え」

 

 俺は答えた。

 「生きて戻る奴は食う」

 

 ミレアが頷いた。

 「正しいです」

 

 治癒術師に認められると、妙な説得力があった。カイルは黒パンを手に、塔の入口を見つめていた。

 「中で声が聞こえた場合、まずセラさんが確認。地図にない地下構造を確認した場合、確認書に従い停止。オルディン殿、よろしいですね」

 

 オルディンは微笑した。

 「救助の遅れにつながらない範囲でな」

 

 カイルは言った。

 「救助のためです」

 

 今度は、オルディンが黙った。俺は黒パンを飲み込み、武器を持った。兵舎跡には淡い微温結界。土壁。射線。防御。戻る場所は作った。

 なら、次は中だ。俺たちは塔の入口へ向かった。闇の奥から、また声が聞こえる。

 

 「助けてくれ……」

 偽物かもしれない。本物かもしれない。だが、俺は答えなかった。

 助ける相手は、声ではない。生きている人間だ。俺たちは、旧監視塔の中へ入った。

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