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奪われた指揮権

 アンジェリーナが剣を抜く。同時に、右の崩れた土塁の陰からも二体が飛び出した。隊列の中央が狙われている。オルディンとミレアの位置。俺は叫んだ。

 

 「密集するな! 中央、下がれ! フェイは撃つな、まだ近すぎる!」

 

 だが、フェイは反射的に詠唱を始めていた。恐怖で早撃ちしようとしている。射線を確保せずに火球を撃てば、味方を巻き込む。

 

 「撃つな!」俺の声と、カイルの声が重なった。「火球、撃て!」

 

 最悪だった。フェイが迷った。その一拍で、右から来た響き角狼が前衛の脇を抜けた。オルディンが悲鳴を上げる。俺は走った。若い身体が動く。だが、響き角狼の方が速い。

 

 「アンジェ!」

 「分かってる!」

 

 金色の影が俺の横を抜けた。彼女は正面の敵ではなく、オルディンへ向かう響き角狼の進路へ入った。アンジェリーナは細剣の腹で響き角狼の鼻先を叩いた。俺はフェイの方へ向き直った。

 

 「フェイ。火球を撃てば、雪の蒸気でノアの射線も死ぬ。敵を焼く前に、こっちの目と耳を潰す気か」

 

 フェイの杖先の火が揺れた。迷っている。その一瞬にも、右斜面の雪が鈍く沈む。俺は続けた。

 

 「火球はいらない。今は地面だ。街道中央の足場を固めろ。前衛が安定して戦える土台を作れ。今のお前の仕事は火力じゃない。支援だ」

 

 フェイは歯を食いしばった。赤い光が消える。代わりに、杖の先から鈍い黄土色の魔力が地面へ流れ込んだ。凍った土が軋む。雪の下で柔らかくなっていた街道中央が、低く固まっていく。

 

 直後、右斜面の上から雪が崩れた。白い塊が、フェイが火球を向けかけた場所を飲み込む。もし火を撃っていたら、熱で雪の庇はもっと大きく落ちていただろう。フェイの顔から血の気が引いた。

 

 「……今の」

 「敵はお前に撃たせたかった」

 

 俺は言った。

 「魔術師が焦って火球を撃てば、雪と煙で隊列が壊れる。そこを食うつもりだったんだ」

 

 フェイは喉を鳴らした。悔しさと恐怖が混じった顔だった。だが、杖を握る手は離していない。

 

 「次は?」

 「左へ低い土壁。高さは膝まで。高くするな」

 「高くしないのか?」

 「高い壁は敵も隠す。足だけ止めろ」

 「……分かった!」

 

 フェイが杖を振る。雪の下の土が盛り上がり、低い壁が街道の左側に走った。派手ではない。魔物を焼き払う火球のような歓声もない。だが、その低い土壁で、響き角狼の走路が一本潰れた。

 

 「セラ、音を左へ!」

 「はい!」

 

 セラの杖先が震える。周囲の足音が、左低地側へずれた。右から来ていた二体の響き角狼が、一瞬だけ標的を見失う。耳を動かし、音の方向を誤認した。その一秒で態勢を立て直すには十分だった。

 

 「ダグラス、正面で受けるな! 半歩下がれ!」

 

 ダグラスが、反射的に盾を構えようとしていた。響き角狼の冷気をまとった突進は、盾で受けると腕ごと持っていかれる。ダグラスは一瞬迷った。だが、半歩下がり、盾を斜めに構える。響き角狼の突進が正面から外れ、土塁へぶつかる。悪くない。

 

 「今だ、切れ!」

 アンジェリーナが一体の喉元を裂く。ノアが、ようやく位置を取り直して矢を放つ。戦場が、少し整い始めた。だが、まだ足りない。左の低地から、さらに三体。合計九。足跡より多い。いや、足跡を隠していたのか。

 

 響き角狼たちはこちらを包囲しようとしている。狙いは荷物か、あるいはオルディンか。

 

 「ミレア、オルディンを下げろ。中央から出すな」

 ミレアは即座にオルディンの腕を取った。

 

 「こちらへ」

 「私は――」

 「下がってください。負傷されると全体の足が止まります」

 

 言い方は丁寧だった。だが、有無を言わせなかった。オルディンは不満げに口を閉じる。

 

 「ロイドさん!」カイルが怒鳴る。「勝手に指示を出さないでいただきたい!」

 

 この状況で、それか。俺は一瞬だけカイルを見た。彼の顔には怒りと焦りが混じっている。指揮権を奪われたと感じているのだろう。だが、今そんなものを気にしている場合ではない。

 

 「なら指示しろ!」俺は叫び返した。「五秒以内に隊列を立て直せないなら、俺がやる!」

 

 カイルの顔が歪む。その五秒が、戦場では長すぎる。響き角狼が左から跳んだ。狙いはセラ。彼女は魔術で敵の認識を乱している。響き角狼の中に、それに気づいた個体がいる。

 

 「セラ、伏せろ!」

 

 彼女は反応した。だが、身体が遅い。アンジェリーナは別方向の敵を捌いている。

 その瞬間、脳裏に過去の戦場が重なった。吹雪。崩れた柵。左から跳ぶ魔物。守りきれなかった通信兵。

 

 血の色。同じ動きだ。肩の沈み。跳ぶ前の後脚の沈み。狙う高さ。《戦域管制》が警告を鳴らす。

 そこじゃない。跳ぶ先は、半歩右。俺は剣を投げた。狙ったのは響き角狼ではない。

 

 セラの右前方の地面。剣が泥に突き刺さる。響き角狼は反射的にそれを避け、軌道をずらした。その一瞬で、セラが倒れ込むように身を伏せる。響き角狼の爪が、彼女の頭上を掠めた。

 

 「セラ!」

 アンジェが戻ってくる。細剣が、響き角狼の脇腹を裂いた。血ではなく、薄い青白い体液が散る。冷たい匂いがした。セラは泥の上で震えていた。だが、生きている。

 

 「立てるか!」

 「は、はい……!」

 「無理はするな。後ろへ下がれ」

 

 セラは頷き、杖を支えに立ち上がる。その顔には恐怖があった。だが、完全には折れていない。彼女は震える声で言った。

 

 「音、もう一度ずらせます」

 「やれ」

 「はい!」

 

 セラの魔術が再び発動する。響き角狼たちの耳が動く。標的認識が乱れる。今だ。

 「敵は音を使って回り込む! 足元の泥を見ろ、跳ぶ前に沈みこむ!」

 

 ダグラスとノアが、今度は俺の声に反応した。彼らも分かり始めている。あの退役兵の指示を聞くと、死なない。それは理屈より早く伝わる。戦場では、正しい言葉は命の形をしている。

 

 響き角狼が突っ込む。ダグラスが流す。アンジェリーナが後脚を切る。ノアがとどめを刺す。フェイはようやく適切な距離まで下がり、小さな火弾を撃った。大きな火球ではない。それでいい。響き角狼の一体が火に怯んだところを、カイルが剣で貫く。

 

 戦闘は、そこから一気に傾いた。響き角狼は低い土壁で走路を絞られ、セラの音響欺瞞で群れ同士の位置感覚も狂っている。

 

 残り三体。そのうち一体が、突然退いた。逃げるのではない。こちらを見ている。赤く濁った目。群れの中核か。

 

 そいつが低く唸った瞬間、残り二体が同時に左右へ散った。狙いは――荷物。調査隊捜索用の装備と、資源局が持ち込んだ計測器具。オルディンが悲鳴を上げた。

 

 「計測器を守れ! あれは資源局の――」

 「命と計測器、どちらを守るか自分で選べ!!」

 

 俺は怒鳴った。人命より荷物を優先する声が、戦場でどれだけ人を殺すか知っている。だが、荷物を完全に失っても困る。計測器具が目的なら、そこに何かある。

 

 「アンジェ、右を流せ! 殺すな、足を止めろ!」

 「了解!」

 「ダグラス、左を押さえろ! フェイ、弓で牽制して間合いを作れ!」

 

 ダグラスが頷いた。もうカイルを見ていない。カイルはそれに気づき、顔を青くしていた。アンジェリーナが右の響き角狼へ走る。速い。だが、追いすぎない。敵の横へ入り、進路を切る。

 

 響き角狼が反転しようとした瞬間、彼女の剣が後脚の腱を裂いた。左は前衛二人が抑えた。セラが足音をずらし、響き角狼の突進角度をずらす。カイルの剣が胴へ入る。残るは中核個体。

 

 そいつは、こちらへ来なかった。一瞬だけ俺を見た。いや、見た気がした。そして、低地の奥へ消えた。

 

 「追うな! 戻った先に巣か、次の待ち伏せがあるかもしれない」

 アンジェリーナはすでに一歩踏み出しかけていたが、止まった。悔しそうに歯を食いしばる。だが、止まった。それだけで十分だった。

 

 カイルは剣を下ろした。しばらく、誰も喋らなかった。雪の落ちる音だけが、遠くへ消えていく。俺は周囲を見回す。

 負傷者なし。薬品使用なし。隊列は乱れたが、戻っている。悪くない。

 

 「ミレア。全員の足首と手を見てくれ。冷えと捻りだけ確認する」

 「分かりました」

 

 ミレアが即座に動く。カイルが、黙ってこちらを見ていた。

 その顔には、悔しさがあった。完全に無能だったわけではない。実際、彼は最後に狼を斬った。悪い動きではなかった。だが、その判断は自分から出たものではない。

 俺の指揮を受けてのものだ。それが、彼の中に刺さっている。カイルが低い声で言った。

 

 「ロイドさん。今の襲撃をいつから読んでいました」

 「セラが音の異常を拾った時からだ」

 「それだけで?」

 

 「それだけじゃない。雪の積もり方、斜面の形、敵がいるならどこから来るか。全部合わせただけだ」

 「簡単に言いますね」

 「簡単ではない」

 

 俺は倒れた響き角狼を見る。

 「だが、これが出来なかった奴は戦場で死んでいった」

 

 カイルは黙った。オルディンが後方から静かに言う。

 「見事な判断だった。なるほど、これなら旧監視塔でも期待できそうだ」

 

 その声には感心が混じっていた。だが、俺は気を抜かなかった。オルディンは戦闘の結果より、こちらの能力を測っている。どの程度なら使えるか。どこまで入らせられるか。そういう目だ。ミレアの確認が終わった。

 

 「軽い打撲が一名。ダグラスさんの左肩です。治療は不要。冷えも今のところ問題ありません」

 

 俺は頷いた。

 「五分だけ停止しよう。休憩じゃない。装備確認、隊列再編。終わった者から周囲を見ろ。響き角狼の角は回収しない」

 

 フェイが目を丸くした。

 「売れるぞ?」

 「時間が惜しい。血の匂いで別の群れが来る」

 

 ダグラスがすぐに盾を担ぎ直した。

 「なら早く離れようぜ。俺は動ける」

 

 カイルも頷いた。

 「全員、五分後に出発。隊列は先ほどのまま。右斜面から離れて進みます」

 

 今度はカイルの指示が早かった。俺は何も言わない。言わなくていい時は言わない。その方が隊はまとまる。

 五分後、俺たちは再び北へ歩き出した。崩れた雪庇を避け、フェイが固めた街道中央を通る。通り過ぎる時、ダグラスが右斜面を見た。

 

 「隊列を組み替えた理由がやっと分かった」

 

 昼を過ぎる頃、雪は少し強くなった。視界の奥で、丘陵の稜線が白く霞む。旧監視塔までは、まだ遠い。だが、最初の戦闘で分かったことがある。

 

 この混成隊は弱くない。ただし、普通に動かせば壊れる。役割を与え、適切な戦術があれば戦える。それは今の俺たちのパーティーも同じだった。

 稜線の上には灰色の空が広がっていた。北へ進むほど、地図の余白へ近づいていく。監視塔は、まだ見えない。

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