深まる疑念
マロニエは酒杯を持ち上げた。
「救助依頼って言葉は便利だよな。人道的で、ギルドも断りにくい。だが、依頼票の端をよく見ろ。救う対象が人間か、資源か、たまに分からなくなる」
俺は紙片を見た。救助対象はあくまでも調査隊。だが、資源局が本当に救いたいものは別かもしれない。人間ではなく、地下に眠る何か。
「同行者は誰だ」
俺が聞くと、マロニエは薄く笑った。
「オルディン・レーン。帝国北方資源局の監督官補佐。表向きは記録確認と現地助言。実際は……さて、何だろうな」
「そこを言え」
「分からないことは分からないと言うのが、良い情報屋だ」
「都合のいい情報屋だな」
「じゃあ、一つだけ忠告しよう。こいつが絡む依頼は、人間より書類と物資が優先される」
アンジェが嫌そうに言った。
「つまり、信用できない」
「信用しなくていい。だが、契約書には署名させろ」
マロニエは地図を畳みながら言った。
「明日、資源局との顔合わせがあるはずだ。そこで条件を足せ。生存者を確認した場合は資料より救助優先。生存者がいる可能性のある区画を勝手に封鎖しない。撤退判断は現場の冒険者側にも権限あり」
「そこまで揉めるか」
「揉める前に決めとけ」
マロニエの声が少しだけ低くなった。
「現場で揉めたら、人が死ぬ。書類で揉めておけば、少なくとも死ぬのは紙だけだ」
旧監視塔。地下第二層。資源局役人オルディン。線が繋がっていく。まだ全体の形は見えない。だが、嫌な戦場ほど、最初は灰色に見える。俺は地図を外套の内側へしまった。ガノンが皿を片付けながら言う。
「ロイド。北へ行くなら、腹を空かせて行くな。腹が減ってる奴は、判断も鈍る」
俺は顔を上げた。
「分かってる」
「分かってないから言ってる」
ガノンは、少しだけ声を低くした。
「お前はまた、自分だけで背負おうとしてる」
俺は返せなかった。ガノンは俺の沈黙を見て、ため息をつく。
「今はもう一人じゃないんだろ」
アンジェリーナが、少しだけ顎を上げた。セラも、静かに頷いた。
「……帰るために、行くんですよね」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。帰るために行く。前世の俺は、その言葉を信じられなかった。帰れるかどうか分からなくても、行くしかない戦場ばかりだった。それが氷河期世代だった。だが、今は違う。違わせなければならない。
「そうだな」俺は言った。「今度は帰る。生きて」
冒険者ギルドの灯りは、夜になると少しだけ冷たく見える。
昼間は依頼を求める人間の熱で、木の壁も床も温かい。だが、受付が閉まる時間に近づくと、広間に残るのは仕事を取れなかった者と、帰って来なかった者を待つ者だけになる。
俺たちが戻った頃には、掲示板の前もだいぶ空いていた。残っている依頼票は、端が少し丸まっている。危険度が高いか。報酬が低いか。あるいは、その両方だ。
「ロイドさん」
受付の奥から、エルナが小さく手を上げた。
もう閉める準備に入っていたらしい。机の上には帳簿と封蝋済みの書類が積まれ、暖炉の火も昼間より弱い。俺たちが近づくと、彼女は少し安心したように息を吐いた。
「灰狼亭へ行くって聞いていましたから。……ガノンさんは、何か言っていましたか」
「帰って来いと」
エルナは一瞬だけ笑った。
「ガノンさんらしいですね」
「北へ行くの、まだ決めたわけじゃないんだけど」
アンジェリーナが言う。
「その前に、依頼の中身を確認しに来たの。名簿とか、誰が一緒に行くのかとか」
エルナは頷き、受付の下から、一冊の薄い帳簿を取り出した。革表紙には、北方資源局の紋章が押されている。
円環の中に、三本の鉱脈を模した線。帝国資源局は、魔力結晶や魔鉱石を管理する部署だ。表向きは、帝国の未来を支えるための組織。だが、採掘場や遺跡の近くでは、別の呼ばれ方をされることもある。掘れるものは、何でも掘る連中。
「正式な命令書は、明日の朝に届く予定です」
エルナは言った。
「でも、参加予定者の一覧と、旧監視塔区域の簡易地図なら確認できます。……ただし、外へ持ち出すのは難しいので、ここで読んでください」
「すまんな。それでいい」
俺は帳簿を受け取った。紙は新しい。だが、インクの匂いが少し違う。
冒険者ギルドで使う黒インクではない。役所の保存文書に使われる、灰色がかった耐水インクだ。最初から、後で責任を追える形にするつもりなのか。あるいは――責任を押しつけるためか。帳簿の一頁目には、参加予定者が書かれていた。
第一班。《前衛》一名。《弓手》一名。《治癒術士》一名。《魔術士》一名。
補助要員。《重装》ロイド。《前衛》アンジェリーナ。《環境術師》セラ。
そして、現地指揮。その名前を見た瞬間、指が止まった。カイル・ヴァーレン。紙の上の文字が、やけに濃く見えた。アンジェリーナが俺の横から覗き込む。
「……誰?」
俺はすぐには答えなかった。カイル・ヴァーレン。一度目の人生では、俺から依頼を奪った男だ。
地方貴族の三男。家の名と金で装備を揃え、ギルドでは人当たりのいい若手有力者として扱われていた。そして、俺が三十四になった頃には、いつも俺の前にいた。良い依頼の前に。昇格に繋がる実績の前に。
俺のような人間を「古い」と笑う側に。だがこの時代のカイルは、まだ若い。俺の知るあの男になる前だ。
「……少し、面倒な相手だ」
俺はそう答えた。アンジェリーナは眉をひそめる。
「少し、って顔じゃないわね」
「ロイドさん」
エルナが、ためらいがちに声をかけた。
「カイルさんは……今回、冒険者側として参加するわけではないそうです」
「何だと?」
「資源局側の連絡役です。ヴァーレン家が北方街道の補修と、監視塔周辺の管理を一部請け負っているので」
やはりか。カイル本人が強いから来るのではない。家の名が、塔の奥にある何かと繋がっている。
「現地指揮、ね」アンジェリーナが口を尖らせた。「それって戦えないのに指揮だけする人?」
「戦えないわけではありません」
エルナが控えめに庇った。
「カイルさんは、実技試験も通っていますし、護衛依頼の実績も……」
「実績の中身までは、紙に書かれない」
俺は言った。エルナは黙った。少し言い過ぎたかもしれない。だが、帳簿に残る戦果と、実際に誰が危険を引き受けたかは、必ずしも同じではない。それを俺は知っている。
「すまん。神経が少し過敏になっていてな」
俺が言うと、エルナは首を振った。
「いえ。ロイドさんが心配していることも、分かります」
彼女は帳簿の次の頁を開いた。
「参加者のうち、二人は北部出身です。塔の周辺地形に詳しいそうです。でも、残りの人は……即席の編成です」
「治療術師までいるのに?」
セラが小さく聞く。
「はい」
エルナは答えた。
「本来なら安心材料のはずです。でも、その方は昨日まで別の依頼に入っていました。しかも、北の氷結傷に詳しい人ではありません」
セラの目が細くなった。
「必要な人を集めたのではなく……集められる人を並べた感じですね」
「ああ」俺は頷いた。「救助隊じゃない。形だけ整えた隊だ」
帳簿の最後に記された、未帰還調査隊の人数を見た。五名。
そのうち、二名は資源局の職員。三名は現地採掘員。一名は、帝国軍払い下げの魔導技師。魔導技師。俺の中で、何かが引っかかった。
旧監視塔に、魔導技師が行く理由。単なる地形調査や資源探査なら、採掘員だけで足りる。わざわざ古い帝国軍設備を扱える人間を連れて行く必要はない。
その時、ギルドの扉が開いた。冷たい風と共に、黒い外套の男が入ってくる。
マロニエだった。さっき灰狼亭で別れたばかりだというのに、もう顔には薄い笑みが戻っている。だが、その目だけは笑っていなかった。
「悪い知らせだ。北方資源局の担当官が、今夜中にも街へ入る」
エルナが顔を上げる。
「今夜?」
「明日の朝まで待つ必要がなくなったってことだ」
マロニエは俺を見る。
「しかも、そいつは依頼の交渉をするために来たんじゃない」
一拍置いて、続けた。
「お前らを、明日の夜明けには北へ送り出すために来た」




