ガノンの料理
冬の空は低い。ギルドを出た時には、夕方の光が石畳の上で薄く伸びていた。
俺は外套の襟を少しだけ上げた。依頼票に書かれていた文言を、頭の中で何度も並べ直す。おかしい。救助依頼としては、情報が少なすぎる。調査隊の人数、装備、最終連絡地点。そこまではある。だが、何を調査していたのかが曖昧だった。
資源局の調査隊が北へ行った。それだけで、本当なら十分に嫌な匂いがする。
「ロイド」
隣を歩くアンジェが声をかけてきた。短い外套の裾を風に揺らしながら、彼女は俺の顔を覗き込む。ハニーブロンドの髪が、夕陽を受けて淡く光っていた。
「さっきから難しい顔してるけど、そんなに嫌な依頼なの?」
「嫌な依頼じゃない依頼の方が少ない」
「そういう話じゃなくて」
アンジェが少し眉を寄せる。その後ろで、セラが静かに歩いていた。灰茶色の髪を揺らし、両手で杖を抱えている。表情はいつも通り控えめだが、目だけは周囲の音と気配を拾っている。
「救助依頼、ですよね」セラが小さく言った。
「ああ」
「でも、ロイドさんは……ただの救助依頼ではないと思っている」
「分かるか」
「ギルドで依頼票を見た時、回収物資の欄だけ、妙に詳細だったので」
アンジェが首を傾げた。
「回収物資?」
「調査記録、測量器具、資源採取袋、封印済み資料筒。それから、現地で発見された資源試料」
俺が答えると、アンジェは露骨に顔をしかめた。
「救助依頼なのに?」
「だから嫌なんだ」
救助依頼なら、最初に書かれるべきは人間の名前だ。だが、資源局の依頼票には違う重さがあった。
人命より、持ち帰るべき物の方が重視されている。書類は嘘をつく。だが、書類の重心は案外正直だ。何を守りたい依頼なのか。何を失いたくない仕事なのか。そこを見れば、依頼主の本音が見える。
「どこに行くの?」
アンジェが聞く。俺は通りの先、古い酒場の看板を見た。
煤けた木板に、灰色の狼が描かれている。何度も塗り直された跡があり、片目だけが妙に黒く残っていた。
「灰狼亭だ」
「何しに行くの?」
「北へ行く前に、顔を出す。腐れ縁にな」
それだけ言って、俺は灰狼亭の扉を押した。
灰狼亭の中は、いつも通り薄暗かった。
昼でも夜でも、この店の光は変わらない。小さな窓から入る外の明かりは、煙と油の匂いにすぐ飲み込まれる。焦げた肉、安酒、古い革鎧、濡れた外套。そこに、長く戦場を離れられなかった人間の匂いが混じっていた。
あまり褒められた匂いではない。
だが、俺にとっては、生き残った連中がまだ息をしている場所の匂いだった。
店内には氷河期世代の元兵士や、怪我で前線を退いた冒険者が多い。義足の男。片腕の男。誰も大声では笑わない。笑う時も、どこか喉の奥で引っかかる。
アンジェが一瞬だけ言葉を失った。セラは店内を見回し、それから少しだけ杖を抱く手に力を入れた。
「……ここ、空気が重いわね」
アンジェが小声で言う。
「軽い人生を送ってきた奴は少ないからな」
「嫌味?」
「説明だ」
「ほとんど同じじゃない」
そのやり取りに、店の奥から低い笑い声が聞こえた。
「おいおい、ロイド。若い娘を二人も連れて、ずいぶん景気がいいじゃねえか」
カウンターの奥にいた男が、鍋から顔を上げた。ガノン。右袖は肘の先で空になっている。左目には黒い眼帯。だが、残った右目は相変わらず鋭い。片腕で器用に鍋を揺すりながら、こちらを見て口の端を歪めていた。
「景気がいいように見えるか」
「少なくとも、三人分の飯代を払う余裕はありそうに見える」
「まだ払うとは言ってない」
「お前な」
ガノンは呆れたように鼻を鳴らした。その時、厨房の奥から店主の声が飛んだ。
「ガノン、煮込みを五つだ。あと裏の樽、空いたら運んどけよ」
片腕の男に樽を運ばせる声ではなかった。だが、ガノンは返事をしなかった。黙って鍋をかき混ぜ、器へ煮込みを盛る。
その手際は、片腕とは思えないほど速い。器を固定し、木匙で具をすくい、鍋の縁で汁を切り、別の器へ移す。動きに無駄がない。
灰狼亭の煮込みは、昔よりうまくなった。その理由を、この店の客の半分は知っている。
だが、看板にガノンの名はない。客の一人が、器を受け取りながら笑った。
「お、今日はガノンの煮込みか。こいつが一番腹にたまるんだよな」
すると、帳場にいた店主がすぐに口を挟んだ。
「灰狼亭の煮込みだ。うちの看板料理だよ」
客は気まずそうに笑い、煮込みを持って席へ戻った。ガノンは何も言わない。ただ、次の器へ汁を注ぐ。うちの看板料理。便利な言葉だ。鍋を振った人間の名前を消すには、ちょうどいい。
アンジェがガノンを見て、少し姿勢を正した。
「あなたが、ロイドの戦友?」
「そうだ。こいつがまだ今よりもう少し無愛想じゃなかった頃から知ってる」
「今より?」
アンジェが俺を見る。俺は無視した。ガノンは片手で木皿を三枚並べる。
「座れ。寒い顔をしてる。まず食え」
「今日は情報を聞きに来た」
「腹が減ってる奴に、まともな情報は入らねえ」
そう言って、ガノンは木皿へ煮込みをよそった。豆と干し肉と根菜の煮込み。派手さはない。だが、湯気の中に塩と脂の匂いが立ち上る。寒い日に食うには、一番まともな料理だった。セラが小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「おう。あんたは礼儀があるな。そっちの金髪は目つきが強い」
「失礼ね。ちゃんと礼くらい言えるわよ」
アンジェは木皿を受け取りながら、不服そうに言った。
「ありがとう」
「どういたしまして、お嬢さん」
ガノンは面白そうに笑う。俺は椅子に腰を下ろした。木の椅子が軋む。腰の装備が背もたれに当たり、小さく音を立てた。アンジェとセラも向かいに座る。
煮込みを一口食べる。熱い。舌に塩気が広がる。干し肉の固さと、根菜の甘み。腹の奥に熱が落ちていく。
戦場で食った薄い粥とは違う。生きるために作られた飯だ。
「で」ガノンが鍋を火から外しながら言った。「北だな」
俺は顔を上げる。
「聞いていたのか」
「この店に来る連中は、だいたいどこかしらから噂を拾ってくる。北方資源局の調査隊が戻らない。ギルドが臨時隊を組む。しかも、低ランクまで混ぜて人数を集める。嫌な話だ」
「旧監視塔区域だ」
ガノンの表情が少しだけ変わった。わずかな変化だ。だが、俺には分かった。戦場帰りの人間は、嫌な地名を聞くと目が止まる。
「旧監視塔か」
「あそこに何かあるのか」
ガノンはしばらく黙った。それから、厨房の奥ではなく、店の隅へ視線を投げた。
「俺より詳しい奴がいる」
店の隅。薄暗い柱の陰に、男が一人座っていた。
いつからいたのか分からない。いや、最初からいたはずだ。だが、店の空気に馴染みすぎて、視界に入らなかった。
痩せた男だった。古い革外套。手入れの行き届いた短剣。卓の上には酒杯が一つ。髪は無造作に後ろで結ばれ、口元にはいつも何かを馬鹿にしているような笑みがある。
「久しぶりだな、ロイド」
男は酒杯を指で弾いた。




