↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
32/61

ガノンの料理

 冬の空は低い。ギルドを出た時には、夕方の光が石畳の上で薄く伸びていた。

 

 俺は外套の襟を少しだけ上げた。依頼票に書かれていた文言を、頭の中で何度も並べ直す。おかしい。救助依頼としては、情報が少なすぎる。調査隊の人数、装備、最終連絡地点。そこまではある。だが、何を調査していたのかが曖昧だった。

 

 資源局の調査隊が北へ行った。それだけで、本当なら十分に嫌な匂いがする。

 

 「ロイド」

 

 隣を歩くアンジェが声をかけてきた。短い外套の裾を風に揺らしながら、彼女は俺の顔を覗き込む。ハニーブロンドの髪が、夕陽を受けて淡く光っていた。

 

 「さっきから難しい顔してるけど、そんなに嫌な依頼なの?」

 「嫌な依頼じゃない依頼の方が少ない」

 「そういう話じゃなくて」

 

 アンジェが少し眉を寄せる。その後ろで、セラが静かに歩いていた。灰茶色の髪を揺らし、両手で杖を抱えている。表情はいつも通り控えめだが、目だけは周囲の音と気配を拾っている。

 

 「救助依頼、ですよね」セラが小さく言った。

 「ああ」

 「でも、ロイドさんは……ただの救助依頼ではないと思っている」

 「分かるか」

 「ギルドで依頼票を見た時、回収物資の欄だけ、妙に詳細だったので」

 

 アンジェが首を傾げた。

 「回収物資?」

 「調査記録、測量器具、資源採取袋、封印済み資料筒。それから、現地で発見された資源試料」

 

 俺が答えると、アンジェは露骨に顔をしかめた。

 

 「救助依頼なのに?」

 「だから嫌なんだ」

 

 救助依頼なら、最初に書かれるべきは人間の名前だ。だが、資源局の依頼票には違う重さがあった。

 

 人命より、持ち帰るべき物の方が重視されている。書類は嘘をつく。だが、書類の重心は案外正直だ。何を守りたい依頼なのか。何を失いたくない仕事なのか。そこを見れば、依頼主の本音が見える。

 

 「どこに行くの?」

 

 アンジェが聞く。俺は通りの先、古い酒場の看板を見た。

 煤けた木板に、灰色の狼が描かれている。何度も塗り直された跡があり、片目だけが妙に黒く残っていた。

 

 「灰狼亭だ」

 「何しに行くの?」

 「北へ行く前に、顔を出す。腐れ縁にな」

 それだけ言って、俺は灰狼亭の扉を押した。

     

     

 灰狼亭の中は、いつも通り薄暗かった。

 

 昼でも夜でも、この店の光は変わらない。小さな窓から入る外の明かりは、煙と油の匂いにすぐ飲み込まれる。焦げた肉、安酒、古い革鎧、濡れた外套。そこに、長く戦場を離れられなかった人間の匂いが混じっていた。

 

 あまり褒められた匂いではない。

 

 だが、俺にとっては、生き残った連中がまだ息をしている場所の匂いだった。

 店内には氷河期世代の元兵士や、怪我で前線を退いた冒険者が多い。義足の男。片腕の男。誰も大声では笑わない。笑う時も、どこか喉の奥で引っかかる。

 

 アンジェが一瞬だけ言葉を失った。セラは店内を見回し、それから少しだけ杖を抱く手に力を入れた。

 

 「……ここ、空気が重いわね」

 アンジェが小声で言う。

 

 「軽い人生を送ってきた奴は少ないからな」

 「嫌味?」

 「説明だ」

 「ほとんど同じじゃない」

 

 そのやり取りに、店の奥から低い笑い声が聞こえた。

 「おいおい、ロイド。若い娘を二人も連れて、ずいぶん景気がいいじゃねえか」

 

 カウンターの奥にいた男が、鍋から顔を上げた。ガノン。右袖は肘の先で空になっている。左目には黒い眼帯。だが、残った右目は相変わらず鋭い。片腕で器用に鍋を揺すりながら、こちらを見て口の端を歪めていた。

 

 「景気がいいように見えるか」

 「少なくとも、三人分の飯代を払う余裕はありそうに見える」

 「まだ払うとは言ってない」

 「お前な」

 

 ガノンは呆れたように鼻を鳴らした。その時、厨房の奥から店主の声が飛んだ。

 「ガノン、煮込みを五つだ。あと裏の樽、空いたら運んどけよ」

 

 片腕の男に樽を運ばせる声ではなかった。だが、ガノンは返事をしなかった。黙って鍋をかき混ぜ、器へ煮込みを盛る。

 その手際は、片腕とは思えないほど速い。器を固定し、木匙で具をすくい、鍋の縁で汁を切り、別の器へ移す。動きに無駄がない。

 灰狼亭の煮込みは、昔よりうまくなった。その理由を、この店の客の半分は知っている。

 

 だが、看板にガノンの名はない。客の一人が、器を受け取りながら笑った。

 「お、今日はガノンの煮込みか。こいつが一番腹にたまるんだよな」

 

 すると、帳場にいた店主がすぐに口を挟んだ。

 「灰狼亭の煮込みだ。うちの看板料理だよ」

 

 客は気まずそうに笑い、煮込みを持って席へ戻った。ガノンは何も言わない。ただ、次の器へ汁を注ぐ。うちの看板料理。便利な言葉だ。鍋を振った人間の名前を消すには、ちょうどいい。

 

 アンジェがガノンを見て、少し姿勢を正した。

 

 「あなたが、ロイドの戦友?」

 「そうだ。こいつがまだ今よりもう少し無愛想じゃなかった頃から知ってる」

 「今より?」

 

 アンジェが俺を見る。俺は無視した。ガノンは片手で木皿を三枚並べる。

 

 「座れ。寒い顔をしてる。まず食え」

 「今日は情報を聞きに来た」

 「腹が減ってる奴に、まともな情報は入らねえ」

 

 そう言って、ガノンは木皿へ煮込みをよそった。豆と干し肉と根菜の煮込み。派手さはない。だが、湯気の中に塩と脂の匂いが立ち上る。寒い日に食うには、一番まともな料理だった。セラが小さく頭を下げる。

 

 「ありがとうございます」

 「おう。あんたは礼儀があるな。そっちの金髪は目つきが強い」

 「失礼ね。ちゃんと礼くらい言えるわよ」

 

 アンジェは木皿を受け取りながら、不服そうに言った。

 「ありがとう」

 「どういたしまして、お嬢さん」

 

 ガノンは面白そうに笑う。俺は椅子に腰を下ろした。木の椅子が軋む。腰の装備が背もたれに当たり、小さく音を立てた。アンジェとセラも向かいに座る。

 煮込みを一口食べる。熱い。舌に塩気が広がる。干し肉の固さと、根菜の甘み。腹の奥に熱が落ちていく。

 

 戦場で食った薄い粥とは違う。生きるために作られた飯だ。

 

 「で」ガノンが鍋を火から外しながら言った。「北だな」

 

 俺は顔を上げる。

 

 「聞いていたのか」

 「この店に来る連中は、だいたいどこかしらから噂を拾ってくる。北方資源局の調査隊が戻らない。ギルドが臨時隊を組む。しかも、低ランクまで混ぜて人数を集める。嫌な話だ」

 「旧監視塔区域だ」

 

 ガノンの表情が少しだけ変わった。わずかな変化だ。だが、俺には分かった。戦場帰りの人間は、嫌な地名を聞くと目が止まる。

 

 「旧監視塔か」

 「あそこに何かあるのか」

 

 ガノンはしばらく黙った。それから、厨房の奥ではなく、店の隅へ視線を投げた。

 「俺より詳しい奴がいる」

 

 店の隅。薄暗い柱の陰に、男が一人座っていた。

 

 いつからいたのか分からない。いや、最初からいたはずだ。だが、店の空気に馴染みすぎて、視界に入らなかった。

 

 痩せた男だった。古い革外套。手入れの行き届いた短剣。卓の上には酒杯が一つ。髪は無造作に後ろで結ばれ、口元にはいつも何かを馬鹿にしているような笑みがある。

 

 「久しぶりだな、ロイド」

 男は酒杯を指で弾いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。