セラの装備強化
査定係が手を伸ばしかけて、止めた。
「……触ってもいいか」
「ああ」
彼は両手で冠膜を受け取った。光へ向ける。膜の中央にある複雑な紋様を、長い時間見つめた。
「ほとんど無傷だ」
誰かが小さく息を呑む。査定係は、低い声で続けた。
「これなら、帝都の魔導工房でも買い手が付く。聴音器の高級膜か、感応膜の試作品に回せる」
アンジェリーナが目を丸くする。
「そんなに?」
「普通の薄羽膜とは別物だ」
査定係は答えた。
「巣主の冠膜は、群れの反響を読むための器官だ。魔力の揺れにも敏感だろう。下手な火術師が焼けば、銀貨数枚にもならん」
彼は俺たちを見る。
「だが、これは違う」
その目は、素材ではなく、俺たちを見ていた。
「お前たちは、どうやって巣主を倒したんだ?」
少しの沈黙。俺は洞窟の地形を思い出した。左奥の岩棚。反響が吸われる壁。アンジェリーナが止まった場所。セラが作った、音のない空間。
「敵の感覚を利用した」
俺は言った。
「巣主は、音の反響で洞窟を見ていた。だから、壁がないように聞かせた」
査定係がセラを見る。
「お前がか?」
セラは一度だけ、深く息を吸った。そして頷いた。
「はい。私が、反響を消しました」
短い言葉だった。けれど、その声はまっすぐだった。エルナの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「報告書に記録します」
彼女は新しい用紙を取り出した。
「討伐実績だけではなく、素材回収手順と巣主への対応も。今後、同種依頼の参考になる可能性があります」
「手順まで残すのか」
俺が聞くと、エルナは頷いた。
「残します。依頼主にとっては、討伐数より素材の状態の方が重要な場合もありますから」
彼女の羽ペンが紙を走る。
《薄羽蝙蝠群・無傷素材回収》
《負傷者なし》
《完全薄羽膜十一枚》
《巣主冠膜一枚》
《環境術師による音響・視覚撹乱を用いた低損耗討伐》
その文字を見て、セラが息を止めた。
「……私の名前も、書かれるんですか」
「もちろんです」
エルナは顔を上げた。
「誰が何をしたか、記録に残さなければ意味がありません」
セラは、しばらく何も言えなかった。それから、小さく頷いた。
「……お願いします」
受付の周囲で、ひそひそと声が交わされ始めた。
「薄羽膜を十一枚? 火を使わずに?」
「環境術師がいたって話だ」
「環境術師って、あの地味な魔術の?」
「依頼主にしたら、普通の術師より儲かるじゃねえか」
その言葉を、セラも聞いたはずだ。けれど彼女はもう、俯かなかった。
査定係が報酬書を作り終え、銀貨の入った袋を三つ並べた。通常報酬。完全膜の追加査定。巣主冠膜の特別買い取り。予想より重い袋だった。
アンジェリーナが一つを持ち上げ、目を丸くする。
「……本当に増えてる」
「報酬の半分を燃やさなかったからな」
俺は答えた。
「それどころか、巣主まで倒した」
「あなた、こういう時だけ嬉しそうよね」
「宿代と装備代が払える」
「やっぱり夢がない」
「現実的だと言え」
エルナが、少しだけ笑った。
「ロイドさんたちには、今後、素材保全が必要な依頼を優先して紹介できるかもしれません」
「優先?」
アンジェリーナが聞く。
「はい。希少魔物の捕獲、遺跡の魔導具回収、火や爆破を使えない洞窟調査。そういう依頼です」
エルナは、三人を順番に見た。
「派手な討伐依頼より、難しい仕事かもしれません。でも、依頼主は……きっと皆さんのような方を求めます」
ロイド。アンジェリーナ。セラ。三人の名前が、依頼報告書に並んでいる。まだ、低ランクの新人だ。
有名でもない。ギルドの奥で大きな声が上がるような存在でもない。だが、今日から少しだけ変わる。
「あの三人に任せれば、素材が残る」
「あの三人は、怪我をさせずに帰ってくる」
そんな評判は、英雄譚より遅い。剣の腕ほど派手ではない。だが、商人と工房から信頼を得ればCランクへの道はぐっと広がる。
俺は報酬袋を受け取った。重さを確かめる。金は、次の依頼へ行くための余力だ。装備を直すための余力だ。仲間を、使い潰さないための余力だ。
「帰るぞ」
俺は言った。アンジェリーナが頷く。セラも、少しだけ笑った。
「はい」
三人でギルドを出る。背後では、依頼票がまた一枚、掲示板へ貼られる音がした。
その紙に、まだ俺たちの名前はない。けれど、次に貼られる依頼の中には。俺たちを待っているものが、少しずつ増えていくのだろう。
薄羽蝙蝠の巣主を倒した翌日。俺たちは、南区画の《黄銅工房》へ来ていた。
工房の扉を開けた瞬間、フィンが作業台の下から飛び出してきた。いや、正確には飛び出そうとして、頭をぶつけた。
「痛っ……! ロイド? 何か壊した?」
「壊していない」
「じゃあ、何でそんな大荷物を」
俺は背負っていた革袋を作業台の上へ置いた。袋の口を開く。中から取り出したのは、薄羽蝙蝠の巣主から剥ぎ取った冠膜だった。
灰銀色の薄い膜。朝の光を受けると、内部の魔力紋が水面の波紋のように淡く浮かぶ。フィンは一瞬、黙った。次の瞬間、眠たげだった目が大きく開いた。
「……これ」
手を伸ばしかけて、止まる。
「触っていい?」
「壊すな」
「壊さないよ!」
フィンは両手で冠膜を受け取った。窓際へ運び、光へ透かす。指先で端を軽く弾く。薄い膜が、ほとんど音を立てずに震えた。けれどその震えは、すぐに消えない。フィンは息を呑んだ。
「すごい……」
アンジェリーナが腕を組む。
「そんなに珍しいの?」
「珍しいどころじゃないよ。普通の薄羽膜は、音を拾うための膜だ。でもこれは違う」
フィンは膜の中央を指した。複雑な魔力紋が、幾重にも重なっている。
「拾った音を、どの方向へ返すかまで調整してる。反響の強い場所、吸われる場所、音が遅れて戻る場所……そういうものを区別してるんだ」
セラが少し身を乗り出した。
「洞窟の中で、巣主がしていたことですか?」
「たぶんね」
フィンは興奮した声で答えた。
「こいつは音を聞いてたんじゃない。音で空間を見てたんだ」
俺は作業台の上へ、薄羽膜の端材も並べた。完全な形で残った通常個体の膜。端に小さな裂けがあるもの。査定に出せば銀貨になる。だが、今は売らない。
「セラの装備に使えるか」
フィンが顔を上げた。
「使える。かなり使える」
セラが慌てた。
「でも、これは高く売れるんじゃ……」
「売れば一回分の金になる」
俺は言った。
「道具にすれば、次の依頼でも人間を壊さずに済む」
セラは言葉を失った。アンジェリーナが、冠膜を横目で見た。
「つまり、セラがもっと敵を騙せるようになるってこと?」
「正確には、騙す精度が上がる」
フィンが答えた。
「今のセラは、自分で聞いて、自分で感じて、魔術を組み立ててる。けど、これを補助具にすれば……反響の変化を拾うための基準点が作れる」
フィンは棚から真鍮の輪を取り出した。小さな輪だ。逆圧環よりも薄く、細い銀導線が何重にも巻かれている。
「杖先に冠膜を張る。《反響幕》だ。音と魔力の揺れを膜で拾って、セラの魔術へ返す」
次に、指先ほどの細い杭を三本並べた。
「こっちは《反響針》。地面や壁へ刺して使う。三本あれば、音の返り方を比較できる。敵の足音を拾う。空洞を探す。偽の音を出す。戻る場所の目印にもできる」
アンジェリーナが眉を上げた。
「便利そうね」
「便利だよ。ただし、使い方を間違えるとただの高い杭になる」
フィンはセラを見た。
「これ、作ってもいい?」
セラはすぐには答えなかった。自分の古びた杖を見た。次に、冠膜を見た。それから、俺とアンジェリーナを見た。
「……お願いします」
小さな声だった。だが、前のように怯えてはいなかった。
「次も、ちゃんと役に立ちたいです」
アンジェリーナが笑う。
「もう役に立ってるわよ」
「そうだ」
俺も頷いた。
「だから次に備える」
次の日、セラの杖先には、半透明の小さな膜が張られていた。
灰銀色の膜を真鍮の環へ固定し、銀導線が短杖の表面を細く走っている。見た目は派手ではない。魔導砲のように光るわけでもない。
剣の切れ味が上がるわけでもない。だが、セラが杖へ魔力を流すと、膜の内側に淡い円が浮かんだ。
空気の振動。足音。水滴。遠くの荷車の車輪。細かな揺れが、膜の上へ薄く映っている。
「聞こえますか?」
フィンが聞く。セラは目を閉じた。
「……前より、分かります」
「何が?」
アンジェリーナが覗き込む。
「音が、どこから聞こえるかじゃなくて……どこで変わったかが」
セラは杖先の膜を見る。
「同じ足音でも、石畳の上と土の上では返り方が違います。壁の向こうが空洞なら、少し遅く戻ります。人が歩いた音と、荷車の音も……別々に聞こえます」
フィンが満足そうに笑った。
「成功だね」
「まだ試作だ」俺は言った。「実戦では、風もある。地面も均一じゃない。敵だって動く」
「わかってるよ。でも本人は満足そうだよ?」
セラは杖を両手で抱えていた。以前なら、高価な素材を自分のために使うことへ遠慮していただろう。今は違う。まだ少し不安そうではある。だが、その手はしっかり杖を握っていた。




