完璧な素材回収
洞窟を出ると、雨は上がっていた。雲の隙間から、薄い光が採石場跡に落ちている。濡れた石が鈍く光り、苔の匂いが少し強くなっていた。
俺たちは入口近くの岩に腰を下ろし、簡単な確認をした。
討伐数。薄羽蝙蝠十四。巣主一。負傷なし。松明一本。魔力消費は、セラが大きい。
だが歩ける。帰れる。それでいい。素材は、完全な薄羽膜が十一枚。小さな裂けが入ったものが三枚。そして巣主の冠膜が一枚。
「ロイドさん」セラが俺を見た。「私、次も……一緒に行っていいですか?」
声はまだ小さい。だが、さっきまでのように消え入りそうではなかった。俺より先にアンジェリーナが先に答える。
「いいんじゃない? というか、いないと困るし」
セラが驚いたように彼女を見る。アンジェリーナは少し照れたように顔を逸らした。
「な、何よ。事実を言っただけでしょ」
俺は小さく頷いた。
「俺も同じ意見だ」
セラの表情が、少しずつほどけていく。雨上がりの光が、彼女のアッシュブラウンの髪に淡く乗った。その顔は、まだ自信に満ちてはいない。だが、少なくとも自分の居場所を完全に諦めた顔ではなくなっていた。
「……ありがとうございます」
セラは杖を抱きしめるようにして、深く頭を下げた。俺は採石場の奥を見た。濡れた岩肌。崩れた木柵。灰色の空。
こんな場所で、俺たちは小型魔物を倒しただけだ。ギルドの記録に残るのは、せいぜい低ランク依頼の達成と、想定外の巣主討伐。
派手な功績ではない。英雄譚にはならない。だが、俺には分かる。
これは大きい。アンジェリーナの速さが、セラの環境術で活きた。セラの魔術が、アンジェリーナの剣で結果になった。
俺の《戦域管制》が、その二つを繋いだ。そして、素材を壊さずに持ち帰る。倒すだけではない。次の依頼へ進むための金も、装備を直すための余力も、未来を選ぶための余白も持ち帰る。
「帰るぞ」
俺は立ち上がった。
「報告書をきちんと書く。セラの貢献も、巣主の冠膜も残す」
セラがまた驚いた顔をした。
「私の、貢献……」
「書類に残せなければ、なかったことにされる」
アンジェリーナが肩をすくめる。
「出た。ロイドの夢がない話」
「夢だけでは報酬は増えない」
「はいはい」
彼女は笑った。セラも、小さく笑った。その笑い声を聞きながら、俺達は採石場跡を後にした。
ギルドへ戻った頃には、雨はすっかり上がっていた。
石畳にはまだ水たまりが残り、夕方の光を鈍く映している。濡れた外套を脱いだ冒険者たちが、酒場へ向かう前に依頼の報告を済ませようと受付前へ並んでいた。
俺たちは、その列の最後尾に立った。アンジェリーナは腰の細剣を拭いている。セラは、抱えた革袋を何度も見下ろしていた。
中に入っているのは、薄羽蝙蝠の翼膜だ。完全な薄羽膜が十一枚。端に小さな傷があるものが三枚。そして、巣主から採れた灰銀色の冠膜が一枚。
火は使っていない。翼膜はほとんど裂けていない。この状態で持ち帰れること自体が、普通ではない。
「……本当に、これでいいんでしょうか」
セラが小さく言った。
「巣主のことです。依頼票には書いてありませんでしたし……勝手に討伐したことに、ならないでしょうか」
「勝手に危険個体を増やしたのは、俺たちじゃない」
俺は答えた。
「洞窟内で依頼対象を超える魔物を確認した。危険を排除し、素材を回収した。報告するべきことを報告するだけだ」
アンジェリーナが肩をすくめる。
「それに、あれを放って帰る方が危ないでしょ。次に入った人が、いきなり襲われるんだから」
セラは少しだけ頷いた。だが、革袋を抱える腕からはまだ力が抜けていない。自分の手で得た成果を、まだ自分のものだと信じ切れていないのだろう。
やがて、俺たちの番が来た。受付にはエルナがいた。俺たちを見るなり、彼女は少し驚いた顔をした。
「皆さん、無事だったんですね」
「全員戻った」
「それが一番です」
エルナはそう言ってから、俺たちの装備を見た。血は少ない。鎧も大きく傷ついていない。アンジェリーナの軽装にも、裂け目はない。セラの外套は少し泥で汚れているが、本人に怪我はない。
「負傷者は?」
「なし」
「薬品の使用は?」
「なし」
エルナの羽ペンが、ぴたりと止まった。
「……薄羽蝙蝠の洞窟で、ですか?」
「ああ。松明と魔術触媒を数個使っただけだ」
エルナは、ゆっくりと顔を上げた。
「わかりました。では、素材を確認します」
俺は革袋をカウンターへ置いた。重い音がした。受付の周囲にいた冒険者が、何人かこちらを見る。エルナは袋の紐をほどき、中身を取り出した。
一枚目。薄い翼膜を、両手で慎重に広げる。淡い青灰色の膜。夕方の光を受けると、表面に細い魔力紋が浮かび上がった。裂け目はない。焦げもない。エルナが息を止めた。
二枚目。三枚目。四枚目。確認するたびに、彼女の表情が変わっていく。
「損傷のない完全膜……」
羽ペンを持つ手が、少し震えた。
「一枚、二枚……」
周囲のざわめきが、いつの間にか小さくなっていた。
「五枚。六枚。七枚……」
薄羽蝙蝠の翼膜は、飛行中に裂けやすい。剣で斬れば傷つく。槍で突けば穴が開く。火炎魔法なら、一瞬で炭になる。普通の討伐なら、無傷で回収できるのは一、二枚でも十分だ。
「十一枚……」
エルナが最後の一枚を光へ透かした。完全な形で残った魔力紋が、静かに浮かんでいる。受付の奥にいた年配の査定係が、椅子を引いて立ち上がった。
「見せろ」
低い声だった。エルナが翼膜を差し出す。査定係は一枚ずつ手に取り、光へかざした。指先で膜の端を弾く。かすかな震え。薄い音。そして、彼は眉をひそめた。
「火を使っていないと言ったな」
「ええ、使っていません」
俺は答えた。
「刃も、膜へは入れていません」
「飛んでいる蝙蝠を、翼膜を裂かずに?」
「落としてから処理しました」
査定係の目が、俺からアンジェリーナへ向いた。
「お前がやったのか」
アンジェリーナは腕を組んだ。
「翼の付け根を打って落としただけよ。敵の行動を制御してもらえたから、難しくはなかったわ」
「行動を制御してもらえた?」
その言葉に、査定係の視線がセラへ移る。セラは肩をすくめた。いつものように、目を伏せかける。だが、その前に俺は言った。
「セラがやった」
彼女が顔を上げた。
「音と光をずらした。敵が聞く足音を変え、松明の位置を誤認させた。羽音も増やして、群れの反響定位を乱した」
査定係はしばらく黙っていた。やがて、低く聞く。
「環境術師か」
セラの喉が小さく鳴った。
「……はい」
「その年で、薄羽蝙蝠の反響を狂わせたのか」
「私、一人ではありません」
セラは、ゆっくり言った。声は小さい。だが、消えそうではなかった。
「ロイドさんが、敵の来る方向を見てくれて。アンジェリーナさんが、落ちた場所を処理してくれました。私は……その二人が戦える場所を、少し変えただけです」
アンジェリーナが隣で言う。
「少しどころじゃないわよ。あの子がいなかったら、あたし、洞窟の中であんなに楽に動けなかったもの」
セラが驚いたようにアンジェリーナを見る。査定係は、また翼膜へ目を落とした。
「素材損耗率が低い」
その声は、独り言のようだった。
「負傷者なし。薬品消費もなし。完全膜が十一枚。しかも巣主の反応まである」
「巣主?」
エルナが顔を上げた。俺は最後の革袋を、そっとカウンターへ置いた。
中から取り出したのは、灰銀色の冠膜だった。通常個体の薄羽膜よりも厚い。だが、光を透かすと、内部の魔力紋が水面の波紋のように揺れた。
ギルドホールが波を打ったように静かになった。




