洞窟の主
「役に立てたんじゃない」
俺は言った。セラが顔を上げる。
「お前が戦場を作ったんだ」
洞窟の奥で、水滴が落ちた。その音が、妙にはっきり響いた。セラは何も言えないようだった。だが、杖を握る指から、少しだけ力が抜けていた。
――その時だった。水滴の音が、消えた。俺は顔を上げた。不自然な静けさだった。セラも気づいたらしい。笑みを消し、杖を胸元へ引き寄せる。
「……ロイドさん」
「どうした」
「音が返ってきません」
洞窟の奥は、暗い。だが暗闇の向こうにあるはずの水滴の反響だけが、綺麗に消えている。普通の薄羽蝙蝠なら、逃げる時にも羽音を立てる。壁に触れ、爪を鳴らし、仲間を呼ぶ。
だが今、奥にいる何かは、音を立てていない。音を立てずに、こちらを測っている。俺の背中を、冷たいものが撫でた。
「アンジェ。セラの前へ出ろ」
「まだいるの?」
「ああ」
俺は松明を高く掲げた。炎が揺れる。光が届かない天井の裂け目。そこに、ゆっくりと二つの光が浮かんだ。
赤ではない。鈍い銀色だった。次の瞬間。巨大な翼膜が、闇の中で開いた。通常の薄羽蝙蝠より二回りは大きい。
翼を広げれば、人間二人分ほどの幅がある。膜はただ薄いだけではなかった。灰銀色の細い紋が、血管のように翼全体を走っている。
音を拾うための膜。魔力を感じるための膜。そして、群れを率いるための冠。
「……巣主か」
俺は低く呟いた。アンジェリーナが息を呑む。
「そんなの、依頼票には書いてなかったわよ」
「書かれていないから、いないとは限らない」
巣主は羽ばたかなかった。ただ、喉の奥を震わせた。人間には聞こえないほど高い音。けれど、洞窟の壁がかすかに鳴った。松明の火が震えた。セラが小さく顔をしかめる。
「魔力が……揺らされています」
巣主は、俺たちを見ていない。光も見ていない。洞窟全体へ音を流し、その返り方だけを聞いている。俺たちの形。立ち位置。呼吸。心臓の音。全部を。
「普通のやつより、ずっと厄介そうね」
アンジェリーナが細剣を構える。
「火を使えば?」
「駄目だ」
「まだ素材の話?」
「違う。燃やせば、こいつは暴れる。洞窟が崩れる」
そして、巣主の冠膜は高値だ。だが、それを口にする余裕はなかった。今は素材より先に、生きて帰ることだ。
巣主が、再び喉を震わせる。高い音。今度は、セラの作った偽足音が揺らいだ。俺たちの後ろにあったはずの音が、すっと消える。
「……見破った?」
アンジェリーナが呟く。
「違う」
俺は巣主の翼を見た。膜の紋が、空気の揺れに合わせて細かく震えている。
「最初から、俺たちの足音だけを聞いているわけじゃない。音が返ってくる時間を測ってる」
「どういうこと? 意味が分からない」
「偽物の音でも、洞窟にぶつかれば返る。あいつは音の位置じゃなく、返ってくる順番で空間を見ている」
セラの表情が強張った。自分の術が、通じないと思ったのだろう。
その瞬間、巣主が飛翔した。羽音はなかった。ただ闇が落ちてきたように見えた。
「右!」
俺は盾を上げる。衝撃が腕へ走った。巣主の爪が盾の縁を掴み、重い身体が俺を押し込む。
石床が鳴る。盾の裏側で骨が軋んだ。だが、受け止める。受けたのは、俺だけでいい。
巣主の牙が盾の上から覗く。近い。銀色の目が、俺の向こうにいるセラを捉えた。
「ロイド!」
アンジェリーナが踏み込む。
「待て!」
巣主は俺を押したまま、翼を一度だけ打った。湿った砂と小石が跳ねる。
アンジェリーナの足元へ石が転がる。彼女は一歩だけ踏み込み、それ以上を止めた。追わない。巣主が狙っているのは、突っ込んでくるアンジェリーナではない。俺の盾を超えた向こう。セラだ。
「セラ、左へ!」
彼女が跳ぶ。巣主の尾が、さっきまで彼女のいた場所を薙いだ。壁が砕ける。小石が降る。俺は盾を押し返し、巣主の胸へ肩を入れた。
だが、重い。押し切れない。巣主は翼を畳み、狭い場所でも無理やり向きを変えた。そして、俺の横を抜けようとする。その瞬間、セラが叫んだ。
「ロイドさん!」
声が、いつもより大きかった。
「左の壁だけ、反響が違います!」
俺は一瞬だけ目を向ける。左奥。低い岩棚の奥に、細い横穴がある。見た目には狭い。だが、巣主はそちらへ向かおうとしている。
「何が違う」
「巣主の音が……あそこだけ、戻るまで長いです。空洞が深いんじゃなくて、壁の内側に水が溜まっている。音が吸われてます」
セラの目が、洞窟の左奥を見ていた。怯えている。だが、怯えながら見ている。恐怖を情報に変えている。
「……できます。巣主の声を、あそこだけもっと遅く返せます。岩棚が、実際より遠いと思わせられるかもしれません」
アンジェリーナがセラを見る。
「それで、どうなるの?」
「壁がないと思って、奥へ飛び込む……かも」
かも、だ。確実ではない。だが、今の俺たちに必要なのは確実な勝ち方ではない。
死ぬ道を消した上で、勝てる形を選ぶことだ。俺の視界の中で、死線が動く。赤黒い線。
巣主がセラへ飛ぶ線。アンジェリーナが追って天井へ頭をぶつける線。俺が盾で押し潰される線。
その奥に、一つの勝ち筋が見えた。左の岩棚。低い天井。湿った砂地。巣主の喉元。
「できるか」
俺はセラに聞いた。彼女は震える手で杖を握り直した。
「……やります」
「アンジェリーナ。左の岩棚まで走れ。巣主を陽動するんだ」
彼女の青い目が細くなる。
「誘うのね」
「ああ。ただし、岩棚の手前で止まれ」
「止まって、どうするの?」
「巣主が通る線を、空ける」
「それだけ?」
「お前が刺す場所は、俺が言う」
アンジェリーナは一度だけ、巣主を見た。次に、自分の足元を見る。
《風踏み》の靴。その踵に取り付けられた、真鍮の制動環。昨日までは、速さを殺す重い部品にしか見えなかったもの。だが彼女は、短く息を吐いた。
「分かった。今度は止まる」
「セラ。巣主の声を遅らせろ。俺たちの足音は、アンジェリーナがまだ走っているように聞かせる」
「はい」
「俺が合図したら、岩棚の手前だけ反響を消せ」
セラは頷いた。今度は迷わなかった。巣主が翼を広げる。また、あの高い音。空気が震える。アンジェリーナが走った。
松明の光を横切り、左奥の岩棚へ向かう。細剣が揺れ、金髪が翻る。巣主の銀色の目が、彼女へ向いた。
足音。呼吸。靴が砂を蹴る音。
セラがそれを洞窟の奥へ延ばしていく。アンジェリーナは走っている。巣主には、そう聞こえている。だが実際には、岩棚の手前で彼女は止まった。真鍮の環が青く光る。低い音が石床へ沈む。
高速で踏み込んだ身体が、湿った砂の上でぴたりと止まる。膝は崩れない。足首も折れない。アンジェリーナは、岩棚の影へ身を滑らせた。巣主は気づかない。まだ、彼女が奥へ走っていると思っている。
「今だ」
俺が言う。セラの杖が、左の壁へ向いた。反響が消えた。巣主の鳴き声が、戻ってこない。
前方は深い。壁は遠い。巣主はそう判断したのだろう。銀色の翼膜が大きく開く。
低い天井の下を、弾丸のように滑った。だが、実際には岩棚がある。巣主は遅れて気づいた。
翼を畳み、急停止しようとする。その一瞬、翼膜の紋が震え、喉元が露出した。
「アンジェリーナ! そこだ! 喉元だ!」
「見えてる!」
岩棚の影から、彼女が飛び出した。追撃ではない。待っていた一撃だった。
細剣は翼膜を避ける。銀色の膜の下。下顎から胸へ続く、脈動する黒い喉袋。そこが巣主が音を出す器官だ。
アンジェリーナの剣が、そこへ真っ直ぐ入った。《ファントム・スラスト》。短く。深く。だが、膜を傷つけない角度で。
閃光が巣主の喉を貫く。巣主が声にならない声を上げた。翼が暴れる。だが、反響はない。自分がどこにいるのか、分からない。俺は前へ出た。盾で翼の根元を押さえる。
「セラ!」
「はい!」
彼女が杖を振る。巣主の周囲だけ、音が消える。羽音も、爪音も、悲鳴も。方向を失った巣主は、湿った砂の上で一度だけ身をよじった。そして、力を失った。
銀色の翼が、ゆっくりと石床へ落ちる。静かだった。水滴の音が、戻ってくる。ぽつ。ぽつ。洞窟が、ようやく元の音を取り戻した。
俺はしばらく動かなかった。巣主の胸の動き。翼膜の震え。魔力の流れ。すべてが止まっていることを確認する。
「……終わりだ」
その言葉で、アンジェリーナが息を吐いた。セラは杖を両手で抱えたまま、その場に座り込みそうになった。俺はすぐに彼女の腕を支える。
「立てるか」
「はい……大丈夫です」
声は震えていた。だが、今度は怖さだけではない。自分で作戦を見つけた。自分の術で、格上の魔物を落とした。
その実感に、まだ追いつけていないのだろう。アンジェリーナが巣主の翼を見下ろす。
「……これ、ちゃんと残ってる?」
「残っている」
俺は翼膜を確認した。喉袋へ刺した一撃以外、大きな傷はない。灰銀色の冠膜も、ほぼ完全な形で残っている。
通常の薄羽膜より厚い。それでいて、指先に触れれば水面のように震えた。魔導具の素材としては、普通の個体とは比べものにならない。アンジェリーナが小さく笑う。
「よかった。あたしたち、ちゃんと報酬の半分を燃やさずに済んだわね」
「半分どころじゃない」
俺は答えた。
「巣主の冠膜まで残った。今日の依頼は、たぶん大当たりだ」
「やっぱり夢がない」
「報酬が増えるなら悪くないだろ」
「それは、そうだけど」
セラが、おそるおそる巣主を見た。セラは、まだ不安そうだった。だが、その目には以前と違うものがあった。
「私が壁の反響を見つけただけじゃ、倒せませんでした」
彼女は俺を見る。
「ロイドさんが、どこで戦うか決めて」
次にアンジェリーナを見る。
「アンジェリーナさんが、走って、刺してくれたから」
アンジェリーナは少し照れたように視線を逸らす。
「まあ、あたしはそういう役だから」
「お前が戦場を作った」
俺はもう一度言った。
「俺が線を選んだ。アンジェリーナが刺した。だが、巣主がそこを飛ぶ状況にしたのはお前だ」
セラは静かに息を吸った。それから、今度は少しだけ真っ直ぐに頷いた。
「……はい」
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