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26/61

環境術師の本領

 依頼地である南西採石場跡は、街から一時間ほどの場所にあった。

 

 雨は小降りになっていたが、空はまだ重い。濡れた草が靴に張りつき、地面は柔らかく沈む。採石場へ近づくと、湿った石の匂いが強くなった。

 

 かつては建材用の石を切り出していた場所らしい。

 今は使われなくなり、岩肌には苔が広がっている。古い荷車の車輪跡は泥に埋もれ、崩れた木柵が斜めに倒れていた。

 

 洞窟の入口は、採石場の奥に開いていた。黒い口のようだった。中から冷たい空気が流れ出ている。

 

 湿気。石。獣臭。そして、薄い羽が擦れるような微かな音。アンジェリーナが剣の柄に手を置く。

 「いるわね」

 

 俺は頷いた。セラは入口の前で足を止めていた。顔色が悪い。杖を握る指が小さく震えている。

 

 「あの……私、本当に……」

 「セラ」俺は彼女の言葉を遮った。「今から、お前にやってもらうことを三つだけ言う」

 「三つ……」

 「ああ。難しいことはしない」

 

 俺は洞窟の入口を指差した。

 「一つ目。松明の光を、実際より半歩右に見せろ」

 

 セラが瞬きをする。

 「半歩、右……」

 「二つ目。俺たちの足音を、後ろから聞こえるようにずらせ」

 「はい……」

 「三つ目。アンジェリーナが踏み込む瞬間だけ、敵の羽音を強めろ」

 

 アンジェリーナが顔をしかめる。

 「羽音を強める? うるさくならない?」

 「敵の聴覚も乱れる。お前の踏み込み音が消える」

 「ああ、なるほど」

 

 俺は続けた。

 「それと、羽膜は切るな」

 

 アンジェリーナが細剣を見下ろす。

 「倒しにくくない?」

 「翼の付け根、首、胸の下を狙え。膜を裂かずに落とせ」

 

 「つまり、速くて小さくて暗闇に強くて、おまけに羽を傷つけるなってこと? 面倒な依頼ね」

 「だから報酬が出る」

 

 アンジェリーナは小さく息を吐いた。

 「あなた、本当に夢がないわね」

 「夢だけでは装備費も宿代も払えない」

 

 セラが、ほんの少しだけ笑った。小さな笑いだった。だが、さっきまでの硬さは少し薄れている。役割が明確になったからだ。

 

 人間は、「頑張れ」と言われるより、「これをしろ」と言われた方が動ける時がある。特に、自信を失っている者はそうだ。曖昧な期待は重い。具体的な役割は、足場になる。

 

 「アンジェリーナ。今日は追わなくていい」

 「また?」

 「狭い洞窟で追うな。敵を落とす。落ちたやつだけ斬れ」

 「落とすって、どうやって?」

 「セラが音をずらす。俺が位置を読む。お前が斬る」

 

 アンジェリーナはセラを見た。セラはびくりと肩を震わせる。少しの沈黙。それからアンジェリーナは言った。

 「分かった。頼むわね、セラ」

 

 セラの目が大きくなった。

 「何よ」

 「いえ、その……頼むって、言われたの、初めてで……」

 

 アンジェリーナは一瞬、言葉に詰まった。そして少し気まずそうに視線を逸らす。

 「べ、別に普通でしょ。組むんだから」

 

 セラは小さく頷いた。

 「……はい。頑張ります」

 

 俺は松明に火をつけた。湿った空気の中で、炎が小さく揺れる。洞窟の壁に、俺たちの影が伸びた。

 「行くぞ」

 

 俺たちは、洞窟へ入った。中は暗く、狭かった。

 

 壁は濡れており、松明の光を鈍く反射している。天井からは水滴が落ち、石の床に小さな音を立てていた。足を踏み出すたび、靴底が湿った砂を噛む。

 

 音が反響する。一歩歩くと、三歩分の音が戻ってくる。右から聞こえた水滴が、次の瞬間には左から響く。

 

 薄羽蝙蝠にとっては有利な場所だ。俺は松明を持ち上げた。光が壁を撫でる。天井の奥に、黒い塊がぶら下がっていた。

 

 いる。十数匹。羽を閉じ、逆さにぶら下がっている。こちらの音に反応して、少しずつ動き始めていた。

 

 「セラ」俺が小声で言う。「光を右へ」

 「はい……」

 

 セラが杖を握る。小さな詠唱。声はか細い。だが、魔力の流れは繊細だった。

 松明の光が、わずかに揺らぐ。実際の炎は俺の手元にある。だが、洞窟の壁に映る光の中心が、半歩右へずれたように見えた。

 

 うまい。地味だが、精度が高い。薄羽蝙蝠たちが動く。彼らは強い光と音に反応する。今、敵が認識している俺たちの位置は、実際より少し右だ。

 

 「よし、いいぞ次は足音だ」

 「はい」

 

 セラの詠唱が変わる。俺はあえて右足を強く踏んだ。音は、俺たちの背後から響いた。アンジェリーナが小さく息を呑む。

 「すご……」

 

 薄羽蝙蝠たちが、一斉に羽を広げた。だが、飛び出す方向がずれている。実際の俺たちではなく、半歩右、少し後ろの空間へ向かって落ちてくる。

 

 「伏せろ」

 アンジェリーナとセラが身を低くする。黒い影が頭上を通り過ぎた。羽音が耳を打つ。薄い膜が空気を叩く音。湿った獣臭。小さな牙が光る。

 

 「アンジェ」俺は短く言った。「落とせ」

 彼女はもう動いていた。洞窟内では大きく跳べない。だから、昨日までのような派手な高速機動は使えない。

 

 だが、セラの音響欺瞞で敵の軌道はずれている。落ちてくる場所が読める。アンジェリーナは、壁際へ流れた一匹へ剣を滑らせた。

 

 細剣の腹が、羽膜ではなく翼の付け根を打つ。骨が短く鳴った。薄羽蝙蝠が、羽を畳めずに石床へ落ちる。

 

 俺が前へ出た。首の下へ短く剣を入れる。膜には刃が触れていない。二匹目も同じだった。アンジェリーナが翼の根を断ち、俺が止めを刺す。

 

 「敵の羽音を強めてくれ」

 「はい……!」

 

 セラの杖先が震える。次の瞬間、洞窟内の羽音が一気に膨らんだ。

 実際の数より、多く聞こえる。方向も曖昧だ。薄羽蝙蝠たち自身が、自分たちの反響で混乱し始める。

 

 俺は天井を見る。残りは八。うち三匹が奥へ逃げようとしている。二匹は光に釣られ、右壁へ向かう。三匹は羽音に混乱して旋回している。

 

 「右の壁、二匹。上からだ」

 

 アンジェリーナが動く。彼女は身を沈め、頭上から来た一匹を避ける。そのまま反転して、翼の根元だけを打つ。速い。だが、昨日とは違う。

 追っていない。待って、斬っている。敵が来る場所に、自分を置いている。セラの魔術で、敵の動きが読みやすくなっているからだ。

 

 「……これ」

 アンジェリーナが息の合間に呟いた。

 「敵の動きが読める……! 空中でも斬りやすいわ」

 「当然だな」俺は松明を動かしながら言った。「俺達が戦場を支配している」

 

 アンジェリーナは一瞬、こちらを見た。その表情に、驚きと高揚が混じっていた。

 セラは、必死に詠唱を維持している。額に汗が浮かんでいた。唇が震えている。だが、魔術は崩れていない。

 

 「セラ、次は左奥の反響を消せるか」

 「……多分。いえ、できます」

 

 彼女の杖先が左奥へ向く。その瞬間、洞窟の左奥だけが不自然に静かになった。音が消える。

 そこへ逃げようとしていた三匹の薄羽蝙蝠が、方向感覚を失った。壁へぶつかり、羽を乱す。

 

 「アンジェ」

 「分かってる!」

 

 彼女が走る。狭い洞窟内でも、彼女の足は速い。だが今は、無駄が少ない。一匹。二匹。三匹目は壁際へ逃げようとする。

 アンジェリーナは無理に斬らず、剣の腹で薄羽蝙蝠を叩き落とした。床へ落ちたところを、俺が踏み込んで止めを刺す。最後の一匹が、天井の裂け目へ逃げようとした。

 

 「セラ、光」

 「はい!」

 

 松明の光が、裂け目の手前で揺らぐ。薄羽蝙蝠は出口を見誤り、岩にぶつかって落ちた。アンジェリーナは膜を避け、首筋だけを裂いた。終わった。洞窟に静けさが戻る。水滴の音だけが響いている。

 

 俺は周囲を確認した。敵影なし。負傷なし。松明一本。魔力消費は、セラがやや大きい。だが十分許容範囲。

 

 完全な薄羽膜は十枚以上残っている。派手さはない。火球も爆発もない。敵を一撃で吹き飛ばすような見栄えもない。

 だが、危険は最小。消耗も少ない。素材も残っている。理想的な討伐戦だった。

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