環境術師には火力がない
翌日のギルドは、雨の匂いがした。
朝から空は低く、街全体に湿った灰色の膜がかかっていた。石畳の隙間には薄い水が溜まり、馬車の車輪が通るたびに泥水が跳ねる。
ギルドホールの入口には濡れた外套が何枚も吊るされ、革と雨と汗の匂いが混じっていた。
俺は掲示板の前に立ち、依頼票を眺めていた。隣にはアンジェリーナがいる。
金髪はいつもより少し丁寧に結ばれていた。昨日の角兎討伐で汚れた軽装鎧も磨かれている。見た目だけなら、いかにも育ちのいい若手冒険者だ。
掲示板には、討伐や護衛、採取の依頼がいつも通り並んでいた。だが、その端に。少し妙な依頼が増えていた。
《北方農村・冬季薪運搬》《廃坑内・低品質魔晶石回収》《倒木回収・伐採補助》
どれも、冒険者が英雄気取りで受けるような仕事ではない。薪を運ぶ。炭を守る。昔なら捨てていたような低品質の魔晶石を拾う。
それだけだ。だが俺は依頼票の報酬額を見て、少し眉を寄せた。
「高いな」
アンジェリーナが横から覗き込む。
「何が?」
「薪運びだ」
「……本当ね」
討伐依頼より少し安い程度。単純な荷運びとしては、妙に報酬がいい。アンジェリーナが依頼票を指で軽く叩く。
「これも冒険者の仕事なの?」
その声を聞いたのか、受付へ書類を運んでいたエルナが振り返った。
「最近、増えてるんです」
「燃料の依頼が?」
「はい。特に北側の村から」
エルナは少し困ったように笑った。
「村の人たちだけでは、冬までに必要な量を集めきれないところが増えていて」
「薪なんて、森で拾えばいいじゃない」
アンジェリーナが言う。エルナは首を振った。
「近い森はもう取りやすい倒木が減っていますし、奥へ入れば狼やゴブリンも出ます。炭も去年より高くなっています」
「だから冒険者を雇う?」
「ええ」
俺はもう一度、依頼票を見る。《冬季薪運搬》。その下に、小さな文字で補助元が書いてある。村共同基金。領主冬季補助。ギルド生活維持支援枠。
なるほど。報酬が高いのではない。村人だけでは払えないから、他から金を足している。アンジェリーナが顔をしかめた。
「薪を集めるのに、そこまで?」
「昔より高くつくようになってるんだろうな」
俺は答えた。
「同じ一束を手に入れるのに、前より遠くまで行く。護衛をつける。運ぶ人間も増やす」
「それって……」
「まだ薪はある」
俺は依頼票を戻す。
「ただ、手に入れるまでに必要なものが増えた」
アンジェリーナは少しだけ黙った。その横で、別の若い冒険者が《廃坑内・低品質魔力結晶回収》の依頼票を剥がしていた。
「これで銀貨二枚か。昔なら捨ててた石だろ?」
仲間が笑う。
「今は買う奴がいるんだよ。楽ならいいじゃねえか」
彼らは軽い調子で受付へ向かった。俺はその背中を見る。昔なら拾わなかったものに値段がつく。昔なら村だけで済ませていた仕事に、冒険者が雇われる。
それが何を意味するのか。今の俺には、まだ全部は分からない。ただ街のどこかで、何かが少しずつ重くなっている。そんな感じがした。
「それで、今日の依頼は?」
アンジェリーナが掲示板を見る。
「また角兎? それとも狼? あたしとしては、もう少し速いやつでもいいけど」
「今日は探し物だ。人を探す」
「依頼じゃなくて?」
「ああ」
アンジェリーナは目を細めた。
「その人、強いの?」
「今は弱く見えるかもな」
「見える?」
「周りにはな」
「あなた、面倒な人ばっかり拾うつもり?」
「お前を拾った時点で今さらだ」
「ちょっと!?」
アンジェリーナが声を上げた瞬間だった。ギルドホールの奥で、何かが倒れる音がした。
木の椅子が床を擦る音。続いて、若い男の苛立った声。
「だから言ってるだろ! お前の魔術、何の役に立ってるんだよ!」
ホールの空気が、少しだけそちらへ寄った。俺は掲示板から目を離す。受付横の打ち合わせ卓。
そこに、三人の若手冒険者が立っていた。一人は革鎧の剣士。一人は弓使い。もう一人は魔術師らしい赤いローブの女。
その前で、小柄な少女が椅子に座ったまま俯いていた。アッシュブラウンのボブスタイル。古びた外套。膝の上には、少し傷のついた杖。年齢はアンジェと同じくらいか。
肩を縮めるように座っている。まるで、自分の身体を少しでも小さくすれば、責める声が通り過ぎてくれると思っているみたいだった。
「あの……でも、私は敵の視界をずらして……」
少女が小さく言う。声は雨音に紛れそうなほど細かった。
「視界をずらして、何だよ」
剣士の男が吐き捨てる。
「魔物を倒してるのはいつも俺たちだろ。お前、後ろで何かぶつぶつ唱えてるだけじゃねえか」
「音も、少し……」
「音?」
弓使いが鼻で笑う。
「そんなもん、依頼票に書けるかよ。討伐数ゼロ。火力ゼロ。役に立った証拠ゼロ」
火力魔術師が腕を組んだ。
「支援職なら支援職らしく、回復でも防御でもできればいいんだけどね。視界歪曲? 音響欺瞞? 地味なのよ。はっきり言って何してるか分からない」
少女は何か言おうとして、唇を噛んだ。周囲の冒険者たちは、露骨に見ないふりをしていた。
こういう場面は珍しくない。
低ランクのパーティーでは、依頼失敗や報酬減額の責任を誰か一人に押しつけることがよくある。特に、貢献が見えにくい職は標的にされやすい。
火力職なら分かりやすい。倒した。燃やした。吹き飛ばした。数字にできる。だが、敵の視界を一瞬ずらしたこと。足音を別方向に聞かせたこと。
魔力の流れを乱して詠唱を遅らせたこと。そういうものは、見えない。見えないものは、なかったことにされる。
俺はその少女の名前を知っていた。セラ。環境術師。火力偏重の時代では、「何をしているのか分からない」と切り捨てられていた不遇職。だが、この先の戦場では、彼女の能力が重要になる。
視界歪曲。地形変化。音響欺瞞。魔力撹乱。敵に当てる魔術ではない。戦場そのものを変える魔術。
俺に必要な、もう一つの力だった。アンジェリーナが隣で眉をひそめた。
「何あれ。感じ悪い」
「低ランクではよくある」
「止めないの?」
俺は少しだけ彼女を見た。意外だった。アンジェリーナは気が強い。だが、弱い者を見て笑うタイプではないらしい。
「止める」
俺は歩き出した。
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