廃村ベルナード
工房の裏手にある空き地で、アンジェは何度か踏み込みを試した。最初の一歩。彼女は顔をしかめた。
「重い。歩きにくい」
「歩くための部品じゃない」
「じゃあ何のための部品なのよ」
「止まるためだ」
「本当にそればっかりね」
アンジェは不満そうに呟き、ゆっくりと距離を取った。十歩。二十歩。呼吸を整える。足元の《風踏み》へ薄く戦気を流す。銀の導線が、青白く光った。
「行くわよ」
その直後、アンジェの姿が前へ滑った。速い。空気を切る音だけが遅れて届く。
だが、昨日の訓練場よりわずかに踏み込みが重い。本人もそれを理解したのか、表情を曇らせた。
そして、空き地の端に置かれた木杭の前で、急停止を試みた。足裏へ戦気が流れる。
制動環の真鍮が、青く光った。次の瞬間。地面が低く鳴った。
アンジェの身体が前へ流れかける。だが、踵が滑らない。衝撃が地面へ逃げ、彼女は木杭の手前で止まった。
髪が大きく揺れた後、静かに落ちる。アンジェは数秒、動かなかった。自分の足元を見ている。
「……止まったわね」
フィンが満面の笑みを浮かべた。
「ああ、止まった!」
「分かってるわよ」
アンジェはもう一度、足を動かした。足首を回す。膝を曲げる。痛みがないことを確認すると、少しだけ驚いたように目を見開いた。
「衝撃が……抜けた」
「地面へ逃がした」
俺が答える。
「全部は逃がせない。使い方が悪ければ、足ごと壊れる。泥、雪、瓦礫、傾いた屋根。そういう場所では危ない」
「つまり、どこで止まるかも考えろってこと?」
「ああ」
アンジェは、もう一度木杭を見た。
「止まる場所を先に決める……」
その声は小さかった。昨日までの彼女なら、そんなことを考えなかったかもしれない。敵へ届く場所。刺せる角度。避けるための空間。そこまでは見ていた。だが、止まった後の自分がどこに立つかまでは、まだ見ていなかった。
「行こう」
俺が言う。アンジェは靴へ視線を落とし、それから俺を見た。
「これ、返すかどうかは依頼の後に決める」
「好きにしろ」
「でも、壊したら?」
「フィンが喜ぶ。修理代で稼げるからな」
「喜ばないよ! いや、壊れ方によるけど!」
工房からフィンの声が飛んできた。俺たちは少しだけ笑った。そして、西の廃村へ向かった。
西の廃村ベルナードが見えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。冬枯れの草原の向こうに、崩れた家々が並んでいる。
村を囲っていた木柵は半ば倒れ、屋根瓦は地面へ散らばり、窓はどれも黒く口を開けていた。人が住まなくなった場所には、生活の音だけが綺麗に消える。
俺は村へ近づく前に足を止めた。倒れた木柵の外側に、ゴブリンの足跡が残っている。小さな裸足の跡が何本も重なり、草原から村の中へ続いていた。
その傍らに、小さな青銅片が落ちている。俺は拾い上げた。指の第一関節ほどの大きさ。片側には小さな穴が開き、革紐が千切れた跡がある。装飾品として首か耳へ下げていたのだろう。だが、表面には模様ではなく、規則正しい細い溝が刻まれていた。
「ゴブリンの耳飾り?」
アンジェが俺の手元を覗き込む。
「たぶんな」
「意外と趣味がいいのね」
俺は青銅片を爪で軽く弾いた。ちん。小さな音がした。すぐに消えたはずなのに、指先にはかすかな震えが残っている。
「村の遺構から拾ったのかもしれない」
「古い金属を飾りにしただけでしょ?」
「それだけならいいが」
その時、村の中央から、細く澄んだ鐘の音が響いた。革袋の中で、拾った青銅片がかすかに震えた。ほんの一瞬だった。風で袋が揺れただけかもしれない。アンジェは気づかなかったらしく、村の中央を見ている。
「今の聞こえた? ゴブリンが鳴らしてるのかしら?」
俺は村の中央に残った鐘楼を見る。石造りの塔は半ば崩れていた。だが、その頂に吊るされた青銅の鐘だけは、妙に綺麗な形を保っている。雨風に晒されていたはずなのに、錆びていない。表面には、薄く青い線が走っていた。
「鐘鳴きゴブリンだ。普通は鐘を鳴らして仲間を呼ぶ」
「普通は?」
「鳴らす回数や音の強さで、敵が来た方角を知らせる程度だ」
俺は村の入り口に近づき、乾いた地面へ触れた。小さな裸足の跡。何十本もの足跡。新しいものは北の水路と中央広場の間に集中している。
だが、外周には見張りの足跡がない。それなのに、俺たちが草原の縁へ出た直後から、北側の屋根の影が動き始めていた。
まだ村へ踏み込んでもいない。こちらの姿を確かめられる位置にも、見張りはいない。コーン。二度目の鐘が鳴った。
今度は北側だけではない。東の廃屋、井戸の陰、鐘楼の下。離れた場所にいたゴブリンが、ほとんど同時に南へ顔を向けた。
アンジェが眉をひそめる。
「……見つかってる?」
「接近は知られたらしい」
「鐘を二回鳴らしたから、南から敵が来たって合図?」
「その可能性はある」
だが、それだけでは説明がつかないこともある。
二度目の鐘の音で、離れた位置にいる個体がほぼ同時に動いた。しかも、ただ南を警戒したのではない。屋根の個体は投槍を持ち、路地の個体は地上へ降り、鐘楼下の個体は動かなかった。
同じ合図を聞いて、役割ごとに違う配置へ移っている。鐘一回で伝えられる命令としては、情報量が多すぎる。
俺は村全体を見回した。鐘楼。井戸。崩れた石壁。南の大通り。北へ抜ける細い水路。そして、鐘楼を中心に円を描くように埋め込まれた古い金属板。村の建材ではない。表面には鐘と同じ青い導線が刻まれている。
《戦域管制》。頭の中に村の形が立ち上がった。敵の位置はまだ灰色だ。確定しているのは、屋根上に三。地上に少なくとも六。鐘楼下に複数。北水路は空いている。
赤黒い線が、南の大通りから三方向へ伸びる。右の路地へ入れば屋根から射抜かれる。中央を急げば囲まれる。北を塞げば、群れ全体がこちらへ反転する。
その外側に、村の外へ戻る細い青い道が一本だけ残っていた。俺は地面へ短剣を走らせた。
「ここが村の入口だ。ここが鐘楼。敵はたぶん、中央の広場に集まる。北の水路は奴らの逃げ道だ」
「そこを塞ぐ?」
「いや、下手に退路を塞げば、全員が俺たちへ向かってくる。返って抵抗が強くなる」
「それは困るわね」
アンジェは地面の線を見る。
「じゃあ、鐘楼を落とす?」
「ああ、今のところはそこが指揮所と考えている。重要目標だ。ただし、鐘の仕組みが分からない」
俺は盾の固定具を締め直した。
「目標は二つだ。村の保全と敵の掃討。突入後の正面は俺が対応する。お前は右側面だ。屋根へ上がっても、俺から離れすぎるな」
「自由に動いちゃダメってこと?」
「俺が戻れと言ったら、もう一撃刺せそうでも戻ってくれ。死なせないためだ」
アンジェは少し不満そうにしたが、すぐに頷いた。
「分かった。その代わり、攻撃の指示はちゃんと教えて」
「ああ、お前が動きやすいように十分配慮する」
「それでいいわ」
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