帰るための装備
翌朝、俺は約束の時間より少し早く、冒険者ギルドの前へ着いた。
朝市へ向かう荷車が石畳を軋ませ、通りには焼きたてのパンと獣脂の匂いが流れている。冬の冷えた空気の中、吐く息は白い。
門柱のそばには、すでにアンジェリーナがいた。
短い外套。軽装の革鎧。腰には細剣。足元には、昨日の訓練場でも目立っていた《風踏み》の靴。ハニーブロンドの髪を高い位置で結び、腕を組んでいる。
「依頼票は確認してくれた?」
「受付で確認した。西の廃村ベルナード。鐘鳴きゴブリンの変異群。推定二十から三十体。依頼は、群れの討伐と村落跡地の安全確保」
「討伐だけじゃないのね」
「村に残っている物資を回収したい商会がいる。だから、村の保全も考える必要がある」
アンジェは肩をすくめた。
「ゴブリンを全部倒せば済む話じゃない」
「その考えが一番危ない」
「どうして? 倒し切れば安全でしょ」
「敵を追い詰めすぎれば、村が丸ごと燃えるかもしれない。そうすれば依頼主は怒る」
彼女は一瞬だけ口を尖らせた。
「……わかったわよ。倒した後のことも考えろってことでしょ」
「そういうことだ」
俺は折り畳んでいた依頼票を開き、備考欄へ目を落とした。欄の端に、小さな文字で追加事項が記されている。
【村落地下に旧時代遺構あり】
【井戸掘削時、石造空洞および金属板を確認】
【遺構内部への立ち入りは依頼対象外】
「それと、村の地下に古い遺構があるらしい」
「遺構?」
アンジェが依頼票を覗き込む。
「帝国の建国よりさらに前の時代に造られた建物だ。街道や村の地下から、ときどき見つかる」
「宝物でも残ってるの?」
「期待するな。大抵は用途の分からない石壁か、錆びた金属板だ」
「夢がないわね」
「動く物が残っていたら、夢を見るより先に逃げろ」
アンジェは冗談だと思ったらしく、小さく笑った。
「何よ、それ」
「軍ではそう教えられた」
旧時代遺構の調査は、専門の技師か帝国の役人が行う。兵士へ説明されることは少なかった。触るな。持ち出すな。光ったら離れろ。俺たちに与えられた知識は、その程度だった。
「まあ、今回の依頼はゴブリン討伐でしょう?」
「ああ。遺構へ潜る必要はない」
そう答えながら、俺は備考欄の文字をもう一度見た。依頼対象外。その表現は、安全を意味しない。ただ、依頼主が責任を負わないという意味だ。アンジェが歩き出そうとする。俺はその前に言った。
「その前に、寄りたい場所がある。工房だ。足の装備のための」
アンジェの視線が、ゆっくりと俺の顔から自分の靴へ落ちた。
「あたしの《風踏み》に文句があるの?」
「ある」
即答すると、彼女の青い目が細くなった。
「昨日のことなら、段差が悪かっただけよ」
「あの位の段差なら戦場に腐るほどある」
「それくらい分かってる」
「分かっているなら、止まるべきだ」
空気が少しだけ冷えた。アンジェは怒鳴らなかった。ただ、俺をじっと見ていた。
昨日の敗北を、まだ飲み込めていないのだろう。自分の速さで圧倒していた。相手の防御を崩した。剣も届いていた。
なのに最後には、石段の外側へ追い込まれ、足を踏み外した。剣では負けていない。足で負けた。それが、彼女にとって一番腹立たしいはずだった。アンジェは大きく息を吐いた。
「いいわ。行きましょう。でも、変な物を付けるなら断るから」
「付ける前に説明する」
「勝手に靴を壊したら斬るわよ」
「壊れる場所を変えるだけだ」
「何それ。余計に怖いんだけど」
南区画は、朝から鉄と油の匂いで満ちていた。
鍛冶屋の槌音。革を裁つ刃の音。魔導炉の送風管から漏れる蒸気。荷車の車輪が、石畳を重く叩く音。
アンジェは通りを歩きながら、周囲を珍しそうに見ていた。貴族街の工房とは違う。ここにあるのは、壊れた物を直す店ばかりだ。欠けた盾。折れた槍。古い荷車。外れた車輪。煤けた魔導灯。
新品を売る場所ではない。壊れた物を、次も使える形に戻す場所だ。細い路地の一番奥に、黄銅の鴉を模した看板があった。
片方の翼が欠け、煤で黒くなっている。《黄銅工房》。アンジェが看板を見上げる。
「ここ? もっと……有名な工房に行くのかと思った」
「正確に言うと、有名になる前だな」
「何それ」
答えずに俺は扉を押した。中から金属を削る細い音がする。作業台の下から、聞き覚えのある声が飛んできた。
「修理なら、そこに置いといて。納期は三日後――」
作業台の下から、フィンが顔を出した。煤だらけの頬。焦げた前髪。細い導線を握った手。
お馴染みの光景だ。そして、俺の後ろに立つアンジェを見た瞬間。フィンの目が、眠たげなものから一気に変わった。
「え、ちょっと待って。あれ?」
フィンはゆっくり立ち上がった。視線は、アンジェの顔ではない。足元に固定されていた。
「《風踏み》?」
アンジェが少しだけ後ずさり警戒する。
「そうだけど」
「本物の上級型? 銀導線の密度が違う。前足部の加速符が二重になってる。靴底の魔力石も、安物じゃないな……」
「見る場所、そこなの?」
「そこだよ!」
フィンは勢いよく近づきかけて、俺に止められた。
「近いぞ、フィン。彼女は客だ」
「ご、ごめん。でも、これはすごい。加速術式の配列が綺麗すぎる。誰が組んだんだい?」
「実家付きの職人よ」
「なるほど……資金がある家はいいなあ」
フィンの声が急に小さくなった。アンジェは少し気まずそうに咳払いをした。
「それで? ロイドがここへ連れてきた理由は?」
フィンは俺を見る。俺は作業台の奥を指さした。そこには、真鍮製の小さな輪がいくつか並んでいた。外側は鈍い金色。内側には青白い魔力石粉が埋め込まれ、細い銀導線が蜘蛛の巣のように走っている。
「制動環だ」
アンジェが首を傾げる。
「制動環?」
「加速を制動するための部品だ」
彼女の表情が、露骨に嫌そうになった。
「いらない」
「まだ説明してない」
「速く走るための靴に、遅くなる部品を付ける気?」
「違う」
俺は真鍮の輪を一つ手に取った。ひやりと冷たい。前の人生では、もっと洗練された形でしか見なかった。
だが今はまだ、荷車用の制動具を無理やり人間の足へ流用しただけの、不格好な試作品だ。
「これはお前の速さを捨てる部品じゃない」
「じゃあ何?」
「速く走った奴が、死なずに帰るための部品だ」
アンジェが黙った。フィンが少しだけ嬉しそうに、作業台の上の図面を広げた。
「急停止、急旋回、着地。その瞬間に足首や膝へ返る衝撃を、靴底と地面へ逃がす。荷車なら車輪軸が折れるのを防ぐための仕組みだよ」
「荷車の部品を、あたしの靴に?」
「本当はまだ無茶だと思う」
フィンは正直に言った。
「重いし、調整も必要だ。足の長さ、踏み込みの角度、戦気の流し方。全部、人によって全然違うから」
「だったら、なおさら要らないわ」
「必要になる」俺は言った。アンジェが俺を見る。「お前は速い。誰よりも速い」
「当然よ」
「だから、死ぬ場所にも誰より早く届いてしまう」
彼女の眉が跳ねた。俺は昨日の訓練場を思い出していた。石段。浮いた重心。喉元へ届く剣。あの一瞬が実戦だったなら、彼女は死んでいた。
「速い奴は、敵より早く刺せる。だが同時に、味方より早く孤立する。止まれない奴は、敵の間合いへ飛び込んだ後で、自分がどこにいるか気づく」
「あたしはそんなへましない」
「昨日したばかりだろう」
「……っ」
アンジェが唇を噛んだ。フィンが気まずそうに視線を逸らす。だが、ここで誤魔化すわけにはいかなかった。
「お前は速い。だから、速さを捨てるな」
俺は真鍮の輪を握った。
「最後まで使い切れ。そのためにも、望んだ場所で止まれるようにしろ」
しばらく、工房の中には魔導炉の小さな唸りだけが響いていた。やがてアンジェが、低い声で聞いた。
「……付けたら、速くなれるの?」
「初動は少しだけ遅くなる。だが、反転速度が上昇する」
「それ、同じじゃない」
「違う」
俺は首を振る。
「敵に届く速さと、生きて帰る速さは別だ」
アンジェの目が、わずかに揺れた。昨日の負けを思い出したのだろう。進むことはできた。だが、戻れなかった。フィンがおそるおそる口を開く。
「実は試すだけなら、簡易型があるんだ」
「あるのか」
「昨日の夜、ロイドの話を思い出して作った。零号をそのまま靴に埋めるのは無理だけど……外付けなら」
フィンは棚の奥から、小さな革の固定具を持ってきた。靴の踵から足首へ巻き付ける形だ。真鍮の環は左右一つずつ。大きい。重い。どう見ても、上品な高級靴には似合わない。アンジェが顔をしかめた。
「……ださいわね。本当に使えるの?」
フィンが即答した。
「うん。これは試作だけどね。強い制動は三回まで。内部の破断片を三枚だけ入れてある。限界を超えた衝撃が来たら、先にそこが壊れる。四回目以降は保証しない」
「保証しないって?」
「足首が壊れるかもしれない」
「さらっと怖いこと言わないで!」
フィンは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「でも、壊れるのは部品の方がいいだろ」
その言葉に、俺は少しだけ笑った。フィンはまだ知らない。その考え方が、これから多くの冒険者を救うことを。
「どうする」
俺が聞くと、アンジェは黙って自分の靴を見た。白い指が、革の縁をつまむ。それから、小さく息を吐いた。
「……一回だけ試してみる」




