勝者
「……勝者、ロイド・クレイヴァー」
教官の声が、遅れて訓練場に響いた。周囲の冒険者たちが息を呑む。さっきまで誰もが、アンジェの勝ちだと思っていた。
「……何、今の」
アンジェリーナが低い声で言った。怒りではなかった。困惑だった。
「私が圧倒してたでしょ」
「ああ」俺は答えた。「観客には俺が押されているように見えただろうな」
その返答が気に入らなかったらしい。アンジェの眉が跳ねる。
「なら、どうして私が負けるのよ」
俺が答える前に、教官が訓練場へ降りてきた。石段を踏む重い足音。元帝国兵らしい巨漢は、アンジェと俺の間へ立つと、外周の石段を指さした。
「アンジェリーナ。お前は剣で負けたんじゃない」
アンジェが顔を上げる。
「足で負けた」
その一言で、周囲が静かになった。アンジェの視線が、自分の靴へ落ちる。高級な《風踏み》の靴底。銀の魔力導線が、まだ淡く光を残していた。
「踏み込みは速い。幻影も本物と見まがう程だ。《ファントム・ステップ》で気配を散らし、《影剣》で防御を割る。お前の攻めは、ここにいる連中の大半を圧倒できる」
教官は周囲を見回した。若い冒険者たちが、気まずそうに視線を逸らす。
「だが、お前は三度、同じ方向へ離脱した」
教官は訓練場の石畳に、靴先で線を引いた。
「右から入る。刺す。右後方へ抜ける。この動きの繰り返しだ。戦場で同じ退路を使う奴は、待ち伏せされる」
アンジェは口を開きかけて、閉じた。
「速い奴は、自分がどこへでも行けると思う。敵の剣を避けられる。相手の横へ回れる。危なくなれば、空いている方へ走ればいい。そう考える」
教官は俺へ視線を向けた。
「だが、こいつはお前の剣を追っていなかった」
俺は黙っていた。
「こいつが見ていたのは、お前が最後に足を置く場所だ」
教官の指が、俺の盾と石段の間を示す。
「最初から、そこに誘導していた。お前に右を攻めさせた。お前に右へ抜けさせた。最後に、お前がいつものように逃げようとした時だけ、そこに盾を置いた」
「……追い詰められてたんじゃ」
「追い詰められたように見せていた」
教官は即答した。
「お前は、攻めているつもりで動かされていたんだ」
アンジェの顔から、怒りが少しだけ抜けた。代わりに、理解したくないという表情が浮かぶ。俺が外周へ追い込まれていたように見えた。
だが、実際には、俺はアンジェが最後に使う離脱路へ近づいていただけだ。
「石段は急に出現したわけじゃない。最初から、そこにあった。お前が見ていなかっただけだ」
アンジェは石段を見る。それから、自分の《風踏み》を見た。
「……私の視野が狭かったってことね」
「視野だけじゃない」
教官の声は低かった。
「攻撃した後に、どこへ立つか。誰の側に行くか。次の敵が来た時、どこまで下がるか。そこまで決めて、初めて攻撃だ」
彼の目が、一瞬だけ遠くを見る。昔の戦場を思い出しているようだった。
「速さに自身のある兵は、よく死んだ。敵を一体斬った後でな。戻る場所がないまま、次の敵の前へ飛び込んだからだ」
教官が去った後、俺はアンジェに話しかけた、
「これで話は聞く気になったか」
アンジェリーナは不機嫌そうに唇を噛んでいた。汗が頬を伝う。朝の光に、金髪が眩しく光っている。
「一回勝ったくらいで、偉そうにしないで。負けたのは認めるけど……」
「一回で十分だ。実戦なら一回で死ぬ」
その言葉に、彼女の目が鋭くなった。
「死ぬ死ぬって、簡単に言うのね」
「簡単じゃないから言っている。俺は、死ぬやつを何人も見た。速いやつも、強いやつも、才能のあるやつも、判断を一つ間違えれば死ぬ」
アンジェリーナは黙っている。俺は続けた。
「お前は速い。剣もいい。反応も悪くない。若手の中では紛れもなくトップだ。だが、戦場全体を見ていない。今のままだと、いつか足首を壊すか、退路を失って囲まれる」
彼女の表情が、一瞬だけ揺れた。自覚があるのかもしれない。
高速機動型の前衛は、身体への負担が大きい。特に膝と足首だ。若いうちは誤魔化せる。だが、無理な機動を続ければ確実に蓄積する。
俺は三十四歳までそれを見てきた。壊れた者たちは、最初から壊れていたわけではない。少しずつ、使い潰されていくのだ。アンジェリーナは剣を鞘に戻した。
「あなた、何者?」
「ただのEランク冒険者だ。軍崩れのな」
「それは見れば分かる」
彼女は俺の目を見た。
「でも、ただの退役兵じゃないでしょ。あなたの見方、なんていうか気持ち悪い」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてない」
少しだけ、空気が緩んだ。アンジェリーナは髪を払う。
「で、あなたはあたしと組んで何がしたいの?」
「討伐依頼を受けようと思ってる」
アンジェリーナは小さく息を吐いた。
「いいわ」そう言って、顎を上げる。「ただし、足を引っ張ったら置いていくから」
俺は内心で息を吐く。一歩目はこれでいい。彼女はまだ俺を信用していない。俺も、彼女を完全には信用していない。
だが、戦場で必要なのは、最初からの信頼ではない。まずは、互いの能力を正しく見ることだ。
「何か受けたい依頼はあるか?」
俺が聞くと、アンジェリーナは即答した。
「西の廃村に出る《鐘鳴きゴブリン》の変異群。Dランク下位相当。あたし一人でもやれるけど、数が多いから臨時メンバーを募集しようと思ってた」
「鐘鳴きゴブリンか」
俺は記憶を探る。鐘鳴きゴブリン。単体なら大したことはない。
しかし変異群は厄介だ。角が硬化し、集団で波状突撃をしてくる。高速前衛にとっては、相性が悪い。
一体を斬った瞬間、別方向から攻撃される。無理に避け続ければ膝に来る。なるほど。彼女が臨時メンバーを募集した理由が分かった。ただの補助役では足りない。敵の群れを制御できる者が必要だ。
「いいだろう」
「受けるんだ。D級相当よ。怖くないの?」
「怖いさ」
アンジェリーナが目を丸くした。俺は続けた。
「だが、怖がらないやつから死んでいく」
彼女は一瞬黙り、それから小さく笑った。馬鹿にした笑いではなかった。少しだけ意外そうな、そしてほんのわずかに興味を含んだ笑いだった。
「変な人」
「よく言われる」
「じゃあ、一晩休んで明日の朝に出発するわよ。準備して」
俺たちは訓練場を出た。その時、背後から若手冒険者の声が聞こえた。
「あの退役兵、マジでお嬢様と組むのかよ」「いや、でもさっきの、ちょっとすごくなかったか?」「たまたまだって」
俺は振り返らなかった。たまたま。そう見えるなら、それでいい。目立ちすぎる必要はない。
今はまだ、Eランクの退役兵で十分だ。だが隣を歩くアンジェリーナは、少しだけこちらを見た。
「ねえ。さっきの、本当にたまたまじゃないのよね?」
「たまたまで何度も生き残れるほど、戦場は優しくない」
彼女は何か言おうとして、やめた。そして前を向く。金髪が朝の風に揺れた。その横顔には、まだプライドと警戒心が残っている。
だが同時に、ほんの少しだけ、期待のようなものも見えた。
俺は歩きながら思う。アンジェリーナ・ヴァーミリオン。一度目の人生では、速すぎて折れた才能。この二度目の人生で、彼女を同じ結末にはさせない。
そして俺自身も、同じ終わり方はしない。ギルドの中庭を抜けると、街の空気が流れ込んできた。
焼きたてのパンの匂い。馬車の車輪が石畳を叩く音。市場へ向かう人々のざわめき。世界はまだ、俺たちのことなど知らない。氷河期世代の退役兵と、じゃじゃ馬の幻影剣士。
使い方を間違えれば、どちらもすぐに潰れる。だが、噛み合えば。俺には足りなかった速さが手に入る。彼女には見えていなかった戦場が見える。
それが、どこまで行けるのか。まだ誰も知らない。俺たちは、最初の依頼へ向かう準備を始めた。




