旧世代VS新世代
「模擬戦だ! 殺すなよ!」
「善処するわ」
教官の腕が振り下ろされた。直後、アンジェが消えた。
「——っ」
右。そう思って盾を向けた。だが、そこにいたのは残像だった。淡い光の筋だけが、俺の盾の前を横切る。
《ファントム・ステップ》。幻影剣士の基本スキルだ。ただ速く動いているだけじゃない。踏み込みの瞬間に戦気を薄く散らし、光の屈折と残った戦気反応で、半拍遅れた自分の姿を敵の目に残す。
敵はそこにいると思って剣を振る。だが、本体はもう別の場所にいる。幻影剣士の幻影は、実体を持った分身ではない。敵の判断を、ほんの一瞬だけ遅らせるための囮だ。そして実戦では、その一瞬で十分だった。
本体は左。気づいた時には、細剣の切っ先が俺の脇腹へ迫っていた。速い。先ほどまでの模擬戦とは比べ物にならない。まさに実戦速度だ。俺は身体を捻る。剣の先端が革鎧を叩いた。乾いた音。
「遅いわ」
彼女は肩を竦めた。
「幻影を見てから盾を動かしてる。そんなのじゃ、あたしには追いつけない」
分かっている。分かっていても、厄介だ。残像だけなら、まだ対処できる。問題は、彼女が次の手まで繋げてくることだった。アンジェが再び踏み込む。
今度は足音が右から聞こえた。石畳を蹴る音。衣擦れ。戦気の揺らぎ。
俺はそちらへ視線を送った。だが、違う。右にいるのは偽の気配だ。本体は俺の正面から低く滑り込んでいた。
「見えるかしら?」
囁くような声。細剣が俺の喉元へ伸びる。俺は盾を跳ね上げた。刃は弾いた。だが、そこで終わらない。
アンジェは俺が盾を上げた隙に、身体を半回転させた。細剣の軌道が二つ、三つに分かれる。
《影剣》。剣先の動きと戦気の残滓で、刺突の軌道そのものを複数に見せる技だ。
胸を狙う剣閃。肩を狙う剣閃。そして、そのどちらでもない、本物の切っ先。俺は辛うじて剣で受けた。金属音が訓練場に響く。
「《影剣》まで使ったぞ」 「重装相手に本気かよ」 「そりゃ、あの娘は容赦しないだろ」
周囲の声が遠くなる。アンジェの剣だけを見る。速い。
正面から勝てる相手じゃない。俺が剣を振れば、その外へ出る。盾を向ければ、反対側へ回る。重装前衛の常識を、最初から全部知っているみたいな動きだった。
いや。知っているのだろう。若い連中は、もう俺たちの戦い方を研究している。
盾の死角。重い鎧の旋回。踏み込みの遅さ。戦争で生き残った技術は、今や攻略対象になっている。
アンジェが再び消える。左。違う。右。それも違う。今度は上だ。跳躍の気配に気づいた時には、彼女は俺の盾を飛び越えていた。着地と同時に、剣で切りつけるが、半歩のステップで躱される。
「目を瞑っててもよけられるわよ!」
アンジェは着地の勢いを殺さず、そのまま俺の背後へ抜けた。観客席が沸く。
「ロイド、何もできてないぞ!」「やっぱり重装じゃ無理だ!」
そうだ。今のままなら無理だ。俺は振り返り、剣を構え直した。右肩に残った鈍い痛みを確かめる。肩当ての隙間を貫かれていれば、もう終わりだった。
アンジェは強い。速さそのものが、既に武器になっている。
俺は彼女の足元を見た。正確には、見ようとしていた。幻影は光を残す。足音を残す。戦気の反応を残す。
だが、本体だけは必ず、地面を踏む。石畳には、昨夜の雪解け水が薄く残っていた。朝の冷気で、その一部は白く凍りついている。
アンジェが加速する直前。彼女の左足が、ほんのわずかに沈む。左足で地面を掴み、右へ飛ぶ。
そして刺突の後は、必ず右後方へ抜ける。速さを維持するための癖だ。
彼女は、止まらない。いや、止まれない。加速靴《風踏み》は、踏み込みを強くする。だが、強く踏み込んだ者を止めるようには作られていない。俺は息を整えた。幻影を見るな。剣を見るな。相手が次に立ちたい場所に集中しろ。
「どうしたの?」アンジェが言う。「もう終わり?」
「いや」
俺は盾を少し下げた。
「ようやく始まったところだ」
アンジェの眉が動く。「強がりね」
俺は攻撃を防ぐ。いや、防いでいるように見せながら、少しずつ受ける角度を変えていた。右から来る刃は、外周側へ流す。左から来る刃は、中央へ戻るように弾く。
アンジェは自然と、俺の右側へ回り込み始めた。そこが攻めやすいと思ったのだろう。
実際、攻めやすい。俺の盾は左手にある。右側へ回れば、盾の死角へ入りやすい。だがその代わり、訓練場の中央からは少しずつ遠ざかる。
アンジェは気づかない。いや気づいていても、気にしない。速い者は、自分ならいつでも戻れると思っている。
だが、退路は走り出してから探すものじゃない。走る前に決めておくものだ。
俺はまた半歩下がった。石畳の感触が、足裏へ伝わる。今いる外周部には、訓練場を囲む浅い石の段差がある。たかが指二本ほどの高低差。
普段なら、障害にもならない。だが、全速で動く足には違う。
アンジェリーナの剣が、俺の脇を掠めた。細い風が頬を撫でる。速い。だが、焦り始めている。彼女は自分の速度で押し切れない相手に慣れていない。
俺はさらに半歩下がった。観客には、俺が押し込まれているように見えただろう。実際、俺の背後には外周の石段が近づいていた。誰かが叫ぶ。
「追い詰めた!」「あと少しだ、アンジェ!」
アンジェも同じように思ったらしい。俺の背後を一度だけ見た。石段。壁。中央へ戻る余地は少ない。ここで決める。そう判断した。
「じゃあ、終わりね」
彼女が低く沈む。左足へ体重が乗る。石畳がわずかに鳴った。
「《ファントム・ステップ》」
アンジェの姿が二つに分かれた。左の幻影が、俺の肩へ突きを放つ。
俺は盾をそちらへ向けた。アンジェの目が笑う。読ませた。そう思ったのだろう。
本体は右。俺の盾の死角へ滑り込み、脇腹を刺す。その後は右後方へ離脱。いつもの形だ。だが。俺は、そこで初めて前へ出た。
「——っ!?」
アンジェの表情が変わった。俺は彼女の刺突を避けない。脇腹を掠める軌道へ、身体をわずかに寄せる。
その代わり、盾の縁を彼女の右後方へ差し出した。逃げ道を塞ぐために。
彼女はすぐに角度を変えた。踏み込みからの切り返し。流れるような動きだ。訓練場の土が軽く跳ねる。金髪が視界の端で揺れる。
だが、その足は自然に広い方へ向かう。人間は速く動く時、無意識に空間の広い方向を選ぶ。
彼女は特にその傾向が強い。自分の速度を最大限に出せる場所を、本能的に探している。だから読める。俺は攻めない。剣をわずかに動かし、彼女の進みたい方向だけを塞ぐ。
彼女の細剣が革鎧を叩く。同時に、アンジェは離脱しようとした。右後方。さらに、その向こうには外周の石段がある。
アンジェは急停止を試みた。《風踏み》の魔力導線が、靴底で青く光る。だが、止まり切れない。後ろ足の踵が石の段差を踏み外す。
「きゃっ――!」
身体がわずかに浮いた。ほんの一瞬。たった半拍。だが、戦場なら人が死ぬには十分な時間だった。
アンジェの重心が浮く。俺は剣を振り上げない。剣で斬る必要はない。
彼女の剣腕を盾で外へ押し、身体を入れる。そして、剣の切っ先を彼女の喉元で止めた。静寂が落ちた。
アンジェは動かなかった。動けば、喉元へ刃が触れる。俺も動かなかった。互いの呼吸だけが、冷たい空気の中で白く揺れる。
「……勝者、ロイド・グレイヴァー」
教官の声が、遅れて訓練場に響いた。




