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《制動環》

「どけぇぇぇぇっ!」

 

 次の瞬間、工房の前を轟音が走り抜けた。金属の車輪が石畳を削る音。そして、何かが砕ける鈍い衝撃。フィンが顔色を変えた。

 

 「魔導荷車だ!」

 

 俺たちは同時に外へ飛び出した。坂の上から、大型の荷車が滑り落ちてくる。

 荷台には木箱が積まれていた。魔力結晶の原石だ。車体後部の制動符が赤く点滅し、火花を散らしている。御者は座席から振り落とされ、石畳の上に転がっていた。荷車は止まらない。

 

 進行方向には、朝市で賑わう広場があった。赤黒い線が、頭の中を走る。正面から荷車を止めれば、俺が潰れる。左へ流せば、市場の露店へ突っ込む。

 

 右の路地なら人は少ない。その先には石工の作業場がある。砂袋が積まれ、道幅が狭い。そこへ入れれば、止まる。ただし、荷車の向きを変えるには力が足りない。

 

 「フィン! 制動環を二つ持って来い!」

 「正気か!? あれはまだ未完成だぞ!」

 「だったら今からデータを取れ!」

 

 フィンは一瞬だけ迷った。だがすぐに工房へ駆け戻った。俺は通りへ飛び出す。

 「左へ寄れ! 壁際だ!」

 

 自分でも驚くほど声が通った。市場の人間たちが振り向く。何が起きたのか分からず、立ち尽くす者もいる。

 

 「荷車は右へ流す! 道の中央を空けろ!」

 

 その言葉に、何人かが動いた。逃げる方向が定まると、人間は速い。女が子供を抱え、男が屋台を押し、商人が荷車を脇へ寄せる。

 

 だが、まだ間に合わない。荷車は石畳を跳ね、速度を増していた。フィンが戻ってくる。両手には、まだ導線も覆いもついていない《制動環》があった。

 

 「使い方を間違えたら、足首が砕けるぞ!」

 「なら、正しい使い方を見せてやる」

 

 俺は片方を左足の脛当てへ押し当てた。革紐を引きちぎるように巻く。もう片方は盾の裏側、腕を通す留め具へ無理やり固定した。フィンが顔をしかめる。

 

 「そんな付け方じゃ、衝撃が逃げない!」

 「言ってる場合か! 緊急事態だ!」

 

 俺は荷車へ向けて全速で走った。足裏へ戦気を流す。膝、腰、肩、盾の縁。必要な場所だけを繋ぐ。

 

 荷車の右前輪が石畳の段差へ乗り上げた。今だ。俺は盾を構え、横から車体へぶつかった。衝撃が腕から肩へ抜ける。重い。体が千切れそうだ。

 

 魔物の突進とは違う。止まらない鉄の塊が、ただ前へ進もうとしている。盾の裏の《制動環》が青く光った。

 

 次の瞬間、俺の左足が石畳へ沈むように固定された。足元から、鈍い衝撃が地面へ逃げる。石畳がひび割れた。膝が軋む。だが、まだ耐えられる。

 

 「右の車輪を落とせ!」

 

 俺は叫んだ。フィンが何を言われたのか理解するより早く、荷車の横へ飛び込んだ。手にした鉄棒を、右側の固定輪へ突き込む。火花が散る。車輪が半分浮いた。

 

 荷車の進路が、わずかに右へ変わる。その瞬間、俺は盾を押し込んだ。《制動環》が悲鳴のような音を立てる。

 

 真鍮の外輪が割れた。だが、荷車は右の路地へ滑り込んだ。進路の先には、石工が積んだ砂袋がある。行け。そこへ突っ込め。俺は最後の力で盾を押し出し、自分だけ横へ転がった。

 

 荷車が砂袋へ激突する。木箱が跳ね、原石の欠片が飛ぶ。だが大きな爆発は起きなかった。小型魔導炉の唸りが止まる。

 

 しばらく、誰も声を出さなかった。俺は石畳の上で仰向けになり、空を見た。若い身体の肺は痛くない。ただ、左足首が熱を持っていた。ゆっくり起き上がる。

 

 フィンが、壊れた《制動環》を拾い上げていた。真鍮の輪は歪み、内側の魔力石は砕けている。

 

 「……壊れた」

 フィンの声は低かった。

 

 「人が死ぬより、部品が壊れる方がいい」

 俺は立ち上がった。足首が少し震える。だが歩ける。

 

 周囲を見回す。市場の人間たちも、石工も、転がった御者も生きていた。荷車の御者が、青い顔で俺たちを見ていた。フィンは壊れた部品を見つめたまま、動かなかった。

 

 「……こいつは、止める部品じゃない」

 俺は言った。

 

 「何だって?」

 「壊れる場所を決める部品だ」

 

 フィンが顔を上げる。

 「全部が壊れる前に、一つだけ壊す。そうすれば、人間は帰れる」

 

 風が、煤の匂いを運んできた。フィンは何も言わなかった。だがその目は、さっきまでの目とは違っていた。売れない部品を見る職人の目ではない。次にどう直すかを考える職人の目だった。

     

     

 夕方。俺とフィンは、冒険者ギルドの端にある書類受付へ来ていた。カウンターの向こうには、エルナがいた。俺を見るなり、彼女は少し驚いた顔をした。

 

 「ロイドさん? お怪我は……」

 「大丈夫だ」

 「その言い方をする人は、あまり大丈夫じゃないことが多いんですけど」

 

 少しだけ困ったような声だった。前の人生のエルナは、こんなふうに言わなかった。言えなくなっていた。俺は一瞬だけ黙り、それから机の上へ書類を置いた。

 

 「共同開発の登録を頼む」

 エルナは目を瞬いた。

 

 「……共同開発、ですか?」

 「俺が資金を出す。この男が作る」

 

 フィンが小さく頭を下げる。

 「フィン・ヴァルク。黄銅工房の工房主です」

 

 エルナは書類と俺たちを交互に見た。

 「出資額は?」

 「銀貨三十枚」

 「三十枚!?」

 

 受付の近くにいた冒険者まで振り向いた。若手の金の使い道なんて女と酒と相場は決まっている。なのに目の前の男は、手に入れたばかりの大金を工房へ突っ込もうとしている。無謀に見えるだろう。だが、俺にとっては違う。これは未来の選択肢を買う話だ。

 

 「条件は書いた」

 

 俺は羊皮紙を差し出した。エルナは目を通す。《制動環》を用いた軽装用制動具の開発。

 工房と特許の所有権はフィンに残す。その代わり、利益の三割を俺が受け取る。

 ただし、工房が商会や貴族へ権利を売却・担保設定する場合、俺とフィン、双方の書面同意を必要とする。

 三年目以降、フィンは元金と利息を支払えば、俺の利益分配権を買い戻せる。エルナは最後の項目で、少しだけ顔を上げた。

 

 「ロイドさん……買い戻しの条件、これでいいんですか? この条件、フィンさんにかなり有利です」

 「そうだな」

 「普通は、逆です」

 

 フィンが横から言った。

 「馬鹿な条件だよ。出資者が儲けるための契約じゃない」

 「儲けるさ。慈善事業をやるつもりはない」

 

 俺は肩をすくめて答えた。

 「だが、お前の工房を奪ってまで儲けるつもりもない」

 

 フィンは何か言いかけて、黙った。エルナは書類を丁寧に読み直し、羽ペンを取った。

 

 「では、売却と担保設定の条件を、もう少し明確にします。後で揉めないように」

 「頼む」

 

 彼女は少しだけ嬉しそうに頷いた。

 

 まだ見習いの受付補佐だ。けれど、書類を扱う時の目は真剣だった。

 誰かの人生を左右する紙だと、分かっている目だった。前の人生で、この能力を誰もまともに評価しなかった。

 

 だから今度は、最初から使う。人を守るのは、剣だけじゃない。契約書も、使い方次第では盾になる。

 

 フィンが署名する。俺も署名する。最後にエルナが、登録印を押した。

 小さな音が、紙の上に響く。それだけだった。だが、その音は不思議と大きく聞こえた。

 前の人生では、俺はいつも誰かが決めた依頼票に名前を書いていた。危険度も、報酬も、撤退条件も、他人が決めた紙に。

 

 今度は違う。自分で、条件を書く。自分で、残す。自分で、未来へ金を出す。

 

 ギルドを出る時、フィンが小さな布包みを俺へ渡した。受け取ると中には、親指ほどの真鍮部品が入っていた。薄い輪と、小さな魔力石。壊れた《制動環》の破片を使って作ったらしい。

 

 「冒険者用の試作零号だ」

 「もう作ったのか」

 「データが取れたからね」

 フィンはぶっきらぼうに言った。

 

 「靴底に付けて、止まる時だけ踏み込むんだ。全力で使えばすぐに壊れる」

 「壊れたら?」

 「持って来て。次はもっと壊れにくくする」

 

 俺は部品を見つめた。靴底に仕込む、小さな真鍮の輪。剣でもない。鎧でもない。敵を倒す道具ですらない。

 

 けれど数年後、この小さな部品は、速く走る冒険者たちの足元で命を繋ぐことになる。俺は工房街へ続く夕暮れの道を歩き出した。銀貨三十枚はなくなった。だが、失った気はしなかった。むしろ初めて、金が未来へ変わった気がした。

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