黄銅工房
拠点としている安宿の小さな机で、俺は硬貨を並べていた。
六十枚。それまで持っていた七枚を足せば、手元には銀貨六十三枚ある。
光を受けた銀貨が、薄汚れた机の上で鈍く光っていた。数え直す必要はない。昨日、何度も数えた。寝る前にも。夜中に目が覚めてからも。
前の人生なら、これだけの金は大金だった。鎧の継ぎ当てを直せる。剣を研ぎに出せる。薬を買える。しばらくは、宿代に怯えずに済む。
だが、それだけだ。自分の身体を少し長く使えるようにして、また危険な依頼を受ける。怪我をして、治療費を払い、装備を直し、金が尽きる。
そしてまた、次の依頼へ行く。そうして十四年後、俺はCランクのまま死んだ。
「……同じ使い方はしない」
俺は銀貨を三つの革袋に分けた。
一つ目に三十枚。生活費と装備の修繕費。ここは絶対に削れない。どれだけ未来を知っていても、腹が減れば判断は鈍る。剣が折れれば、次の当たり依頼にも行けない。
二つ目に三枚。手持ちの予備だ。宿代、食費、急な薬代。二度目の人生とはいえ、自分が知らない事故は、これからいくらでも起こりうる。
そして最後の袋に、銀貨三十枚を入れた。口を紐で固く縛る。その重さを手のひらで確かめながら、俺は目を閉じた。
軍事革命。まだ誰も、そんな言葉は使っていない。だが今から五年もすれば、冒険者の戦い方が変わり始める。
重装前衛が敵の前に立ち、後衛が後ろから撃つ。傷ついても耐え、治療師が戻し、また次の波を受ける。そんな戦い方は、少しずつ効率が悪いものとして扱われるようになる。
速く動ける者。攻撃を受けない者。短時間で敵を倒し、治療費も補給費も使わずに帰る者。そういう連中が、依頼を奪っていく。
前の人生の俺は、その変化を恨んだ。だが、恨んでも鎧は軽くならなかったし、失った時間も戻らなかった。
なら今度は、変化が来る前に動く。俺自身が速くなる必要はない。速い奴が必要とするものを先に作ればいい。
俺は外套を羽織り、銀貨三十枚の袋を懐へしまった。向かう先は、南の工房街だった。
南区画は、朝から鉄と油の匂いが濃かった。鍛冶屋の槌音。革を裁つ刃の音。魔導炉の送風管から漏れる蒸気。荷車を引く馬のいななき。
大通り沿いの店は、どこも景気がよさそうに見える。剣を並べる武具店。軽鎧を飾る革工房。魔導灯や浄水器を売る商店。
だが俺が探しているのは、そういう場所じゃない。表通りを外れ、狭い路地へ入る。
壁際には折れた槍、欠けた盾、壊れた荷車の車輪が積まれていた。修理屋と廃材商が集まる区画だ。新品を売る者より、壊れた物を直して食う者が多い。
その一番奥に、傾いた看板があった。黄銅で作られた鴉の意匠。羽の片方が欠け、看板は半分ほど煤で黒くなっている。
《黄銅工房》。間違いない。前の人生で、この工房の名を知ったのはずっと後だった。
高機動冒険者向けの魔導靴が流行り始めた頃。加速用の術式を組み込んだ軽靴が発売され、若い冒険者たちは競うように買った。
だが、最初の型は欠陥だらけだった。速く踏み込める。速く跳べる。そこまではいい。問題は制御が難しかったことだ。
壁へ突っ込んで骨を折る。衝撃で足首を壊す。狭い洞窟で曲がり切れず、魔物の群れへ飛び込む。
その後、急停止と着地を補助する部品が登場した。魔導靴の底に入った、小さな制動環。
衝撃を逃がし、踏み込みを殺し、足裏から地面へ力を逃がす小さな環。後に《錨踏み》と呼ばれることになる制動機構。
その原型を作ったのが、この工房だった。だが、その時にはもう遅かった。
工房主は借金で権利を手放した。大商会が特許を買い、別の名前で量産した。開発者の名前は、どこにも残らなかった。
俺は軋む扉を押した。中からは、何かを削る細い音だけが聞こえる。
工房の中は薄暗かった。壁際には分解された魔導荷車の部品。棚には用途不明の真鍮片。作業台の上には、数え切れないほどの魔力石の欠片と、細い導線が積み上がっている。
値札は一つもない。代わりに壁一面へ、計算式と設計図が貼られていた。
床に落ちた帳簿には、材料費の数字より大きく、意味の分からない魔導式が書かれている。
作業台の下から、足だけが見えた。細身の男が仰向けになり、魔導炉の下へ潜り込んでいるらしい。
「修理なら、そこに置いといて」
若い声だった。
「出資の話をしたい」
作業台の下から、鈍い音がした。頭をぶつけたらしい。
「痛っ……出資? この工房に?」
男がゆっくり這い出してきた。二十代前半。背は高いが細い。黒髪は伸び放題で、前髪の一部が焦げている。頬と鼻先には煤がつき、片手には細い導線、もう片方には真鍮の輪を持っていた。眠そうな目で俺を見る。
この男がフィン・ヴァルクか。前の人生で名前を聞いた時には、すでに工房を手放した後だった。
「ええと……僕はフィン。見たところ退役兵の人かい?」
数秒、沈黙が落ちる。フィンは俺をじっと見た。Eランクの冒険者証。古い外套。腰の剣。安物の盾。とても出資者には見えないだろう。
「そうだ、俺はロイド。戦争帰りだ。銀貨が三十枚ある」
袋から銀貨を取り出して、机に並べた。フィンの眉が動いた。
「誰かに聞いたのか? 僕が金に困ってるとか」
「困ってるんじゃないのか」
「困ってない」
即答だった。その直後、机の端に積まれた未払い通知が床へ落ちた。フィンは黙って拾い上げ、裏返して作業台の下へ押し込んだ。
「……少し、材料屋に待ってもらってるだけだ」
「食費は? ちゃんと食べてるのか?」
「先週、近所の鍛冶屋がくれたパンがまだある。カビが生えてるけどね」
「それを困ってると言う」
「そうなのか?」
本気で分かっていない顔だった。俺はため息を飲み込んだ。フィンは視線を逸らし、手にしていた工具を作業台へ置いた。
「出資の話だったね。うちで作ってる製品のことは知ってるの?」
「制動環を見せてくれ」
俺は作業台の上の真鍮の輪を指さした。フィンの顔から、眠気が消えた。
「……何だって?」
「荷車の制動具として作っているんだろ。衝撃を地面へ逃がすための魔導環だ」
俺は作業台の上に置かれた、二重の金属輪を指さした。
外側は真鍮。内側には青白い魔力石の粉が埋め込まれ、細い導線が幾重にも走っている。前の人生では、俺はそれを魔導靴の中で見た。今はまだ、ただの試作品だ。フィンはゆっくり立ち上がった。
「正確には、運動量を地面へ逃がす補助環だ。止めるだけじゃない。荷台の積荷を前へ飛ばさない。車輪が横滑りした時に、軸の負荷を分散する。ほら、ここに魔力を通して――」
フィンは止まらなかった。真鍮環を持ち上げ、導線の流れを指でなぞり、魔力の逃がし方を説明し始める。さっきまで眠そうだった目が、今は子供みたいに明るい。
だが、やがて小さく息を吐き、作業台の上の輪を持ち上げた。
「あと少し微調整をすれば完成する。荷車の車輪に組み込めば、制動時の衝撃を地面に逃がせる。急停止しても積荷を前に吹っ飛ばさない」
「だが、受注がない。そうだろ」
「売れないね」
即答だった。
「荷車を使う商会は、納期が命だ。制動具を買うより、移動速度を速くした方がいい」
その言い方には、怒りより疲労があった。
「冒険者向けに転用する気はないか?」
「馬鹿言わないでくれ。これは止まるための部品だ。そもそも冒険者が欲しがるのは加速具だろ。速く走れる靴。高く跳べる靴。敵を置き去りにする靴さ」
「逆だ。だから売れるんだ」
フィンは眉をひそめた。
「どうして」
「速く走る靴が売れたら、次に必要になるのは何だと思う? 止まれる靴だ。加速具だけなら、誰でも思いつく。だが止まるための制動環は、重心と衝撃を計算して、それを設計に落とし込まなきゃいけない。誰にでも作れるものじゃない」
俺は制動環を見た。
「戦場では速い奴ほど、止まれずに死ぬ。だから必要なんだ」
その瞬間、フィンの表情が変わった。職人の顔だった。俺の言葉を理解したわけじゃない。だが、部品が使われる場面を、初めて具体的に想像した顔だった。
「……冒険者が止まれずに死ぬ? せいぜい壁にぶつかる程度じゃないのか」
「壁ならまだいいさ。最悪の場合は敵の間合いに飛び込む」
一度目の人生で見た光景が、頭をよぎる。加速靴を履いた若い剣士が、急停止できずに魔物の顎へ飛び込んだ。
逃げ遅れた仲間を助けようとした女が、跳躍の着地で膝を壊した。速く動ける者は、誰よりも早く死地へ届いてしまう。
「……だから、帰るための装備がいる」
フィンは言葉を返さなかった。その時、外から悲鳴が聞こえた。




