第二幕第三場
二〇二八年六月 ヒューストン
二〇二七年八月九日。核ミサイルが福岡で炸裂した。市街地一帯は「死の街」になった。
事実の説明なんてのは、こんなふうにたった一行で済ませられる。
でも、この一行に、どれだけの物語が付随してくるのだろう。
目覚めたとき、〝アリス〟は何も憶えていなかった。脛から下の脚も消えていた。喉が焼けていて声も出せなかった。母語だったという日本語すらままならないほど言葉も出てこなかった。顔も躰も包帯だらけで、面倒をみてくれていたOSSエージェントの看護師――〝ロザリンド〟曰く、「顔も脚もそれはそれはぐっちゃぐっちゃだったのよぉ?」とのことだった。普通に言葉を発し、義足で満足に歩けるようになるまで一年近くかかった。教官や各国に派遣されたエージェントと会話を重ね、だんだんとアリスは〝アリス〟を取り戻していった。
アリスは民間諜報機関OSSに属するエージェントだった。大学でスカウトされ、米国に渡り、OSSで訓練を受けた。親にはただの留学と偽っていたようだ。
しかしちょうど日本に帰国していたとき、人類の叡智が爆ぜる音を間近で聞いてしまった。皮肉なことだが、OSSに属していなければ、救出も遅れ、最先端の治療も受けられなかっただろう。家族の遺品は放射性物質により汚染され、消し炭を免れたものも、ほぼ廃棄せざるを得なかったが、クラウドサービス上には幼い頃からの写真と動画、メールやメッセージのトーク履歴が保存されていた。パスワードはすべてOSSが解除してくれた。
高校生の頃から他愛ないことを書き綴っていたという日記アプリや、過去の自分が趣味で書いていたという小説を読んだ。いつか物書きになるのが密かな夢だったそうだが、それを身内くらいにしか語っていなかったようだ。友人や家族との会話を遡っていく。ペンパッドを使って書いていたと思われる大学の講義記録や、心に残った本の感想も多数見つけた。大学生活で彼女が思っていたこと、感じていたこと、心象風景がよくわかった。
OSSが「暇なら修士号でも取っておけ」というので、リハビリの傍らオンラインか車椅子で大学院にも通ったが、その間も色々な国の文学を読み漁った。
それは間違いなく、あの頃の自分の、救い、となった。
病室のベッドで本を読んでいたとき、OSSのエージェントで医師の〝ホレイショー〟が個室に入ってきた。彼らエージェントはアリスに合わせてか、彼女の母語を選んで話してくれていた。
「ハイ、アリス。髪が伸びましたね。僕で良ければ切って差し上げましょうか?」
「切れるんですか?」
「刃物の扱いには慣れているので」
理容師が使うような上等な鋏を白衣に隠れていたシザーケースから取り出し、シャキシャキ言わせながら外科医がニコリと微笑む。まるでマッドサイエンティストだ。瀉血でもされるんじゃないか。アリスはその微笑におそれを感じ、背すじをぞくりと震わせた。「差し上げましょうか」という日本語は未だよくわからないが、鋏も既に用意しているところを見ると、それはもう決定事項なのだろうとアリスは思った。「お、お願いします」とアリスがコクコク頷く。
「何を読んでいたんです?」
ベッドから椅子に移動したアリスにすっぽりとケープを被せ、彼女の髪を器用に切りながら、ホレイショーがアリスに尋ねる。ぼうっとしていた意識を戻して「え?」とアリスは咄嗟に訊き返した。ホレイショーの視線がベッドテーブルに置いてあった本のほうに動く。
「あ、えっと、『フランケンシュタイン』、です」
「メアリー・シェリーの? ……まあ、こんな嵐の日に読むには打ってつけでしょうがねえ」
窓の外に視線を移しながらホレイショーが呟く。「嵐?」とアリスが反復した瞬間、カッと外が明るくなり、すぐさま地響きのような轟が空気の層を伝ってきた。晴れていたのが嘘みたいに思えるほど、一気に視界が暗くなり、滝のような雨が窓ガラスを容赦なく叩きつけていった。本当に驚いたときは、声も出ない。全身を駆け抜けていった悪寒がだんだん治まるのを感じつつ、「……スコールが来ること、知ってたんですか?」とホレイショーに尋ねると、彼はただ「いいえ?」と笑い、何事もなかったかのように視線を手元に戻した。
「Frankenstein; or, The Modern Prometheus――ハリウッド映画で、カーロフの演ずる怪物の印象が強すぎたせいか、フランケンシュタイン、というのは博士の姓であることを、多くの者は忘れているようですね」
「化け物には初めから、名前などないのに」何の憂いも含めず、周知の事実を確認するようにホレイショーが言った。アリスは学部生の頃の自分もそのうちの一人だったことを思い出した。英文学の授業では、「人間の根源的な反応――恐怖」というユニットのキーテクストとして扱われていた。
「Why did you form a monster so hideous that even YOU turned from me in disgust?《おまえすらも嫌悪に目をそむけるようなひどい怪物を、なぜつくりあげたのだ?》[1]などといった、アダムに依拠した怪物の嘆きが有名でしょうか。それにしても、廿の女性が書いたものとは到底思えませんよね」
「どの場面を読んでいたところでした?」ホレイショーが尋ねる。アリスは今しがた投げられた問いに対する答えを胸中に描いた。「確か、I persuaded myself that I was dreaming until night should come, and that I should then enjoy reality in the arms of my dearest friends.《夜が来るまで自分は夢を見ているのだ、夜が来れば、愛する人たちの腕に抱かれて現実を目にすることができるのだ、そう自分に言い聞かせたものです。》[2]ってところだったかと」とこぼして、読んでいたときにこのセンテンスが頭から離れてくれなかったことを同時に思い出す。
「おや。もう最後の局面ですか」
創造主が被造物に追い込まれていく様は滑稽でしたね、とホレイショーの少し抑えたような声が脳に届く。彼は今でも、笑っているのだろうな、とアリスは背後に立つ者の表情を思い浮かべながら「……神への挑戦、ですか」と独り言のように呟いた。
「科学的な情熱や真実への探求というものは、果たして本当に人類の役に立つのか、というテーゼが込められているように感じた覚えがあります。すべてをわかりたい、という知的好奇心は時に身を亡ぼすものだな、と」
パンドラの箱を開けた者の末路ですよ、と言って、ホレイショーが息をつく。そのとき、小さく身を縮めたアリスに気づいたのか、「あなたが怯える話ではありませんよ」と声を和らげ、彼女の髪にそっと指を絡めた。
「十八世紀に台頭してきた科学への批判、分身、子どもへの義務の放棄、また、子どもに殺される恐怖、性への不安、母の不在、などといったテーマを読み取れますが、僕が気になったのは、creature《化け物》にemotion《感情》が生まれたのはいつだったのか、という根本的な疑問でしょうか」
感情がなければ、伴侶を欲しがることもなかったでしょうに。とホレイショーが肩を竦めながら言っているのが、アリスには見なくともわかった。
「怪物が自身に伴侶を求めたのは、自分を愛してはくれない創造主の代用としての伴侶であり、暴力で人を傷つけていくのも、ヴィクターが表に出せない裏の部分なのではないか。……つまり彼らは二つで一つの分身である、といった見方もあるようですね」
ホレイショーがアリスの髪に絡めていた指を外し、彼女の髪が空気の中を音もなく跳ねた。
『フランケンシュタイン』は三重の入れ子構造から成った作品だ。北極探検隊の隊長、ウォルトンが姉に向けて書いた手紙の中で、ヴィクター・フランケンシュタイン博士の回想があり、その回想の中に怪物の告白が含まれる。
「creation《創造》を題材にしたのは、メアリーの置かれた境遇に因るものだとも思います。母親が自分を産んだことで死に、自身も十八という若さで難産を経験した。そしてその娘もすぐに死亡した――。産まれてくるものが自分を殺すのではないか、という恐怖。女がいなくても、生命が生まれるといい、という無意識の願望がヴィクターの野望に結びついたんでしょうね」
〈性〉がなくても生命は作れるのではないか。イタリア人医師のルイージ・ガルヴァーニが発見した動物電気の話を、夫がその友人と話しているのを耳にして、メアリーはこの話の着想を得た。カエルの脚が金属に触れて痙攣を起こす、という生体の電気現象研究は、十八世紀から十九世紀にかけてのトレンドだったといわれている。金属をカエルの脊髄や神経細胞に当てた結果、それの動く姿が人間の創造を予感させるものとして捉えられた。神に代わって生命を誕生させるには、雷――電気が必要である、として、作者の想像力の引き金となった。まだ錬金術や魔術、科学との境界が曖昧であった時代。ヴィクターの魔術師的な科学者像は、魔術師的な要素を色濃く残していた十八世紀における自然哲学者の戯画的側面があると示唆されている。
アリスは唐突に、カエルと結婚したと噂された大学教授を思い出した。
「言葉、知識を学ぶ善し悪しも言及されていますよね。言葉を知らなければ、……『失楽園』を読まなければ、怪物がLuciferに憧れることもなかったでしょう」
ホレイショーの嘆息には、不思議と怪物を慮るような響きが含まれているようにアリスは思えた。罪なき者を何人も殺めた怪物に共感を覚えるようになったのは現代人の特徴だ、といわれている。特に先ほどホレイショーが引用した「棄てるならばなぜ作ったのだ」という怪物の嘆きに対して安易に共鳴する現代人は多い。だが弱者に共感するのは至極現代的な考えで、一見悪者に見える者が本当に悪いかどうか考えてみる、という構造主義的な物の見方が発展してきたのはここ半世紀のことである、と二十一世紀に生きる者は口を揃えている。フィクションだから同情する。フィクションだとわかっているから同情できるのだ、と。しかし、苦悩する自分に酔った博士を突き放す視点をもっていたのが、それより二百年ほど前に生きた二十歳のメアリー・シェリーだった。
「Better thou
Hadst not been born……《貴様など生れて来ぬほうがましだったのだ》[3]」
アリスが足元に視線を落として、ぽつりと呟く。
「言われたことがあるんです。……母親に」
その後の言葉を待つように、ホレイショーは手の動きを止めたまま、何も言わなかった。
「あんたなんか、産まなきゃよかった、って」
日記にも、書かれていて。高校生の頃だったかな、とアリスは自身のあやふやな記憶を辿りながら、笑みをこぼした。
「なぜそこまで彼女を怒らせてしまったのかさえも憶えていないくらいですから。別に大したことじゃないんですけど。……彼女も母親として生きた年数は、子どもの年齢と同じなんだってこと、あの頃の私は、わかって、なかったんでしょう」
親も、一人の未熟な人間である、と理解できたのは、おそらく大学に入ってからだった。
「何で私だけ、生きてるんだろうって。生き残ったんだろうって」
「この一年の間で、笑えなくなったことも、ありました」事実に対して明るい調子で、ふふとアリスは笑った。過去の日記に綴られていたのは、親を騙して、エージェントとして生きる路を選んだことへの〈後悔〉だった。
「人は、なぜ、笑うんでしょう。人は、なぜ泣くんでしょう。……誰かのために、生きるんですか? それとも、自分のために、生きるんですか?」
馬鹿なことを訊いているな、とアリスは思った。それでもホレイショーは、誠実に答えてくれるような気がした。誠実、というよりは、何を馬鹿なことを、と一蹴したりせず、考えてくれるというか。「難しいですね」とホレイショーが再び手を動かしながら言った。
「そういった疑問を我々読者に投げかけ、思考するよう仕向けるのが物語ではありますが」
「……リアの言葉を借りるならば」と呟いて、ホレイショーがアリスの前に回った。前髪も切り揃えてくれるのか、髪に櫛を通され、自然に瞼を閉じる。
「When we are born, we cry that we are come
To this great stage of fools.」
刃が交差する音と、ときどき触れる指の温度と、世界は劇場、という国王一座の基本理念とが、すべてごちゃ混ぜになって、心の奥底に流れ込んでいく。
「人が産まれてくるとき、必ず泣くのは、この愚か者どもの生きる舞台に引き出されたことが、悲しいからだ、と」
ホレイショーは、そんなふうにこの台詞を訳すんだな、とぼんやり思いながら、アリスはケープの下で、自身の手を握りしめた。
「怪物はまだマシだと僕は思います。泣き方を知っているんですから。彼が愚かだったのは、孤独に負けて、自身にイヴを求めたことです。そして博士が愚かだったのは、自分がプロメテウスのように人間を創りえると過信したこと」
彼らの最期は最初から予測できました、と作業の延長線を縫うように、刃についた髪の毛をさっと掃いながらホレイショーが言った。
目をゆっくりと開けたとき、視界が滲んでいなくて、よかったと、アリスは思った。
「ホレイショーは、……泣き方を、忘れたんですか?」
唇を結んで、彼を見上げる。一瞬だけ、彼の瞳が空に留まった。しかしすぐに目を閉じ、困ったように、ふっとホレイショーが笑う。
「――あなたは、どうですか?」
切り終えたのか、鋏をケースに戻し、ホレイショーがアリスを覆っていたケープを取り払う。こぼれおちていく自身の髪の毛を見ながら、アリスは「……わからないんです」と呟いた。それは、声になるか、ならないかくらいの、掠れた音だった。
「わからないん、です」
膝の上で服の布を握りしめ、皺ができていくのを眉根を寄せて眺める。「そうですね」とホレイショーがケープを軽く畳んで、傍に置いてあった手鏡をアリスに手渡した。
「この世界に産み落とされたからには、せいぜい、足搔いていきたいと、僕は思っていますが」
鏡の前で笑ってみせると、今までの自分が、塗り替えられていくような感覚に陥ってしまう。けれど今は、少し見慣れない、また違った誰かの顔を見ているのではないかという錯覚に、目が眩んだような心地がした。
「アリス」
前を向いて、とでも言うように、ホレイショーがアリスの頬に手を当てて、彼女の顔を上に向かせた。
「その理由を探すのもまた一興ですよ」
「あなた自身の、答えを」手をゆっくり離しながらホレイショーが微笑む。彼の手は、鋭利な刃を思わせるほど冷たいものではなく、かといって子どものように温かいものでもなかった。けれど、今までで一番、彼らしくない、と思わせる感情が込められているように感じた。
「晴れてきましたね」
ふとホレイショーが窓の外に視線を向ける。いつの間にか、雨は上がっていた。
窓に切り取られた空は、晴れ晴れとした色をしていた。
彼も自身が笑う理由を、見つけるのだろうか、とアリスは思った。
[1] メアリー・シェリー、小林章夫訳(二〇一〇年)『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』、光文社、一五章
[2] 同上、二四章
[3] シェイクスピア、福田恆存訳(一九六七年)『リア王』、新潮文庫、第一幕第一場




