第二幕第二場
二〇三一年五月 永田町
「それで、恋活デスマッチはどうだった?」
星陵会館四階のレストランまで先輩とランチに出かける。ピノコのお気に入りの店の一つだった。一人二、三千円ほどで白ワインも赤ワインも飲み放題、美味しい料理がずらっと並ぶランチビュッフェは都内でもここくらいしかないんじゃなかろうか。先輩もピノコも万全の態勢で臨むため、今日は十三時から一時間休をもらっている。時間休が取りやすい職場である点だけは胸を張ってオススメできる。
「プロレスみたいに言わんでください」
「マッチング? っていうのはできたんでしょう?」
「はあ。まあ。何人かとはおミアってきましたが……」
ぐい、とピノコが白ワインを呷った。
「正直に申し上げますと、昔おかんと行った水族館のほうがめちゃくちゃ楽しかったんです」
「それは……ご愁傷様DEATH」
学生の頃、池袋の水族館で「空飛ぶペンギン」を親と観たときのように、思わず日記に書き留めたくなるような、心がぴょんぴょんするような出来事は皆無だったということだ。
「でも三人目の方は……」
ピノコはもぐもぐと口を動かしながら、目の前に座る先輩の顔をじっと見つめた。「ん?」と既にワインで少し顔を赤らめた彼が小首を傾げる。
「なんかちょっと、雰囲気が先輩に似てるかもです」
「それは、やめたほうがいいんじゃない?」
碌な男じゃないですよ。と先輩が即答する。「何を仰いますか。イイ男ってことですよ」とピノコが唇を窄めながら言った。
「でも、ピンとは来なかったんでしょう?」
「……なんか、胡散くさくて」
「ほらやっぱり」
先輩が「言った通りじゃないですか」とでも言うように口の端を上げて笑った。
「また次の休日に会うことにはなったんですが、こんなに私好みで完璧なハイスぺ男子、物語の世界以外でいないと思うんです。話も非常に合ってですね。今まで読んできた本とかも全部通じて。家の本棚を見透かされてるかと思いました。所作もスマートでめちゃくちゃかっこよかったんですよ! ええもう私なんぞにもったいないくらいです。SSS級の男子です。ウルトラ・マンです」
「知ってる? 円谷英二は本土決戦への執着からウルトラマンを、」
「今そんな話をしているのではなくてですね」
「すみません」
微塵も悪いとは思っていない様子で先輩がくつくつと笑い、赤ワインを口に含む。
先輩は変わっている人だ。とピノコは思う。だが同時にとても面白いとも思う。「俺のこと面白いなんて言う人が、変わってるんだよ」と先輩は逆説的なことを前に言っていたが。
「……先輩って、以前好きだった方にフラれて以降、もはやその〈余韻〉で人生を生きていると仰っていましたよね」
「はい」
とんでもないひとだな。
きちんとその言葉は呑み込んで、ピノコが「ふふふ」と笑う。男の恋愛は「名前を付けて保存」、女の恋愛は「上書き保存」というのは、ピノコが周囲にインタビューしている限り、妥当なのだろうとの結論に至った。
「ちゃんと今は、奥様のこと愛していますか」
「愛してるよ。ほどほどに」
ピノコの無礼とも思える質問を気にも留めない様子で、先輩がニコッと爽やかに笑った。
「まあ、恋愛してるときの人間って猿脳だからね。結婚なんて狂ってないとできないよ」
「全既婚者を敵に回すようなこと仰いますね」
「既婚者は逆にわかってくれるんじゃないかな? 女性がどうかは知らんけども」
先輩は時折、ピノコの前では方言と共通語と敬語がごっちゃになる。彼女の目にはそれが、彼の人格のゆらぎ、に見えなくもなかった。
「男はね、ひと目でわかるんだよ。目の前にいるひとが恋愛対象かそうでないかなんて。だんだん好きになるなんて段階踏むようなことはないと思ってます」
「それは偏見では?」
「もちろんn=1の意見として聞いてください。……ピノコさんも東下りされた身なのでわかるかとは思いますが」
先輩は、グラスに残ったワインをゆらりと揺らし、その赤い液体を眺めながら言った。
「俺たちの故郷は、喪失したから」
追憶。懐古。遠い日の思い出。nostalgie――もう戻れない日々。
先輩の一言を脳が処理していると、そんな言葉がピノコの頭をよぎった。
「……そうですね。ぽっかりと胸に穴があいたような心地です。もうずっと」
先輩の故郷は壱岐の島だ。開戦後、壱岐と対馬は、かの元寇のように侵略を受け、今もまだその傷跡が島全体に色濃く残っている。そしてピノコの故郷、福岡は、米国の〈誤射〉により、街が一瞬で灰燼に帰した。
あの地が八月九日に、米国の核の犠牲となったのは、三度目の正直、というやつだったのか。
「この世界は夢ですか? それとも現実ですか?」
「残念ながら、現実だよ。俺たちにとってはね」
「物語であれば、といつも思うんです」
先輩は「フラれた」としかピノコに語らないが、おそらくその人は既に、この世にはいないのではないかと彼女は感じていた。あの日の〈犠牲者〉は、そして生き残った者たちは、あまりにも多くのことを奪われて、もはや感覚が麻痺しているのかもしれない。
「『鏡の国のアリス』のように、赤の王様が、この夢をみるのをやめたら、この存在も蝋燭の火みたいに、須臾にして消え去ったらいいのに、と時折思います」
先輩が持つ赤ワインの液面を眺めながら、ピノコが呟いた。
「でも、たとえ目が覚めたとしても、帰る場所なんて、疾うに、どこにもないんです」
夢だといいと思った。夢であればよかった。夢であってほしかった。
何度、そう願っただろうか。
「——Now, here, you see, it takes all the running you can do, to keep in the same place.《ここではね、同じ場所にとどまるためには、思いっきり走らなければならないの。》[1]」
「はは。そうですね」
有名な赤の女王の台詞を述べて、先輩がグラスを掲げてみせる。
ピノコは白ワインの入ったグラスを持ち、チンと当ててそれに応えた。
「せいぜい、この脚で。足搔いて、足搔いて、足搔き続けることにします」
[1] ルイス・キャロル、河合祥一郎訳(二〇一〇年)『鏡の国のアリス』、角川文庫、第2章「しゃべる花々のお庭」




