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第二幕第四場





 二〇二五年三月 デュッセルドルフ


 借りていた本を返しに書庫兼物置部屋の扉を開けた桜の目に、本棚の前で脚立に座ったまま本を読む紅葉の姿が飛び込んできた。おもむろに本から顔を上げ、硬直する彼女に紅葉が視線を投げかける。


「――やあ」


 幼い子どもに対して微笑みかけるように返された挨拶を受け、思わず首を竦める。

 桜は、紅葉を好きではなかった。第一に、この男はOSSの中でも特に信用できないというのがあるからだ。そしてそう思われているのは桜も同様だった。眼鏡越しの瞳と、その笑顔の裏に懐疑と蔑視が潜んでいるのではないかと詮索してしまうのは、ただの杞憂じゃないと思いたかった。


「……何を、読んでいるの?」


 迅速丁寧に本を棚に戻したあとで、ふと隣に目線を上げて尋ねてみる。この沈黙に耐えられなかった、というのもあるが、彼がここで何を読んでいるのかという純粋な好奇心から生じた問いでもあった。紅葉が片眉を少し上げ、ちょいちょい、と言うふうに小さく手招きをする。促されるままに脚立の近くまで歩を進め、それを押さえながら一段だけ足を掛けた。彼との距離が狭まり、本と、煙草の匂いが脳に届く。紅葉から無言で、彼の持っていた本の、ある見開きページを目の前に差し出され、桜は首を傾げた。


(これ、は)

「……古英語?」

「正解」


 ページを覗き込んで文字の連なりを目で追っていた桜に、紅葉が笑いかける。


「——Ēac(エーアク) swelċe(スウェルチェ) sēo(セーオ) nǣdre(ナードレ) wæs(ワース) ġēappre(ィエアプレ) þonne(ソンネ) ealle(エアレ) þā(サー) ōðre(オーゾレ) nīetenu(ニーエテヌ) þe() God(ゴッド) ġeworhte(ィエウォルㇷテ) ofer(オーヴェル) eorðan(エオルザン)……《さてヤㇵウェ神がお造りになった野の獣の中で蛇が一番狡猾であった。》[1]」


 桜が古英語で書かれた旧約聖書の一節を読んでいく。するとヒュウという短い口笛がすぐそばで聞こえた。


「へえ。読めるんだ」

「一応、習ったから……」

「ふーん」


 さして興味もなさそうに紅葉が返事をして、新たにぺージを捲り始める。読める理由なんて別に言う必要もなかったな、と桜は思った。


「じゃあ、次はこの節」


 今度は違うぺージを見せられ、少しだけ怪訝に思いつつ、彼が指し示す行に目を向ける。しかし、その意味を瞬時に理解し、桜は息を呑んだ。カラカラに感じる口内を無意識に潤そうと唾が咽頭を伝う。


「……On(オン) swāte(スワーテ) þīnes(スィーネス) andwlitan(アンドウリタン) þū(スー) brȳcst(ブリークスト) þīnes(スィーネス) hlāfes(フラーフェス), (オズ) þæt(サット) þū(スー) ġewende(ィエウェンデ) (トー) eorðan(エオルザン), of(オフ) þǣre(サーレ) þe() þū(スー) ġenumen(ィエヌメン) wǣre(ワーレ), for(フォル) þām(サーム) þe() þū(スー) eart(エアルト) dūst(ドゥ―スト) and(アンド) (トー) dūste(ドゥーステ) wierþst(ウィエルㇲスト).……」

「訳は?」

「……お前は顔に汗を搔き、パンを食べる、……お前が取られたという、土に還る日まで。なぜなら、お前は土であり、土へと……戻っていくのだから……」

「――うん。及第点かな。柩の前でよく牧師がたらたらと述べる文言だね」


 何でもないことを述べるように紅葉が言った。


「君は、藤が棺桶に入った姿まで見たんだろう?」


 紙面から顔を上げ、眼鏡の奥でにこやかに細められた瞳と目を合わせる。背すじに悪寒が走り、何か言おうと口を開いたけれど、結局何も言葉として成り立ってはくれなかった。


「別に責めているわけじゃないよ。パンドラ」


 くすくすと笑って、紅葉の肩が小刻みに震える。その言葉の意味を、どこか遠いところで桜は考えていた。


「聖公会の祈祷書が最も有名だろうか。——we therefore commit his body to the ground; earth to earth, ashes to ashes, dust to dust……」


「今その(かばね)を地に委ね、土を土に、灰を灰に、塵を塵に――」流れるように淡々と紅葉が言葉の雨を降らせていく。沈黙の図書室は、まるで自分にとっては告解の部屋のように思えた。同時に桜は驚いてもいた。なぜ、紅葉は語ることを自らに許しているのだろうか。彼と二人きりになったのは今が初めてのことで、彼に声をかけられたのも今までにないことだった。


「俗説は諸々あるが、知恵の木の実たるイチジクを食べたアダムとイヴは楽園(エデン)を追放される。アダムには労苦を、イヴには産みの苦しみを与えてね」


 今日まで延々と続くミソジニーの淵源とされる創世記。悪魔(サタン)の化身とされる蛇に騙されたイヴは禁じられた木の実を食べ、それをアダムにも分け与える。その瞬間、人類は善悪の二項対立が世界に在ることを知り、そこから文化というものが始まったともいわれている。また、ギリシャ神話に登場するパンドラも時にイヴと同一視されるが、二つの話に共通しているのは、最初に罪を犯したのは女、だということだ。


「紅葉は、イヴのこと……、どう思う?」


 彼は少し驚いたように目を見開いて桜を見た。そして視線を本に移したあと、何もない(くう)に留める。


「――彼女は、可哀想な(ひと)だと思う」


 ぽつり、と彼の口から言葉がこぼれた。か細いとか、小さいとか、そういった類の形容詞で表されるようなものじゃない。その呟きは、ただ彼の思うことを、そのまま口に出した、飾りないものだった。


「イヴは、いわば己が知識欲のために、木の実を手に取った。そして彼女は、アダムの肋骨から創られた、彼の分身だ。わざわざ人間が堕落したとする責任をイヴに転嫁する話でもない。彼女の罪は、彼の罪だ。〈女〉の罪ではない」


 ふうと息をついて、紅葉が持っていた本の表紙をパタンと閉じる。


「加えて、彼女の息子たちは殺し合い、一人は死に、一人は永久に彼の地へ追放される」


「母親にとって、これ以上の哀しみがあるだろうか」眉根を寄せながら、彼が静かに本を棚へ戻した。その背表紙にはGenesisと刻印されていた。

 桜は音もなく床に足を付け、脚立から離れた。脚立からトンッと降りた紅葉と向き合う。


「なんてさ。イヴを擁護する気も更々ないけどね」


 スラックスのポケットに手を突っ込み、紅葉がフッと鼻で笑った。 


「生まれながらにして罪がある? まったく、人間も面倒なことを考える生き物だ。……だが、ここは月でもないから、そういった考えは何も西洋に限った話ではないのかもしれない」


「ねえ、お姫様」すれ違いざま、桜の肩をポンと叩いて、紅葉が扉の前で振り返る。


「本ばかり読んでいても、月への帰り方はどこにも載っていないよ」


 そう微笑んで、紅葉がドアノブに手を掛ける。桜は息をするのも忘れて、「も、紅葉っ」とその背に叫びかけた。動作を途中で止めた彼が再び桜へ視線を留める。だが、彼の瞳を直視することはできなかった。レンズで遮られているはずなのに、何もかもを見透かされているような心地がする。俯いて、片方の手をもう一方の手でぎゅっと握りしめながら、桜は床に向かって声をこぼした。


「紅葉、は、私に、何の罪がある、と?」


 誰かに、言ってほしかったのかもしれない。お前には罪がある、と。あるいは、お前は悪くないよ、と。この存在を誰にも赦してほしくなかった。誰かに赦してほしかった。誰の記憶にも残りたくなかった。憶えていてほしかった。忘れてほしいのに。消してほしいのに。どうして、自分は今ここで息をしているのだろう。


「それは、君が一番わかっているんじゃないか?」


 冷たい声色に、思考回路をすべて断ち切られたような気がした。

 この甘えを、彼が見抜かないはずはなかったのだ。


「――愚かだと、思う?」


 拳を、ぐっと握りしめる。手のひらに汗が滲んできているのがわかった。外では雨が降っているらしい。代わりに泣いてくれる者がいるのは、至極楽なことに思えた。


「愚か? なぜ? ……ああ。君をパンドラと言ったのは、別にそういう意味じゃないよ」


 肩を竦め、紅葉が扉に背を預ける。桜は顔を上げ、正面に立つ彼に対し、思わず疑問を投げかけた。


「……じゃあ、どういった意味、で?」

「言わなきゃ、わからないかい? 好奇心旺盛のお姫様」


 腕を組み、口の端を紅葉が皮肉に上げる。それを見て、彼もこの組織に属する者なのだ、と桜は再認識させられた。雨脚がどんどん強くなっていくのが、窓に打ちつけられる水音を聞いてわかる。だが、桜の心はそれに反比例するかのように、ほんの少しだけ軽くなっていった。


「あと君さ。藤のことが、ちゃんと好きなんだろ?」


 予想だにしていなかった問いが紅葉から飛んでくる。それを受けて桜はビクッと身を縮こませた。その挙動だけでもう、彼にとって答えは得られたと言っても過言ではなかった。


「……そんな、つもりは、」

「アレはね、変わったよ」


 何かを含ませるように、くっくっと紅葉が笑う。アレ、という指示語に、なぜか同胞に抱く以上の親しみが込められている、と桜は感じざるを得なかった。

 まるで、もっと昔から彼のことを知っていた、とでも言うように。


「君に出逢ったからかな」

「……紅葉、」


 言いかけて、首を小さく横に振る。紅葉もすべて心得ているのか、そのまま振り返らず、静かに部屋を出ていった。









「あら。ここにいらしたんですね」


 ガチャリ、と肘と足で扉を開けて書庫に入ってきたのは牡丹だった。折り畳んだチェス盤や将棋盤、ポーカーセットの入ったケースなどを何段も重ねて両手に持っている。脚立の下段に腰かけたまま本の世界に没頭していた桜の肩が、ビクッと跳ねた。


「驚かせてすみません」

「ううん。片づけ? 手伝うよ」

「ありがとうございます」


 読んでいた本を棚に戻した桜が、牡丹の抱えるケースを上から順に取ってやり、元あった場所に収納する。そこで棚の奥に、少し埃を被ったボードゲームを桜は見つけた。


「へえ。ここにはリバーシもあったんだ。子ども向けかしら」

「日本ではオセロと呼ぶのが主流ではありますね」

「そうなんだ! 今ちょうどシェイクスピアの『オセロー』を読んでいたの」

「日本のオセロの盤面が緑色なのは、『オセロー』の舞台たるイギリスの草原をモデルにしたらしいのですが……」

「え、でも、『オセロー』の舞台は、ヴェニスとキプロス島の二つよね?」


 そうなんですよね、と牡丹が最後に持っていたチェス盤を棚に戻しながら首を傾げる。そもそもシェイクスピアが同時代の英国を舞台にしたのは『ウィンザーの陽気な女房たち』を除いて他になかった。Othello——シェイクスピア四大悲劇の一つ。シェイクスピア悲劇では基本的に日常は描かれない。普通でないことを演出するため、英国を舞台にしない、ともいわれているのだ。つまり劇的効果を狙って、シェイクスピアは意図的に驚嘆(ワンダフル)をちりばめる。例えば、ムーア人の軍人と白人女性が結婚する――シェイクスピア劇をはじめ、英国ルネサンス期の演劇には、そういった、現実世界では当時絶対に起こりえなかったことが、往々にして描かれる。

 しかし彼の劇には現代にも通じる普遍性が見受けられるものの、合理的に説明しえない箇所は多く指摘される。そして彼の作品にはほぼすべてに種本があり、独創性(オリジナリティ)などは初めから意識されない。そもそも独創性、という概念すらあの時代に生きる者にはなかった。


「桜は、あの劇がどういったものか、ご存知なんですか?」

「部下のイアーゴーから、妻のデスデモーナが浮気しているという讒言を受け、それを信じて嫉妬に狂ったオセローがデスデモーナを殺し、最後は己も自殺する、んだよね?」

「まあ、話の大筋はそうですよね」


 牡丹が、棚の上に落ちていたオセロの石を一つ手にとって、ふうっとその埃を吹いた。

 黒と白。すなわちそれが意味するものは、有色人種と白色人種の肌の色、だ。


「私は、オセローの嫉妬の物語ではないと思っています」

「え、そうなの?」

「O, beware jealousy; It is the green-ey'd monster, which doth mock

 That meat it feeds on.《将軍、恐ろしいのは嫉妬です。それは()なじりを緑の炎に燃えあがらせた怪獣だ、人の心を餌食とし、それを苦しめ弄ぶのです。》[2]」


 返事の代わりに返されたとも思える台詞に、桜はまるで自分が忠告を受けているような気分になった。


「この、イアーゴーの台詞が独り歩きして、あれはオセローの嫉妬の劇だと見紛う者もいますが、事実、オセローはデスデモーナに対し、嫉妬していたわけではありません。イアーゴーのオセローに対する嫉妬の劇とは、言えるでしょうがね」


 石を見つめながら、牡丹が淡々と話す。


「オセローはイアーゴーの虚偽の申告を信じ、語りは()()であることに気づけなかった。その結果が、ああいった悲劇となった。ただ、それだけのことです」


 そう言って肩を竦め、牡丹が石をケースに戻す。

 オセローは己の語りで愛する者の心を摑み、イアーゴーの騙りで愛する者に手をかけた。果たして、彼の語りも最初から騙りだったのか。デスデモーナは、彼の何を愛していたのか。


「あなたは、シェイクスピアの、何がお好きなんですか?」


 何かを試すように動いた彼女の目が、少しだけ怖かった。けれど、彼女の問いに他意はないと桜には思えた。


「――言葉、かな」


 視線を落とし、数々の台詞を思い描きながら桜は呟いた。

 確かに彼の作品に独創性はない。だが、元々あるストーリーを組み変えて作られた、彼のプロットが、好きなのだ。登場人物たちの紡ぎ出す生きた台詞が、好きだった。


「万の心をもつ者、ですか」


 牡丹が自身の頤に手を置いて「なるほど」と頷く。桜は隣に立つ背の高い彼女を見上げ、「うん」と返事をしたあと、天井を仰ぎながら呟いた。


「紀貫之も、シェイクスピアを読んだら、びっくりしたと思うよ」


 会話の流れに合わない桜の呟きを受け、「はは」と乾いた笑い声が彼女から漏れる。


「人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける?」

「仮名序の冒頭が日本じゃ有名らしいけど、そのあとの六歌仙に対する評価が、けっこう明け透けで面白いのよね」

「〈紀貫之の辛口批評(レビュー)!〉ですか」


 そんな軽い調子の言葉が彼女の口から出るとは思わなくて、桜は、ふふっと笑ってしまった。その様子を見た牡丹が、初めて目にした、とでも言うように、桜の様子を見て、瞬きを一つした。そしてその後、ふっと目を細めて優しく笑う。


「……桜は、笑ってたほうが、いいですよ」

「え?」

「どうか、笑っていてくださいね」


 唇に人差し指を当てて、牡丹が優雅に微笑んだ。


「最後に笑うのは、あなたなんですから」


 踵を返し、牡丹が桜に背を向けて歩き始める。その背中に、桜は今しがた浮上してきた疑問を投げかけようか、あるいは、黙ったままのほうがいいのか考え、踏み出そうとした歩みを止めた。


「そうでしょう? ἐλπίς(エルピス)










[1] 関根正雄訳(一九五六年)『旧約聖書 創世記』、岩波文庫、第三章一節

[2] シェイクスピア、福田恆存訳(一九七三年)『オセロー』、新潮文庫、第三幕第三場

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