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第二幕第五場





 二〇二九年七月 虎ノ門


「ごちそうさまでした」

「はい、ありがとうございました! またどうぞー!」


 定食屋の暖簾をくぐり、路地裏から陽光が燦々と降り注ぐ街中に出る。忍は足早に雑踏を抜けた。二〇二七年二月の開戦後、日本に足を踏み入れるのは初めてのことだった。

 変わったもの。変わらないもの。建物、人、景色。目に映るもの、耳で聞こえるもの、肌で感じるものすべてと己の記憶を照らし合わせる。


「……さて」

(この国の趨勢を、変遷ととるか堕落ととるか……)


 立ち止まって、自分の歩いた路を振り返る。停戦協定を結んだことで束の間の平和に酔いしれた街が、一瞬だけ、無彩色の灰燼と化した。だがその幻影は、瞬きののち須臾にして消えた。

 これは、いったい誰が作った物語なのか。

 何が最善だった? 果たしてこの国は何を得た。何を喪った。

 再び歩み始め、疼く腹の傷痕を押さえる。生死の境をさまよっても、骨が何本折れようと、何かを遺す。生きて帰る。それが与えられた役目だ。だがそれは、いったい何のためだったのだろう。決定的に何かが矛盾しているのだ。伊達や酔狂で命まで懸けるわけじゃない。他人と競うわけでもない。国の将来を憂いた結果の選択でもない。誰のためでもなく、己に課せられた任務を完遂する。それを為し得るのが当然だと。自身に言い聞かせた。――なぜ?

 臆病な自尊心のためか? 吹けば消し飛ぶような正義とやらのためか?

 ……なるほど。こんなふうに馬鹿げた疑問を呈するようになったときこそが、この組織の去り際なのかもしれない。


「只今、戻りました」

「ご苦労だったな」


 桐の執務室に忍が入り、帰還報告をする。戦時中は一般国民に紛れ込んでいる以上、ネット回線を得るのが容易ではなかった。加えて忍は円卓会議に参加できない国に潜入していたのもあり、公開情報である程度の情報を得ているとはいえ、秘密情報に関しては自分の担当以外は完全な浦島状態とも言えた。重要な報告は既に伝えているため、当たり障りのない話から桐に尋ねる。この国の現状、内政、外交、経済、資源。戦況、停戦区域、協定の子細等々。そして、OSS傘下会社の各国における立ち位置から目下処理を必要とする問題の所在まで、微に入り細を穿ち訊き出せるものはすべて訊き出した。しかしそれは予め自分で調査し、収集していた情報、それに基づいて分析した予想図と大して相違なかった。


「――今日、王依梦の死を公表するぞ」


 確認がひと段落したところで、桐から口火が切られた。それに驚かなかったと言えば嘘になる。虚を衝かれたように忍が動きを止め、目の前の男を凝視する。忍の顔に絶えず浮かんでいた微笑が消えた。その後に続いた桐の言葉を理解するのに、数秒を要した。いや、意味は瞬時に理解できた。だが、あまりにも唐突の、あっけない〝幕切れ〟に、思考が追いつかなかった。


「だいぶ前に荼毘には付されていたがな」


 ふう、と桐が何でもないことを言うように肩を竦め、息をつく。机上に置かれてあったケースから煙草を一本取り出し、男がそれに火を点ける様を、忍はただ口を茫然と開けて見ていた。


「……いつ、どこで?」

「それを今更聞いて、何の意味がある? 墓でも訪ねるか?」


 フッと鼻で笑い、桐が白い息を吐く。その反応に忍は思わず眉を顰め、湧き上がった不快感を隠さなかった。拳をぐっと強く握りしめる。



 ――王依梦は砲撃に巻き込まれて死んだ。即死だった。公表するにも、あまりにも世界に与える影響が大きいゆえ、停戦まで秘匿することにした。



(……いったい、何が、起こった?)


 目の前に座る()()()()の胸倉を摑んで一から十まですべて問いただしたいのを堪える。

 大陸での戦線が拡大していくにつれ、民衆も革命どころではなくなったという事実は当然知っていた。円卓会議は平時の()()()に過ぎない。OSSの利益が自己の利益と打算に合致していないエージェントもいる以上、己以外の何者も信用してはならないのも重々承知している。ましてや戦時中は、ギブアンドテイクの比重を誤れば直接命の危険に繋がる。

 だが、なぜ、ここまで蚊帳の外に置かれる必要があった?



「婚姻届なんざ、ただの紙切れ、なんだろ?」



 桐の声に重ねて、過去の自分の嘲笑う音が、脳裏で聞こえた。


「――失礼します」


 一切の思考を停止させて、何者でもない無の仮面を貼りつけたまま部屋を出る。しばしの間、閉めた扉に凭れかかり、片手で両目を覆った。浮かんできたのは、ある劇の幕切れだった。

 よもや彼女は、最初から消えなければならなかったとでも?



 She should have died hereafter;

 There would have been a time for such a word.

《あれも、いつかは死なねばならなかったのだ、

 一度は来ると思っていた、そういう知らせを聞くときが。》[1]



 そんなことが、あってたまるか。



 振り向き、ドアを蹴り壊したくなる衝動を抑え、すんでのところで構えた膝を静かに下ろす。暴発しそうな感情に流されぬよう、深呼吸を数度繰り返した。それでも、噛み締めた下唇からは、血の味がした。









「To-morrow, and to-morrow, and to-morrow……《あすが来、あすが去り、そしてまたあすが、》」


 声になるかならないかくらいの消え入るような口調でシナリオを辿るように呟き、当てもなく街をさまよう。もはや、何のために歩いているのかもわからなかった。それでも立ち止まることは、考えなかった。口でも足でも、何か動かしていないと、現実が雪崩のように堰を切って溢れ出し、容易に自身を攫っていくのがわかったからだ。黙々と、ただひたすらに歩を進める。足を踏み出すごとに、行き場のない感情が、一つ一つこぼれ落ちていくかのように感じた。


「Creeps in this petty pace from day to day

 To the last syllable of recorded time,

《こうして一日一日と小きざみに、

 時の(きざはし)を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで。》」


 Tomorrow Speech――役者にとっては一番の見せ場とも言える場面。四大悲劇の一つ『マクベス』において、最も有名な台詞。


「And all our yesterdays have lighted fools

 The way to dusty death.

《いつも、きのうという日が、

 愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。》」


 行き交う人間たちの顔が、霞みがかったようにぼやけ、頭に入らない。音も不思議に聞こえない。まるで無声映画でも見ているようだった。ベビーカーに乗せられた赤ん坊の泣き声も、外国人観光客のやかましさも、かまびすしい右翼の街宣車も、音として認識はされようと何もかもが自己の中心まで届かなかった。正常に作動するための部品が欠けてしまったような。何かを置いてきたような。何かを喪ったような。それさえもわからぬほど、すべてが虚無だった。


「Out, out, brief candle……

 Life's but a walking shadow, a poor player

 That struts and frets his hour upon the stage

《消えろ、消えろ、つかの間の燈し火!

 人の生涯は動き回る影にすぎぬ。あわれな役者だ、

 ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、》」


 腑抜けとは、この面のことをいうのだろうか。ビルのガラス張りに、一切の感情を削ぎ落とした顔が映った。それは、思考すら放棄した木偶の坊のような男だった。二本の足で歩くことだけが、最後自らに残された生きる路とでも言いたげな。

 罅の入った片腕が、疼く。銃弾を受けた腹が疼く。高所から落下した際、折れた肋骨が、息をするたびに疼痛を呼び起こす。服の下に隠された裂傷、打撲痕、火傷さえも、再び熱を帯び始めたようだった。それでも、台詞をぶつぶつと口の中で唱えるのをやめなかった。ある者からは気違いとすれ違ったような反応が返ってきた。だが、何か他の悲劇でも語っていないと、この物語が、悲劇のように思えて、思われて、ならなかった。


「And then is heard no more: it is a tale

 Told by an idiot, full of sound and fury,

 Signifying nothing……

《そしてとどのつまりは消えてなくなる。

 白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、

 すさまじいばかり、何の取りとめもありはせぬ。》」


 ビルを出て二時間ほども歩き続けていたのか、いつの間にか潮の匂いが風に乗って運ばれてきた。湾沿いの公園に入り、埠頭を一望できるベンチに腰を下ろす。疲労はまったく感じていなかった。足を止めたのは、おそらく躰が煙草を欲していたからだ。箱から取り出した煙草に火を点ける。手に馴染んだオイルライターは、いつか彼女が選んだものだった。

 煙草を唇から離し、ふうと白い煙を吐く。そして再び吸い口を唇に持ってきたとき、微かな違和感を感じた。

 手のひらが、濡れている。

 風が頬を撫で、冷たくなった肌を浚っていく。

 そのとき初めて、自分が、泣いていることに、気づいた。


「……はっ」


 思わず、嘲笑を漏らす。

 涙を流す、など、いつぶりだろうか。しかもこれは、いったい何の涙だ?

 わからなかった。疾うに枯れたものじゃ、なかったのか。

 淋しいのか? お前は。彼女がこの世界から消えて。喪失感に苛まれているのか?

 今更?

 何のために生きてきた。いったい、何のために。

 誰のためでもないと言い聞かせた。この俺にできないことはないと。

 だがその行為が、こんな、無為に流れ続ける水分の原因とでもいうのか。


「……様ァないな」


 喪って、初めてわかった。

 ただ、守りたかったんだ。彼女の未来を。いつからか、なけなしのプライドだとか、そんなものすべてどうでもよくなった。それなのに、なぜ。

 彼女は、この世界に、いないんだ?

 いつの間にか、彼女を支えに、生きていた。生きていて、ほしかった。

 戻る自信が、あった。帰る自信が、あった。

 だから、自分も、この世界を、生きて、生きて、生きて、

 死と隣り合わせの日々を、足搔き続けた。

 にも、かかわらず。愛してる、の一言さえ、言えなかった。伝えられなかったんだ。どうしたって、枷にはなれなかったから。


「この、ど阿呆が……っ」


 止め処なく、涙が溢れる。まるで、言い残した想いが、今になって決壊したように。吸いかけの煙草が足元に落ちる。その周りに雫がぽたり、ぽたりと落ち、地面の色を変えた。

 初めて、人を、いとおしいと、思ったんだ。

 可愛いと思った。守りたいと思った。抱きしめたいと思った。そばにいたいと思った。

 その、今にも壊れそうな、震える背を、支えたいと思った。

 どうすればよかったというんだ。あの夏、彼女の手を離さなければよかったのか?

 そばにいればよかったのか? どうすれば彼女を救えたんだ。この狂った世界から。

 手を握りしめた感触さえ、未だ、思い出せるのに。

 まだ、何も、伝えることが、できなかった。


「……生きて、また、」


 逢いたかった。逢えると、信じて、いた。逢える日を、夢みていた。

 でもそれは、愚かな幻想にすぎなかったのか。

 台詞に仮託してしか、愛を語れなかった、愚者のことを。彼女は、最後まで責めなかった。

 ぼやけた視界が、瞬きを重ねるごとに、鮮明さを取り戻していく。

 いったい、どれほどの時間が、経ったというのだろう。

 日が、だんだん暮れていき、地平線に太陽が沈むのを、ただ、見つめた。



 ――あの夏、向日葵の咲く路を、二人で歩いたね。

 こんな日は、自転車に乗って、風を感じたいと言った君。

 俺には、君のすべてが、眩しかった。

 光に、思えたんだ。君は、この、クソみたいな世界に現れた、光だった。



 彼女の名を、囁くように、呼ぶ。

 それは、音もなく、風の中に消えた。










[1] シェイクスピア、福田恆存訳(一九六九年)『マクベス』新潮文庫、第五幕第五場

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