第三幕第一場
二〇二九年五月 エクセター
なぜ、自分は生きているんだろう、と思うときは、少なくない。
それは夜、眠りにつく前であったりするし、朝、目を開けて覚醒する瞬間だったりする。
――もし、これが夢だったら。夢で、あったならば。
また、目を覚ませたときに、逢えるのだろうか。
もう二度と、逢えない人たちに。自分は、何と言えるだろうか。
「おい、何そこで突っ立ってんだ。さっさと乗れよ」
〝タッチストン〟が車のエンジンをかけながら、ぼうっと突っ立っていたアリスへ急かすような視線を送る。「あ、はい」とアリスは少し逡巡したあと、その助手席に乗り込んだ。
窓の外で次々と移り変わる景色を気にも留めず、タッチストンが運転する様子を間近で眺める。それは彼のハンドル捌きであったり、ブレーキのかけ方であったりする。タッチストンも、アリスから穴があくほど見つめられていることに当然気づいてはいるが、本日の目的を真面目に遂行しようとする彼女の姿勢に、あえて何か口を出すこともなかった。
「タッチストンは、なぜスパイになろうと思ったんですか?」
突然、降って湧いたような疑問がアリスの中に浮上してきた。自分でも声に出してからその発言の意味内容を理解した。瞬時に並々ならぬ後悔が襲ってくる。「す、すみません」と咄嗟に謝るアリスに対し、タッチストンがその質問の意図を探るように、彼女の顔へ目を留めた。
「――ただの暇つぶしさ」
ふっと笑って、タッチストンが再び前に視線を戻す。この回答が、彼の本心であるかまでは到底わからなかったけれど、あながち彼が嘘をついているようにもアリスには見えなかった。OSSの中で禁句、とも言える、カバーを被る前のことについて訊いてしまい、咎められなかったことに少し安心しながら、「そう、ですか……」とアリスは呟いた。おそらく、エージェントどうしでそんなやり取りが、万が一あったとしても、彼らには今の彼らが用意する独自の回答があるのだろう。その答えと、タッチストンが今言った言葉は、果たして同じであったのだろうか。
だんだん郊外に出ていき、田園風景が広がっていくことに対して少しだけ新鮮みが失われたようにも感じてきた頃、ふとコバエが窓の外に留まった。コバエは懸命に窓に向かって肢を引っ付けていたが、無情に走る車の生み出す風によって、再び大気中へと消えていった。
「――『蠅の王』って小説、読んだことあります?」
「ああ。ゴールディングだろ」
アリスが飛んでいくコバエの行方を追いながら呟くと、前方から視線を外さないままタッチストンが答えた。
大学の授業でゴールディングの『蠅の王』を読んだ。「〝悪〟はどこにあるのか」というユニットのキーテクストとして扱われていたのを、ふと思い出す。そのときに、ドストエフスキーの『悪霊』や『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』などについても触れたのだった。
絶対的な他者としての〝悪〟ではなく、文学――とりわけ小説が個人に内在する〝悪〟を掘り下げだしたのは、おそらく十九世紀の後半からだ。やはり自然科学に然り、社会科学に然り、人類に対する楽観が、ようやく崩れ始めた頃だったのだろう。植民地主義。世界大戦。ホロコースト。特にユダヤ人に対する大量殺戮は、戦争が終結するまで多くの者が知らず、すべてが明るみに出たあと、全世界が震撼した。
第一次世界大戦でドイツを徹底的に潰してしまったがために、〈二十世紀の悪の遺恨〉とされるヒトラーが誕生したのだとすれば、いったい「悪い」のは誰だったというのか。
「歴史って、巻くんですよ。まるで円環みたいに。物語も同じですね」
英文学の先生が呟くように言ったのを、憶えている。講義ノートにもその台詞が残っていた。
「『蠅の王』は、バランタインのThe Coral IslandとヴェルヌのDeux Ans de Vacancesのパロディだって、作者自身も言及していたんですよね」
「ああ。『珊瑚島』と『十五少年』なら、ガキの頃読んでたぜ」
「冒険、って響きに、童心をくすぐられた覚えがある」と、何かを懐かしむように、フッとタッチストンが笑った。『蠅の王』のintertextualityを辿れば、それこそデフォーの『ロビンソン・クルーソー』にまで行き着く。第三次だか第四次だか詳細は不明であるが、第二次世界大戦後、再び戦争が――核戦争が勃発した世界で、英国から疎開するために少年たちの乗っていた飛行機が南太平洋の孤島に不時着した。機体の胴体部分だけが島に流れ着き、三、四十人ほどの少年が無人島での生活を余儀なくされることになる。従来の少年漂流記ものによくあるように、少年たちは大人が一人もいない隔絶された世界で、知恵を絞り合い、協力し、様々な経験を経たあと、無事に救助されたところで、物語は幕を下ろす。『蠅の王』もストーリーだけは、それに則っている。
しかしストーリーとプロットは、まったくの別物だ。『ロビンソン・クルーソー』や『ガリバー旅行記』にも言えることだが、『蠅の王』は少年向けに書かれた小説では、決してない。テーマは〝悪〟とは何か、だ。果たして純真無垢とされる子どもたちに、悪意はないのか。閉鎖された孤島の中で、しだいに理性を失っていき、心身を蝕まれる少年たち。暗闇に「獣」が見えた、と一人が言い出せば、その恐怖は瞬く間に伝播していった。不注意で森が焼けてしまった際に消えた少年。誰も彼がどうなったか正面から向き合おうとしない。そして救助のために絶やしてはならぬ烽火が、狩りに夢中になっていたことで消えてしまう。ちょうどそのとき船が沖を通りかかり、責任問題で年長者どうしが仲間割れ。彼らは島に棲息する豚を狩ることで一時の昂奮を得ていたが、同時に文明を置き去りにしてしまった。その狩猟隊一派は、顔にペイントし、裸同然の姿で槍を持ち、歌い踊って、だんだん野蛮人へと化していく。
人間性とは何か? 「獣」とは何か? いったいどこからそれはやって来る?
戦争の影を一寸も落とさない楽園で、彼らは無邪気のままでいられたはずだった。
そして、少年たちは得体の知れない「獣」に対して、豚の頭を献上する。その黒蠅がたかる豚の頭こそが、蠅の王、だ。悪魔は自分たちの外側にいる、と皆が思っていた。「獣」は外からやって来るものだと信じていた。ただひとり、サイモンという少年を除いて。
一種の悟りを得て、サイモンは豚の頭――悪魔と対話する。
「私はお前たちの一部なのだ」
豚の頭が、そう話しているように、サイモンの耳には聞こえた。
悪は、海から来るものでも、空から来るものでもない。自分たちの奥底に巣くっていた、自分たちが作り出したものだった。暗闇で「獣」のように見えたものも、樹に引っかかっていたパラシュートと、ただの死体だった。その真相を、皆にも伝えねばならない。夜、嵐の下でサイモンは島を駆け回った。しかし豚を焼き、踊り狂うなどして、宴が繰り広げられている浜辺に飛び出したサイモンは、昂揚した少年たちによって「獣」と間違えられ、殺されてしまう。
救いなど、なかった。
「サイモン、という子が、少年たちに撲殺されたとき……」
豪雨と稲妻の音で彼の叫びは届かなかった。暗闇で視界も悪かった。少年たちも、サイモン、と知っていて殺したわけじゃなかった。だが――。彼の死は、あまりにも、無意味だった。
「その亡骸が、海へと流れていくシーンが、とても、きれいで」
目を背けたくなるほどの凄惨な死に様を、補うように。夜光虫に誘われながら。とても美しく、静かに。彼は海へと還っていく。まるで、読者にこの場面を読ませるがために、彼は作家に殺されたのではないか。と捻くれた見方をしてしまうほどに。
「Sea Changeというんでしょうか」
「『テンペスト』か」
タッチストンが正面を見据えたまま呟く。アリスはその情景を思い浮かべながら、「はい」と目を伏せた。
「Full fathom five thy father lies;
Of his bones are coral made;
Those are pearls that were his eyes
《水底深く父は眠る。
その骨は今は珊瑚
両の目は今は真珠。》[1]」
「だろ?」確認するようにタッチストンから話を振られ、アリスは思わず「……ええっと」と口ごもった。
「おいおい。あんたが言い出したんだろうが」
「――何で、そんな、憶えてるんですか」
「なぜ、これくらい、憶えていないんだ?」
鼻で軽くあしらわれ、アリスはギリギリと自身の奥歯を噛みしめた。
「Nothing of him that doth fade
But doth suffer a sea-change
Into something rich and strange.
Sea-nymphs hourly ring his knell
《その身はどこも消え果てず
海の力に変えられて
今は貴い宝もの。
海の妖精鳴らすのは、ひと時ごとの弔いの鐘。》」
エアリエルのように歌いはしないが、文句のつけようがどこにもない、弱強五歩格に則ったリズムで、タッチストンがその続きを諳んじる。
サイモンは自分たちの中にある悪と唯一向き合った。そして彼の躰は、俗から聖なるものへと変化した。それは、磔刑に処されたキリストの姿と重なる部分がある。
罪がないのに死なざるを得なかった。代わりに罪のある者たちが救われた。
「世の中、そういうもんだろう? 聖書の時代から人類は何一つ変わらないのさ」
アリスの思考を読み取ったのか、タッチストンが肩を竦めながら言った。
『蠅の王』以来、島は、ディストピアであるというモチーフが定着した。狩猟隊の一派は物語の終盤で、敵対する少年を追いつめるために島を焼く。それが自殺行為であることにも気づかずに。火は、文明と破壊をもたらす。プロメテウスが人類に与え、しかし代わりに、彼の弟にはパンドラが寄越された。
「ここで、皆さんに言っておかねばならないことがあります」
『蠅の王』を授業で読んでいたとき、教授が少し間を置いたあと、軽快な調子で言った。
「近視用のレンズで火は起きませーん!」
「ゴールディングのポカですねー」ノーベル文学賞まで受賞した作家に対し、面と向かっては決して言えないようなことを、教授は授業の中でコミカルに語った。
知識の象徴たる眼鏡を使って火を焚いた少年たち。しかしその眼鏡も途中でレンズが片方だけ破壊される。ついには、眼鏡の持ち主も殺されてしまった。そのとき、知性は完全に失われた。そして命からがら狩猟隊から逃げ延びた一人の少年の前に、救助に来た海軍士官が現れる。
最終的に、生き残った者たちは孤島から救出された。だが、果たして彼らはその後、本当に幸せになれるのだろうか。少年たちが戻ろうとしている世界は、資本主義と社会主義が表立って対立し、原爆投下の危険性さえ大いに孕んでいる、混沌とした殺戮の世界だ。
つまり作者の伝えたかったことは何か。作品に込められた意図は何だったのか。
純真無垢って言うけど、結局子どもってダメだよね。でも、大人はもっとダメだよね。
――そんな、救いなんてどこにもない、盛大な皮肉。
ゴールディングは、悪をテーマとして小説を書いた二十世紀を代表する作家の一人だ。
もう一人、悪をテーマに小説を書いたことで挙げられるのが、MI6のメンバーであり、スパイ小説を書いたことでも有名な、グレアム・グリーン。ジョセフ・コンラッドを敬愛し、彼の書いたThe Heart of Darknessのオマージュとして、話はまったく異なるがThe Heart of The Matterという不倫小説を書いたことでも知られる。しかし単なる不倫の話ではなく、小説の中では植民地の実態が詳細に描かれた。これは文明化だ、という本国側の価値観と、乖離する現地の心性。その実態は――ただの搾取だった。
「人を愛することができないのに人と関わるのは〝悪〟ではないか? というテーゼが込められているんですねー」
気の抜けた教授の物言いが気に入ったのか、ノートに走り書いていたその台詞をアリスはひとり思い出した。
人間は人間に対して、どこまで非情になれるのか。悪は、どこにあるのか。
「――悪とは、いったい、何なのでしょうか」
アリスが視線を下に落としながら呟く。するとタッチストンが、はっと短く笑い、「考えるだけ無駄だな」と言って口を大げさに歪めた。
「何を正義とするか、何を悪とするか。あえて定義するもんでもない。――演劇だって同じだ。観る者によっては、悲劇となり、喜劇となりうる。『テンペスト』もそうだろう? あれは喜劇ではあるが、キャリバンからすれば、どうだ?」
同意を求めるように、タッチストンがアリスを横目で見た。
The Tempest――シェイクスピアが単独で書いたとされる最後の作品。弟の策略により、ミラノ大公の地位を追われ、娘とともに孤島に流されたプロスペロー。月日を経て、その弟たちの乗った船が島を通りかかったとき、彼は島に住む妖精の力を使って彼らに復讐を果たそうと決意する。しかし、プロスペローは最終的に己を陥れた者たちを赦し、釈放した。そして船に乗っていた王子と娘は恋に落ち、ミラノへの帰路につく場面で物語は円満に終わる。
「すばらしい新世界――Brave New World――化け物キャリバンは、新大陸で西洋人によって迫害された原住民を象徴している、とも読み取れる」
プロスペローが漂着するよりも前に、その島に生まれ住んでいた異形の怪物、キャリバン。彼の「王国」とも言えるその島をプロスペローは乗っ取り、彼を意のままに使役した。その図式はまるで――。帝国による植民地支配そのものだった。
「まあ、キャリバンもキャリバンでただの阿呆だがな。喜劇は喜劇。下手に感情移入して考えることでもない。……それより、」
そこで区切って、タッチストンが車を一旦停止させる。アリスが正面に視線を移すと、道路を羊の群れが横切っていた。都市部を離れたここらでは放牧された牛や馬とすれ違うことも珍しくない。アリスは一匹だけ群れから取り残されそうになった子羊に、一瞬目を奪われていた。
「喜劇といえば、『ヴェニスの商人』も、その類とされるが」
「あれは一種の問題劇だ」すべての羊を見送ったあと、再びハンドルに片手を置いたタッチストンが、不快なものが目に入ったかのように眉を顰めた。タッチストン曰く。シャイロックは、ただの憎まれ役とされるには、あまりにも人間的に描かれすぎた、という。
友人のために、ユダヤ人の金貸し、シャイロックから三千ダカットもの大金を借りるアントーニオ。日頃、キリスト教徒たちから蔑まれてきた恨みを晴らすため、期限までに返済しなかった場合は、心臓に一番近いところの肉を一ポンド切り取る、という条件を付けて、シャイロックはアントーニオと契約を交わす。そして案の定、ヴェニスの商人であるアントーニオの商船がすべて難破した、との知らせが入り、シャイロックは契約通り肉を切り取ろうと裁判を持ちかける。が、その裁判でシャイロックは敗訴し、全財産を没収され、追い立てられるようにして舞台の上から消えていく。
「Hath not a Jew eyes? hath not a Jew hands, organs, dimensions, senses, affections, passions? fed with the same food, hurt with the same weapons, subject to the same diseases, healed by the same means, warmed and cooled by the same winter and summer as a Christian is?《ユダヤ人は目なしだとでも言うのですかい? 手がないとでも? 臓腑なし、五体なし、感覚、感情、情熱なし、なんにもないとでも言うのですかい? 同じものを食ってはいないと言うのかね、同じ刃物では傷がつかない、同じ病気にはかからない、同じ薬では癒らない、同じ寒さ暑さを感じない、何もかもクリスト教徒とは違うとでも言うのかな?》[2]」
『ヴェニスの商人』の中で、最も有名なシャイロックの台詞を呟いたあと、ふう、とタッチストンが一瞬瞼を閉じ、軽く息をついた。再び進み出した車に気をとられつつ、彼のその様子を見て、アリスが目を見開く。まさか、彼から物語の敵役を擁護するような意見が出るとは、思わなかった。驚きを隠せず、ぽかんと眺めていると、その反応を狙っていた、とでも言うようにタッチストンがニヤリと笑った。
「とまあ、十八世紀以降の批評家たちは好き勝手に論を連ね、シャイロックをあたかも悲劇の主人公のように仕立て上げているがな」
「あんたもその一人か?」試すような視線を向けられ、思わずアリスが顔をしかめる。タッチストンに限らず、エージェントと話していると、何が本当で、何が嘘なのか、いつもわからなくなってしまう。話を誘導させられているような心地がするのは、気のせいなんかじゃない。
つまり今のは、タッチストンの意見ではなかったのか。いや、それとも〝タッチストン〟としての意見だったのか。どちらにせよ、〝アリス〟には関係のないことだった。
「ただの登場人物に対して本気で同情する奴らに、俺は同情するね。シャイロックはヘブライ語でshalach――〈強欲者〉を意味する。あれは、最初から非難の的になるよう作られた役に過ぎなかった。喜劇の中の、わかりやすい悪役さ。それがシャイロックに与えられた人物像だ。それ以上でも、以下でもない」
言葉通りの意味を乗せるように、タッチストンが涼しい顔で言った。授業で『ヴェニスの商人』を読んだとき、教授も、同じようなことを言っていた。劇は、劇として考えてください。現実世界と混同させては、いけませんよ、と。つまり、シェイクスピアは観客を想定してこの劇を書いているのだ。ただ、シャイロックの台詞には胸を打たれるものがあった。それに、そもそもシェイクスピア自身、その目でユダヤ人を見たことは生涯なかったといわれている。
アリスは、どう返事をすればいいか思い倦ね、何度も口を開けたり、閉じたりしながら、囁くようにして言った。
「Do all men kill the things they do not love?《気にくわぬ、だから殺してしまう、それでも人間か?》[3]」
結局、考えに考えたあげく、話は、振り出しに戻ってしまった。
タッチストンがアリスを見て楽しそうに口の端を上げる。
「Hates any man the thing he would not kill?《憎い、だから殺したくなる、人間なら誰しもそうだろうが?》」
予想通りの返しを受け、アリスは閉じていた目をゆっくりと開けた。「何だ。記憶してるじゃないか」と乾いた笑い声が隣から聞こえてくる。
――悪って、何なんだろう。『罪と罰』のテーマは「殺人を正当化できるか」だった。『悪霊』は、「カリスマの問題」、また、「革命はどう進むか」、「集団の暴力性」とは何か。そして『カラマーゾフの兄弟』は「神がいなければ、果たしてルールとは?」、ないし個人の悪と社会悪はどう違うのか――。こんなふうに、頭の中で考えも纏まらないまま自問自答を繰り返すのが、滑稽に思えてきてならなかった。
くっくっと喉を鳴らして、タッチストンが目を細める。
「あんたは、ポーシャか? それとも、ジェシカなのか?」
「どっちなんだろうなあ」先ほどとは打って変わって瞳に冷たいものを含ませながらタッチストンが笑った。その言葉の意味を理解できず、首を傾げる。しかし、彼女たちが劇中でどう動いていたかを思い出し、アリスは、はっと息を呑んで運転席に座る男へ自身の躰を向けた。
タッチストンは、〝アリス〟の過去を知っているのだ。目の奥で熱をもち、込み上げてきたものが、怒りなのか、羞恥なのか、アリスにはわからなかった。
「確かに、私は、親を、騙しました。……でも、私は、ジェシカみたいに、親の形見を売ったりしてません……っ」
シャイロックの妻、リアが残した指輪を娘のジェシカがキリスト教徒と駆け落ちする際に盗み出し、逃亡資金にするため、それをあっけなく売り払う。そしてベルモントのポーシャという貴婦人の屋敷に身を寄せることになるが、ポーシャはポーシャで、法学博士に変装し、シャイロックに対し、その知識と機転を生かして彼の身を徐々に追いつめていく役を演ずる。
喜劇の中の、正義感に溢れる、典型的なヒロイン。
「――ほう。ならば、棄てたか?」
横目で、ちろりと、こちらの反応を確かめるがごとく見られているのが、わかった。
拳を、膝の上でぎゅっと握りしめる。
息すら、できなかった。
*
Be not afeard; the isle is full of noises, Sounds and sweet airs, that give delight, and hurt not.
Sometimes a thousand twangling instruments
Will hum about mine ears; and sometime voices, That, if I then had wak'd after long sleep,
Will make me sleep again: and then, in dreaming, The clouds methought would open, and show riches
Ready to drop upon me; that, when I wak'd, I cried to dream again.
《怖がる事は無いよ――この島はいつも音で一杯だ、音楽や気持の良い歌の調べが聞えて来て、それが俺たちを浮き浮きさせてくれる、何ともありはしない、時には数え切れない程の楽器が一度に揺れ動くように鳴り出して、でも、それが耳の傍でかすかに響くだけだ、時には歌声が混じる、それを聴いていると、長いことぐっすり眠った後でも、またぞろ眠くなって来る――そうして、夢を見る、雲が二つに割れて、そこから宝物がどっさり落ちて来そうになって、そこで目が醒めてしまい、もう一度夢が見たくて泣いた事もあったっけ。》[4]
記憶は、風化する。
でも夢の中では、泣きたくなるほど鮮やかに、影法師たちが動いてくれる。
化け物キャリバンも、音楽を楽しむ心をもち、夢をみて、涙を流す。
シェイクスピアはなぜ、キャリバンにこんなにもきれいな台詞を言わせたのだろう。
陽の光を眼の奥に感じて、アリスは瞼をピクリと動かした。だんだん視界が開けていき、自分が今、座っていることを認識する。おもむろに自身の手を見つめ、無意識にそれを頬まで持っていったとき。肌が、濡れていなかったことに、少しの安堵を彼女は覚えた。
「……ん、」
身じろぎをして、何かがパサリと足元に落ちる。
それが何であったか、認識した瞬間、思考を一時停止せざるを得なかった。
ここ、部屋じゃ、ない!
建物の中でもなければ、朝でもなかった。――真っ昼間。国立公園の駐車場に停車した、車の助手席。右の運転席には誰も座っていない。が、車の外で、窓に寄りかかっている者の背が見えた。おそらく肩に掛けてもらっていたであろうジャケットを急いで拾う。うたた寝するまでは、確か後部座席に放られていたはずのものだ。
記憶がしだいに甦っていき、本気で穴に入りたくなった。
「タ、タッチストン!」
「お? 起きたか、ハーミア」
車から降りて反対側に回り、バクバクと鳴る心臓を宥めながら叫ぶ。煙草を吹かしていたタッチストンが意地悪そうに笑って煙を吐いた。アリスはタッチストンから、ジェシカと呼ばれなかったことに、彼のよくわからない気遣いを感じた。少しは悪かったとでも、思っているのか。だが、眠っている間に恋人が妖精の魔法で心変わりしてしまった女の名で譬えられても、あまりいい気はしなかった。
「あ、あの、わ、たし、いつの間に、」
「ヘソ曲げたか何かでそっぽ向いたあと、しばらく経って見てみたら、もう寝こけてたぜ。幼児かよ」
グサリ、とタッチストンの言葉が、直接胸に刺さる。アリスは俯けないほど首を俯かせて「……すみま、せん」と消え入るような声で謝罪した。
「あの、これ、ありがとうございました……」
けれど己の非に自覚がある分、言い返すこともできないまま、おずおずとタッチストンのジャケットを彼に向かって差し出す。「おう」とそれを片手で受け取り、彼が白煙の混じった息をついた。
「さて、と。帰りはあんたの番だぜ」
タッチストンが煙草を口に銜えて振り返り、運転席のドアを開ける。目で中に入るよう促されたとき今日の目的を即座に思い出したアリスは、「は、はい」と躰を強ばらせた。
「そう硬くなるな。車自体はヒューストンでも運転していたんだろう?」
「お、オートマ、なら……」
「残念。今動かせる車はこれしかねえんだわ」
ここは英国だ。MT車が主流である。しかしMT車をこの義足で運転したことはない。もう、ギアの入れ方なんかは昔日の彼方に追いやられていた。冷や汗を浮かべながら運転席に座り、ドアに腕をかけたタッチストンから一通りの操作方法を教わっていく。助手席に移動したタッチストンが、はあ、とあからさまに溜め息をつき、窓の外に諦念を含んだ目を向けた。
「――死出の旅路だ」
ナマダブナマダブ、と首の後ろに腕を回したタッチストンをアリスが、きっと睨む。
正面に視線を移し、頬を膨らませながらペダルを踏む。しかし、アリスの予想に反して車は急発進した。「わぁああ」と慌ててブレーキをかける。「馬鹿が!」と目を剝いたタッチストンの恫喝が左方向から飛んできた。
「いきなり急発進かよ! クラッチはゆっくり離せっつっただろうが!」
「ま、間違えたんですっ」
「言い訳するな! 同じことを二度言われる人間は下の下だ! あんたの脳はお飾りか何かか? あ?」
わーわーぎゃーぎゃー子どものようで内容は皮肉をたっぷり含ませた罵詈雑言が車内を飛び交う。それでも、口は悪いがタッチストンの指示は的確だった。途中何度も車を強制的に停めさせられては、ガミガミ怒鳴られる。「ったくこれだから女は」と吐き捨てられたときは、わざと急ブレーキをかけてやろうかと思った。しかし一時間ほど車を走らせたところで「……やっと、まともに、なってきたな」とタッチストンが嫌味たらしく溜め息をつき、半分ほど窓を開け、新たに取り出した煙草へ火を点けた。その様子を横目に見て、それまで彼が車内で煙草を吸っていなかったことにアリスは初めて気づいた。
「どうやらジェシカではなかったようだ」
タッチストンが目を細めてアリスを見る。人のことを散々、馬鹿だの阿呆だの言っておいて、どの口が言ってるんだ。無言で睨み返すと、「何か、言いたそうな目つきをしているな?」とタッチストンがほくそ笑んだ。だがアリスにも返事以外に話をする余裕が出てきたのか、「……私は、ポーシャでも、ありません」と正面を見据えながら彼女は呟いた。
「ポーシャは、どうしてバサーニオみたいな、どうしようもない男に惹かれたんでしょう」
「そりゃ、見てくれが良かったんだろうさ」
間髪を容れず返された返事に、アリスが思わず眉を顰める。見てくれのいい男の筆頭が言っても、皮肉にしか聞こえなかった。
「何か、言いたそうな目つきをしているな」
「何でもないです」
「まあ、あんたはポーシャと違って、親の言いつけも守りそうにないがな。……だがポーシャは、ただ金持ちで器量のいい、御伽噺に登場するヒロインとは違うぜ?」
「自ら男を追い求める欲望に目覚めた女――それがたとえ、金目当ての男だったとしてもな」と、その愚かさを嗤うように、タッチストンが整った顔を皮肉に歪ませながら煙を吐いた。
今まで遊蕩し尽くしたせいで積もりに積もった負債を弁済しようと、ベルモントの美しき娘、ポーシャに求婚するバサーニオ。王侯貴族、つまりポーシャの求婚者たちと張り合うため、親友のアントーニオからバサーニオは金を借りるのだが、その際、なぜ自分で直接シャイロックから借りないかというと、おそらくそれまでに金をあちこちから借りていたせいで、誰もバサーニオのことを信用しなかったのだろう。バサーニオとは、そんなろくでもない男だった。
「Since you are dear bought, I will love you dear.」
「あんたなら、どう訳す?」タッチストンが挑発的な目をアリスに向ける。アリスはそれを受けて些か憤慨しながらも、翻訳者によってはまったく異なる趣になりうるポーシャの台詞を、頭に思い浮かべた。
「あなたは高いお金を出して私を買ったのだから、心から愛してあげましょう」
「とでも訳せば、タッチストン好みですか?」アリスがにこりと微笑む。するとタッチストンが、そんな彼女に一瞬気をとられたのか、ぱちりと大きな瞬きを一つした。そしてすぐに、嫌らしさも何も含めない素直な笑い声が、彼から生まれた。
「――あんた、ほんと、愉しいな」
「それは、どうも」
つんと再び顔を前に向け、アリスが愛想なく返事をする。それを少しも気にしていない様子でタッチストンはゲラゲラと笑い続けた。笑いすぎて顎でも外れたらいいのに、とアリスは胸の内で思った。
「――お、停めてくれ。煙草買ってくる」
笑い疲れたタッチストンが、ふと窓の外に視線を向け、売店でも見つけたのか、アリスに車を停めるよう手で合図する。それに従い、アリスは何度も冷罵とともに叩き込まれた手順でレバーとペダルを扱い、速度を落として路肩に車を停めてみせた。「Good girl.」と犬や猫に躾けをするときと変わらないような物言いでタッチストンが笑い、車から出てドアを閉める。
今回の目的は些事にも思えるが、OSSによる義足での運転適性評価だった。あんな税金の塊、吸ってて何が楽しいんだか。と思いながら、はああ、とアリスがハンドルに額をくっつけ、一人きりになった車の中で溜め息をつく。残りの道程を無事に運転して帰れる自信が、まったくなかった。
[1] シェイクスピア、松岡和子訳(二〇〇〇年)『テンペスト』、ちくま文庫、第一幕第二場
[2] シェイクスピア、福田恆存訳(一九六七年)『ヴェニスの商人』、新潮文庫、第三幕第一場
[3] 同上、第四幕第一場
[4] シェイクスピア、福田恆存訳(一九七一年)『夏の夜の夢・あらし』、新潮文庫、「あらし」第三幕第二場




