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第一幕第四場





 二〇二五年三月 デュッセルドルフ


 忍の他界した配偶者は二人とも中国人だった。特に二度目の結婚相手は、二〇二四年に中国で死刑判決を受けた忍を救った張本人で、彼女はOSSのエージェントでもあった。

 時の絶対的権力者、王国家主席の三女、王依梦(ワンイーモン)。英語名はエヴァンジェリン。愛称はイヴ。OSSで与えられた暗号名(コードネーム)は〝(さくら)〟。彼女もまた十代初めの頃から海外の大学に通っていたギフテッドであり、その頃OSSにスカウトされた。リクルーターは忍だった。

 父親に唯一歯向かった中国民主化運動の女神。「中国のジャンヌ・ダルク」と民主化の志は彼女を崇め奉った。獄中で薬物投与され、仮死状態の忍を回収して蘇生を施し、文字通り生き返らせたのも彼女だ。桜曰く「いつの間にか腎臓は一つ抜かれていたし、焼かれる寸前だしで大変だったんだから」とのことだ。

 忍が奇跡の生還を遂げて数か月経った頃、欧州に置いたOSSの拠点の一つで春の始まりをエージェントと過ごしたことがあった。予期せず雪が降り積もった、季節の境い目の夜だった。


「ところで、OSSって何の略称だ?」

「Office of Strategics Servicesでしょうか」

「それはCIAの前身ですよね」

「パクリってことぉ?」

「いや、こちらの始まりはポストWWⅠの1919ナインティーンナインティーンだぜ?」


 あらゆる電波が遮断されるシールドルームでは娯楽の数も限られる。各々がチェス、将棋等のボードゲームに加え、花札やトランプといったカードゲームに興じていたとき、萩がとある疑問を口にした。円卓とは離れた窓際の席に座っていた忍が、将棋の駒をパチンと盤面に置き、おもむろに口を開く。


「……いや。ただの、オスだろ」

「ただのオスとは?」


 菖蒲とチェスを指していた萩が振り返って忍に訊き返す。

 一瞬返答を躊躇ったのか、はあ、と忍が溜め息をついた。


「押して忍ぶ、と書いて、押忍」


 声に出した瞬間、しん、と場が静まり返った。


 忍の向かいで〝(まつ)〟が笑いを堪えながら次の手を指した音が、室に響き渡る。オープンキッチンのカウンター席に座って酒を飲んでいた〝紅葉(もみじ)〟の肩も震えていた。


「創業者は大の忍者好きだったと聞く。この会社も、どうせその趣味の延長線なんだろうよ」

「……マジかよ」

「最高にダサいですね」


 萩と菖蒲が、にわかには信じがたいが的を射ていると思わざるを得ない忍の一説に唇を歪め、目を眇める。牡丹に至っては絶句していた。菊がヒャハハハと子どものような笑い声を上げる。

 創業者が自身の曾祖父であることを告げる気は更々ないが、どうせ深く考えずにつけた機関名だろうことは忍も容易に想像できた。忍は曾祖父の人となりを知らないし、遺品として島の屋敷に遺されていたのは、床の間に飾られていた日本刀ぐらいだった。

 ――家族とは、物語だ。そう、OSSでは教えられてきた。事実と思考は別にしろ、と。事実に判断を加えてはならぬ。事実に感情移入してはならぬ。そこにある事実は自己と切り離して捉えよ、と。そのため、家族の温かみなど知らずに育ったとしても、幼少期から訓練を施されたエージェントは、他者との繋がりを一種の虚構として捉えるようになっていた。









 忍がOSSの名称に言及してから間もなく、一人のエージェントの訃報が入った。某国に潜入していた〝(うめ)〟――〝(うぐいす)〟の親だ。実際、二人の血は繋がっていなかったかもしれないが、鶯をOSSに入れた人物だった。鶯も例に漏れずギフテッドであったが、歳はまだ八つかそこらだった。OSSのスパイ養成所は、海外派遣が常のエージェントにとっては、子どもを預ける体のいい保育所となっていた。


「少しまいったよ。うるうるとした瞳で、『死んだら、どうなるの?』と鶯に訊かれたら、何と答える?」


 部屋に足を踏み入れてコートを脱いだ芒が、ヤな役回りだぜったく、と溜め息をつきながら空いていた円卓の席に腰かけた。

 忍は「炭素になるだけさ」と答えたが、夢がないねえ。と萩は笑った。

 スパイにとってのゲームオーバーは〝死〟だ。死後の世界など、夢みて何になる。

 そう反駁すれば、芒と同じく外出していた男が、忍の目の前を横切ると同時に、彼の顔にフウッと勢いよく白煙を吹きつけた。その後ろ姿を睨み、忍が顔をしかめる。


「リドル・ストーリーやな」


「その時が来るまで、誰にもわかりゃせん」煙草を口に含んだ柳が菊と萩の間に座り、長い脚を交差させながら笑った。


「この世の悲劇も究極的には〝神の喜劇ディヴィナ・コメディア〟――神(イコール)劇作家たちの一笑にすぎんらしいぜ」

「ダンテですか」


 カウンターの席についていた牡丹が、本から視線を外さないまま、ぼそりと呟く。菊がトランプを手の中で器用にシャッフルし、チェス盤や駒、本、灰皿、グラス、ジョッキなどが無造作に置かれた円卓に持ち札を配りながら口を開いた。


「主人公の死で幕を下ろすのが悲劇なら、結婚で終幕(フィナーレ)を迎えるのが喜劇よねえ?」

「シェイクスピア劇は大概それで分類できるだろうよ」


 問題劇を除いてな。と萩が菊の配ったカードを手に取り、手札の中身を確認する。話の流れを追っていた芒が呆れたように溜め息をつき、口をへの字に曲げた。


「オープン・エンディングねえ。……読者に判断を委ねるっつう作家のやり方は昔から気に食わないね」

「お子様にはわからんのさ」

「あ?」


 どすの利いた声が芒の腹から発される。萩はそれを気にすることなく、片手をひらりと上げ、問題提起した。


「忘れがちではあるが、この世には圧倒的に悲劇のほうが多いんだよ。なぜだと思う?」

「読者や観客がそれを求めているからでしょう」

「ご名答」


 間髪を容れず返された菖蒲の回答に、萩が目を閉じながら肩を竦めた。牡丹が、キッチンに立つ松からカウンター越しに注がれた酒の入ったグラスを持ち上げ、円卓に背を向けたまま話を引き継ぐ。


「アリストテレス曰く、悲劇を観た観客は一種の〈カタルシス〉を得るといいますね」

「目の前で行われる虚構の劇世界に感情移入することで、鬱屈とした日常世界から瞬間的に自意識が乖離し、自分は何者にもなりえるという人格(ペルソナ)の解放が、得も言われぬ快感をもたらすんだろうね」


 その隣で紅葉が空になったグラスを松に手渡し、背広から煙草を取り出して火を点けた。シンクにグラスを置いた先で、松が蛇口を捻り、静かに声をこぼす。


「――彼女を祭り上げた先に待っているのは、悲劇か、それとも、喜劇か……」


 流水音に紛れた松の言葉に対し、柳が手札から顔を上げ、「何が言いたい?」と訊き返す。

 蛇口を閉めた松が、顔をゆっくりと上げて、ニコリと笑った。


「彼女の〝目覚め〟が、新たな()()の始まりなんだろ?」


 静寂の霜が、室内に降りる。

 忍は窓際の席で頬杖をついたまま、外にちらりと視線を移した。窓のサッシには残雪がこびりついている。その向こうの中庭では、桜と鶯が窓から漏れ出る光の中で楽しそうに雪遊びをしていた。


「〈中国の夢〉を覆し、逆夢を起こせるのは彼女だけだ」


 湿った雪で懸命に不格好な雪だるまを作る桜を見て、ふっと笑いながら忍が呟く。その表情が視界に入ってきたのをうざったく感じたように、柳が目を眇めた。


「ほんなら、その夢物語(フェアリー・テイル)語り手(ペルソナ)は誰かいね。きさんか?」

「まさか。()()は何も語りはしない」


 視線を窓から離し、忍が柳を見て笑殺する。それに対し柳が言い返そうと口を開いたとき、カウンターの丸椅子をくるんと回して振り返った紅葉が話を遮った。


「だが、この世界で()()した。あたかもリアの道化のようにね」


 紅葉が白煙を吐きながら含み笑いする姿に、エージェントたちは一瞬気をとられたようだった。紅葉はその素顔を隠すように眼鏡をかけ、前髪を下ろし、いつも本を読んでいる男という〝根暗〟のイメージが彼らにはあった。こんなふうにエージェントの揃っている場で紅葉が饒舌なのは珍しい。いや、話の内容に興味を覚えて輪に入ってくるのが珍しい、と言えばいいか。「……そもそも奴は不死身だろう」と、払拭しきれない疑問をぶつけるように、萩が紅葉に顔を向け、意見の続きを求めた。


「不死身というよりは未知――不定数と言ったほうが正しいかもしれない。タロウ・カードにおいて愚者の札が始まりと終わり、ゼロと二十二を兼ね備えているように。……あるいはトランプでジョーカーが単なるゼロでなく最強の札としても機能するがごとく、道化というものはしばしば生や復活の象徴であり、死の象徴でもある」

「それが、リアの道化と何の関係が?」

「〈逆ピエタ〉とも言えるコーデリアの死は、()()()()()()()()()で同時に道化が復活したことを意味するんだよ」


 紅葉が煙草から口を離して、にこりと微笑を浮かべる。その突飛な結論に、何人かが堪えきれなかったように、ふはっと噴き出して笑った。


(キング)と同化した道化(フール)が、今際の王の台詞で愛する姫と結ばれる、ってか?」


「笑わせらぁ」柳が溜め息を含んだ白煙を吐き出し、「ベット」とチップを新たに投入する。それを受けて菊が肩を震わせて軽やかに笑った。


「そう考えればKing Learも見方によっては喜劇って言えるんじゃなぁい?」

「そんなことを言って許されるのは劇作家本人くらいだ」


「コール」萩が続ける。


「悲劇を書き直すなら、自身が劇作家になるしかない。イギリスでは一世紀半近くの間、テイトによるハッピー・エンド版『リア王』が舞台を席捲していたようにな」


 面白くもクソもない、改作を通り越した改悪だが。と萩は顔を歪めて皮肉に笑った。「レイズ」と菖蒲がチップを置いたあと、何でもないことを述べるように淡々とした調子で口を開く。


「つまり、愛する者と結ばれるには、どうあっても彼女は死なねばならないようですね」


 その瞬間、空気が凍りついた、と感じたのは一人だけじゃないだろう。窓際の男から発される冷気と相反して、朗らかに菖蒲が笑う。


「あれ? 僕、何か変なことを言いました?」

「いいや、別に? 続けろよ」


「コール」芒が面白そうに視線をテーブルから忍に移す。忍はそれを不愉快に感じたのか「何だ」と頬杖をついたまま重い声を発した。「何も?」と芒が即座に返し、口笛を陽気に吹く。


「言い方を変えると、彼女が夢を追って()()()()を演じ続ける限り、彼女に安寧の日々が訪れることはない、と」

「わからないぜ? 夢の中の夢、劇中劇は、世界を映し出す鏡だ。ペルソナの原義が〈仮面を通して現出する真実〉ならば、人は何かを演じることによって自身が何者であるかを認識するんだろうよ」


「それを判断するにはまだ、時期尚早だな」萩が菖蒲の仮定に口を挟む。そのとき牡丹が本を読み終えたのか、「〈ハムレットの鏡〉ですか」と顔を上げて本をカウンターの机上に置いた。菊が「道化の鏡スペキュルム・ストゥルトルムともいうわよねえ」と付け加え、「コール」とチップを差し出す。


「エラスムスの『愚神礼讃』でホルバインの描いた挿絵は阿呆らしくて最高やわ。セネカも言っとったろ。『阿呆を見るには鏡を覗くだけで事足る』とね」

「ホルバインの挿絵はブラントのDas Narrenschiffから着想を得た模倣(ミメーシス)だがな」


 忍から水を差された柳が手札を二枚捨てながら「あの時代は模倣と創造に境界線なんざなかったろう」と眉を顰める。プレイヤーの五人が山札からドローしたあと、二巡目に入ったゲームは円卓の外にいる紅葉の発言によって再開された。


「それは現代でも同じだ。ゼロからの創造なんてありえない。そして道化がシェイクスピアの独創であるわけもない。だが、彼は道化を思う存分劇世界の中で活用し、高みへ押し上げた最初で最後の劇作家だ。――では、彼の劇におけるフールの特徴は、いったい何だと思う?」

「レイズ。中世劇における悪徳(ヴァイス)の性質を受け継ぎ、舞台上でコーラス的な役割を果たす者」

「……フォールド。真実の語り手。すべてを許された者。all-licens'd Fool」

「レイズ。世界劇場の外に立ち、演者(アクター)観客(オーディエンス)を繋ぐ者」

「フォールド。価値の転倒した逆さまの世界ムンドゥス・ペルヴェルススで、絶対的な事物を相対的に見せる者」

「フォールド。自らが賢者でないことを知った愚者。賢い道化(ワイズ・フール)。ソクラテス」

「コール。フラッシュ」

「――ストレート」


 柳と菖蒲の一騎打ちになったゲームは柳のほうに軍配が上がったらしい。負けた菖蒲が柔和な笑みを貼りつけたまま牡丹の読んでいた本に視線を移せば、表紙にはA VISIONと記されてあった。


「……フールはοὐροϐóρος(ウロボロス)のように、フール自体が円環なんですか? それともその中心に立つ者がフールですか?」

「何だ。イェイツを読んでいたのか」


 紅葉が煙草の灰をカウンターに置かれた灰皿に落とし、牡丹の読んでいた本に目を留める。牡丹が首肯して「ええ」と返した。


「ならば話は早い。――フールは中心であり、周縁でもある。つまりフールは二十八相の最後を飾る一ペルソナとして円環を形作っておきながら、その中心に降り立って運命の大車輪を回す者なんだよ」


 新たなビールとグラスを持った松が、忍の向かいに腰かけ、赤々としたアルトビールを二人のグラスに注いだ。「おい。俺にもくれよ」と芒が空いたジョッキを掲げる。松が席を立ち、円卓の面々に「飲む者、挙手」と尋ねれば、「ほい」「はーい」「俺も」と返答があった。無言で手を上げた菖蒲を含め、「全員か」と松が人数を確認し、とりあえずグラスを持っている者には残りを全部注いだ。足りないグラスを補うためカウンターの向こうに松が戻る。「Danke!」と彼の背に軽い礼が飛んだ。


「――それで、道化の消滅はどう説明する?」


 忍が呷ったグラスを机上に置きながら紅葉に閑話休題を促し、話を本筋に戻す。新たな瓶を開けた松が、全員のグラスにビールを注ぎ終え、再び忍の向かいに座った。紅葉が「何も不思議なことじゃない」と一言置いて、彼の答えを開示する。


「かつてのリアは王としてeverythingをもっていた。しかし娘二人に領地を追われ、〈全〉から〈無〉、nothingへと転落した。このとき、リアは王から完全に狂人と化した。その時点で価値の転換を担う道化は己が役目を果たしたんだろう」

「コーデリアを無に帰せしめようと放った台詞が、道化の言葉――鏡によってリフレクトされたんだな」


 萩が煙草に火を点け、ふうと息を吐く。「Nothing, my lord.《申上げることは何も。》[1]」と菖蒲が円卓に両肘をつき、手の甲に顎を置いて小首を傾げた。隣に座る芒が「Nothing?《何も無い?》」と訊き返せば「Nothing.《はい、何も。》」と女性の声音を真似た菖蒲が科を作って答える。


「Nothing will come of nothing《無から生ずる物は無だけだぞ。》」

「Now thou art an O without a figure. I am better than thou art now; I am a Fool, thou art nothing.《今のお前さんは(ゼロ)だけで、その前には数字が何も附いていない。それより俺の方がまだましだ、俺は道化だが、お前さんは何でもないからな。》[2]」


 するとリア役の芒が発した台詞に畳みかけるように、菖蒲が元の低い声で道化の台詞を返し、昏く笑った。


「……そういえば、幕を一度も共にしないコーデリアと道化は、同じ少年俳優で演じられていた説もあるとか」


 仮面を替えたように菖蒲がにこりと微笑むと、菊が「へえ面白ぉい」と相槌を打った。菊に遊ばれていたトランプたちが華麗に宙を舞ってシャッフルされ、再び彼女の手元に返ってくる。


「ったく、コーデリアも阿呆よの。嘘の一つも言えんとは。口の回る二人の姉のほうがよっぽど賢いんちゃうか」

「彼女は虚飾で彩られた〈愛してる〉の言葉よりも沈黙を選んだ。阿呆らしく健気じゃないか」


 融通の利かないコーデリアを柳が嘲笑っていると、萩が彼女を擁護するように口を挟んだ。だがその目は柳と同じように、彼女の生真面目さを心底馬鹿にもしているようだった。


「死んじまえば元も子もなかろうに」

「そこが劇作家の込めたメッセージだよ。ただ〈善〉が勝つだけの三文芝居にするわけにはいかなかったのさ」


「本来、悲劇とはそういうもんだ」萩が煙草を銜えたまま肩を竦める。「King Learは長すぎて飽きちまう」と芒が退屈そうにあくびを漏らせば、「Macbethくらいがちょうどいいですよね」と菖蒲がそれに同調した。


 紅葉が煙草の火を灰皿で消し、「――確かに」と軽く腕を組んで再び語り始める。


「リアの道化は、第三幕第六場で忽然とその姿を消した。ではなぜリアは、絶命したコーデリアの遺骸を抱いて、"And my poor fool is hang'd!" と叫んだのか」


 紅葉の問いかけに萩が答える。


「そのfoolはリアの道化でなくコーデリア自身を指しているんじゃないか? 『俺の可愛い阿呆が縊られた』、とでも言えるだろう」

「No, no, no life!《もう駄目だ、駄目だ、助るものか!》[3]」

「Why should a dog, horse, a rat, have life, And thou no breath at all?《なぜ犬が、馬が、鼠が生きているのに、お前だけ息をしないのか?》」

「Thou'lt come no more, Never, never, never, never, never!《お前はもう帰って来ない、もう、もう、もう、決して!》」


 芒、柳、菖蒲が、愛娘を喪った父王の絶望など微塵も感じられないような調子でコミカルに台詞の続きを述べる。三人の軽薄な様子に呆れたのか、はあと萩が煙の混じった白い溜め息をついた。


「そうだね。だが、このfoolという一語が、観客に彼の者がかつて目の前に広がるその劇世界に存在していたことを容易に思い出させることは否めない。リアは〈全〉から〈無〉へ転落し、王から最下層の狂人に陥れられたが、その底辺を踏みしめながらも今や真実をみる道化だ。そして彼の心は道化の〈無〉が占めているのだとすると、道化と同化したリアの心から再び()()が浸出し、今度は魂の召された空っぽのコーデリアの内部を満たす。王・子・道化の三位一体(トリニティ)が悲劇の最高潮で完成した、というわけだ」

「――つまりそれが、道化の復活を意味する、と言いたいのか?」

「いかにも」

「同意しかねるな」

「別に構わないよ」


 忍の確認に対し、紅葉がある種満足げに頷き返す。忍は片眉を上げて、ふっと鼻で笑った。


「――そこでだ」


 ごほん、とわざとらしく紅葉が咳払いをする。


「沈黙好きなハムレットとコーデリアが結ばれる()()もあっていいと思わないか?」


 ぶふっとちょうど飲んでいたビールを噴き出しそうになったのは萩だった。ぽかん、と呆けた面をした者たちが、はっと我に返り、紅葉の挙げた二人に思い当たったのか腹を抱えて笑う。忍だけが、この笑劇(ファルス)の外で不快そうに顔をしかめていた。


「確かにハムレットは主人公にして道化だと言えるな」

「はっ。お(ひい)(さま)が道化の嫁になどなるか?」

「奴の佯狂は〝オフィーリア〟には荷が重すぎたか」

「そんなに怒るなよ、藤」

「抜かせ。腹の底から呆れているんだ」


 顔だけを後ろに向けて笑う萩に忍がにべもなく応える。萩は浮かべた含み笑いを隠そうともせず、「その劇で、オフィーリアやフランス王はどうなる?」と続けて紅葉に尋ねた。


「単なる端役にすぎない。まるで僕たちのようにね。出場(でば)を終えたら何も言わず袖に捌ける。リアの阿呆と同じ、名もなき道化だよ」


 それが当然の帰結だ、と言わんばかりに返ってきた紅葉の回答は至極穏やかなものだった。

 As You Like ItのタッチストンやTwelfth Nightのフェステのように、リアの道化は劇中で固有名詞を示されていない。それはシェイクスピアが至上の道化を最後に生み出した証でもあった。


「果たして、彼女は鏡の国で、どう進んでいくのでしょうね」


 菖蒲が、先ほどまでちょうど山札の置き場にされていたチェス盤を泰然と眺め、息をつく。鏡の国、という語に反応した萩が「キャロルか」とグラスを置いて煙草を口に含んだ。


「あのペド野郎が書いた物語とは思えんほど、よくできた話ではあるが……」


「そうだなあ」萩が円卓の上に吊るされた照明を見上げ、その光に目を細めながら呟く。


「――このまま駒で在り続けるか。はたまた、俺らが彼女の駒なのか」

「我々は(キング)の夢にすぎないのか。はたまた、我々が彼の夢をみているのか」

「己は蝶となった夢をみているのか。はたまた、人となった夢をみているのか」

「円環の廃墟で、魔術師に作られた魔術師は、再び己が分身たる魔術師を作る夢をみるのか」


 だんだん悪乗りをしてきたように、萩、松、牡丹、紅葉が肩を小刻みに震わせて笑い合う。


「——All perform their tragic play,《人はすべておのれの悲劇を演ずる。》[4]」


 紅葉が眼鏡の奥の瞳をすっと細めながら、唐突にある詩の一行を呟く。


「There struts Hamlet, there is Lear,《そこをハムレットが気どって歩く、そこにはリア王が、》」

「That's Ophelia, that Cordelia《あれはオフィーリア、あれはコーディーリア。》」


 芒と菖蒲が対となった節を諳んじると、柳がそのあとに続いた。


「Yet they, should the last scene be there, The great stage curtain about to drop, If worthy their prominent part in the play, Do not break up their lines to weep.《だが彼らは、最後の場が迫っても、大きな緞帳がまさに下りようとしても、劇の主役にふさわしい人間なら、台詞の途中で泣き出したりはしない。》」


 そして再び円卓に手札を配り始めた菊が「They know that Hamlet and Lear are gay《彼らはハムレットもリアも陽気なことを知っている。》」と言って新たにゲームの場を作る。そこで萩と芒が立ち上がり、松と牡丹が入れ替わりに座った。配られたカードを手に取りながら二人が口を開く。


「Gaiety transfiguring all that dread.《陽気さが恐怖をそっくり変えてしまうのだ。》」

「All men have aimed at, found and lost《人は誰しも、目指し、見出し、失ってきた。》」


 続けて萩が「Black out; Heaven blazing into the head《暗転。天が燃えて頭のなかにはいる。》」とカウンター席に座りながらグラスを机上に置く。その隣で紅葉が「Tragedy wrought to its uttermost.《悲劇は極点に達した。》」と付け加えた。忍が煙草を唇から離し、ふうと息をつく。


「——Though Hamlet rambles and Lear rages, And all the drop-scenes drop at once

 Upon a hundred thousand stages, It cannot grow by an inch or an ounce《ハムレットがしゃべり、リアが猛り狂おうとも、十万もの舞台で すべての幕切れがいちどきに来ようとも、悲劇はこれっぽっちも高まりはしない。》」

「悲劇と悲劇、陰と陰を掛け合わせたら陽の喜劇になるってか」

「虚構と虚構の組み合わせは、もしかすれば現実になるかもしれないわねえ」

物語の書き直し(ライティング・バック)、もとい夢の見返し(ドリーミング・バック)の始まりというわけだ」

「This prophecy Merlin shall make; for I live before his time.《この予言は、アーサー王お抱えのマーリンに言わせよう。だってさ、おいらが生きてるのはそれよりずっと前の時代なんだから。》[5] ――そして嵐の中、リアの道化が未来でマーリンが()()()()()()を予言したように、彼の身には時空や次元の桎梏など到底及ばない」「劇世界の鏡を透過する者ですか」

「なるほど。フールは境界に立つ者、というよりは、境界を破壊する者だということですね」

「然り」

「紅葉の予言に一票を投じておこうか」

「果たしてその予言が達成されるのはいつになることやら。リアの時代はアーサーの生まれる千年以上も昔の話だという」

「——the rest is silence.《あとは、沈黙。》[6]」


 忍が息をつきながら呟く。すると窓の外で何かを見留めた彼は、煙草の火を灰皿で消し、唐突に席を立った。ジョッキを持って松の座っていた椅子に腰かけた芒が窓に目を向ける。外に出ていた桐が中庭で雪遊びをしていた二人の前に現れ、鶯の躰を軽々と抱き上げていた。そして寒さで紅くなった桜の鼻を笑いながら摘まんだとき、忍はドアに向かって既に歩き出していた。彼が部屋から立ち去ったのを見届けた紅葉が、ふ、と笑みをこぼし、道化師の予言を語る。


「Then shall the realm of Albion

 Come to great confusion:

 Then comes the time, who lives to see't,

 That going shall be used with feet.

《さて、そのときは、わがアルビヨン王国は、

 大混乱におちいるだろう、

 さて、そのときは、わが愛すべき人間は、

 足を使って歩くだろう。》[7]」

「やれやれ。We'll go to supper i' th' morning.《夜が明けたら、夕食を摂ろう。》[8]」

「And I'll go to bed at noon.《それなら俺は、日が昇りきったら、寝かせて貰おう。》」


 リアの道化が姿を消す間際に発した台詞を述べて、芒と萩が酒を呷る。OSSのエージェントがこうして直接、面と面を合わせて、一堂に会する機会はひどくまれだった。

 他愛ない話を、久方ぶりに交わしていく。誰も口にしないとはいえ、みな目が冴えているのだろう。同胞への弔い酒などではないが。

 今夜は、眠れそうになかった。










[1] シェイクスピア、福田恆存訳(一九六七年)『リア王』、新潮文庫、第一幕第一場

[2] シェイクスピア、福田恆存訳(一九六七年)『リア王』、新潮文庫、第一幕第四場

[3] シェイクスピア、福田恆存訳(一九六七年)『リア王』、新潮文庫、第五幕第三場

[4] 高松雄一編(二〇〇九年)『対訳イェイツ詩集』、岩波文庫、「ラピス・ラズリ」

[5] シェイクスピア、松岡和子訳(一九九七年)『リア王』、ちくま文庫、第三幕第二場

[6] シェイクスピア、小田島雄志訳(一九八三年)『ハムレット』、白水社、第五幕第二場

[7] シェイクスピア、小田島雄志訳(一九八三年)『リア王』、白水社、第三幕第二場

[8] シェイクスピア、福田恆存訳(一九六七年)『リア王』、新潮文庫、第三幕第六場

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