第一幕第三場
二〇三一年四月 虎ノ門
「誰でしょう」
「次のマトだよ」
座長の〝桐〟が執務室で煙草を燻らせている。桐に呼び出された押淵忍は、ペンパッドから顔を上げ、当を得ない、とでも言うように小首を傾げた。彼は〝藤〟という暗号名を与えられたエージェントである。気怠さを隠そうともせず、無精ひげを生やし、目の隈も消えていない、くたびれた昏い雰囲気の男だ。それに反して桐は、髪を紳士然と品よく固め、オーダーメイドスーツに身を包み、実年齢よりずっと若々しい印象を周囲に与える初老の男だった。
OSSは、第一次世界大戦後、忍の曾祖父が興した商社である。今では世界各国に支社が置かれ、表向きには商社や官公庁向けのコンサルタント、総合研究所などを標榜しているが、その実態は民間の諜報機関だ。人工衛星の打上げも積極的に行っており、世界中のギークを集めたハッカー部隊も稼働している。忍は、人的情報収集に特化した諜報員としてのイロハを幼少期より叩き込まれた、いわばエリートスパイであった。
「NINEから拾えたキーワードは、Jレク、官邸報告資料、Jの出張期間等々の機密事項。トーク履歴から、こいつがNIIA職員だってことはわかっている。暗号名は〝ピノキオ〟。採用年度は令和十二年」
「NIIAの保全意識もまったく大したことないすね」「内部のイントラネットよりNINEのほうを信用している幹部もいるって話だ。ばーかばーかあんぽんたん」
OSSは日頃からNIIAの尻拭いをさせられているのもあり、桐はNIIAのことになると語彙力が幼稚園児並みになる。NINJの提供する純国産トークアプリ、NINEは、ペンホを持っている者であれば誰でもインストールしていると言っても過言ではないほどメジャーなものだ。かつて総理の興した会社が作ったアプリというのもあり、官公庁の職員も安心して使っているというわけだ。またJとは、国家情報庁長官の隠語である。
「それで、私はいったい何をすればよいので?」
「惚れさせろ」
「――はあ?」
ここは仮想敵国でもないのに、そういった色恋ありきの任務を与えられるとは聞いたことがない。思わず素っ頓狂な声が出た。
「……そのあとは?」
「当然、スカウトだな」
「はあ」
国家情報庁(National Intelligence and Investigation Agency)――通称NIIAは、不名誉なことに〝世界最弱の情報機関〟と各国より称されている。山井平松総理のテコ入れをきっかけに、体裁だけは何とか保てるようになったものの、未だ組織の幹部は他省庁からの出向者が大部分を占め、内閣情報局時代と同様、警察の一出先機関と捉えられているのもある意味仕方がない。
NIIAとOSSの徹底的な違いは、OSSは国益ではなく社の利益で世界を見ているため、各国で情報を共有、でなく、売買しているという点であろう。そしてNIIA職員は外交官として海外に派遣されるが、OSSのエージェントは一般旅券で入国し、商社マンや記者、研究員などの皮を被って現地の協力者を獲得するのに何年間も潜伏するのが常だ。また、現地人と婚姻関係を結んだり、国籍を取得して日本国籍を捨てることも珍しくはない。
公用旅券(緑パス)や外交旅券(茶パス)での渡航は公務員としてある程度の安全が確保されているということだ。とりわけ外交官はPNGとして帰国することができる。だが、一般旅券の赤パスで行くとなれば。もう二度と帰っては来られない危険性もある。現に、OSSエージェントの中には「生死不明」と判断された者も少なくない。
「この女は、果たしてウチに必要な人材なんですか?」
忍がペンパッドに表示されたマトのプロファイルを眺めながら言った。米国で生まれ、日本で幼少期から大学までを過ごし、米国の大学院を出て修士号を取得している以外に、何か特筆すべき点があるようには見えなかった。
「そいつは、まだ市民権を持ったままなんだよ。米国の」
「へえ。二重国籍ですか。そんな人間をNIIAは雇ってよいので?」
「日本国籍選択の義務は果たしている。が、米国籍離脱手続きは金も時間もかかるからしていないとさ。普通は採用時点で振るいにかけるべきところだが、どうも紛れ込めているらしい」
「それはまた……ガバガバな組織ですね。つまりはこの米市民権を利用したいと? 今更そんな必要ありますかね」
「駒は多いほどいいからな」
ふーっ、と桐が白い煙を勢いよく吐く。執務机を隔てて桐の正面に立っていた忍は、その煙が顔に直撃したのか、目を眇めながら手で煙を払い、ペンパッドを机上に置いた。
「プロファイルは記憶したか? これがマトの使っているペンホの複製だ」
ペンホを投げて渡される。パシ、と片手でキャッチして、忍がペンホを開けば、猫の写真を壁紙に設定した画面が現れた。しかし、パッと見て必要最低限のアプリと連絡先しか入っていないのが目についた。NINEのトーク履歴を遡る。同僚からは〝ピノコ〟という渾名で呼ばれているらしい。
「やけに殺風景ですね」
「ペンホにデータを残していない点は合格だな。生体認証が必要なアプリも少なくない。それらを置いても、前情報はひと通りフォローしておけよ」
「まあ、やれるだけのことはやりますよ」
忍がペンホを閉じてジャケットの胸ポケットに差し、肩を竦める。踵を返し、忍はドアの横に設置された静紋認証装置に手をかざした。カチッとロックが解除され、ドアを片手で押したところで忍が振り返る。
「今日は参加されるんで?」
「ああ」
「では、後ほど」
頭を軽く下げ、忍は桐の執務室を後にした。
『忍。ちょっといいかい?』
ビルを出たところで複数のペンホのうち一本が振動した。ペンホの先端で充電されていた小型イヤホンを片耳に装着する。
当代の総理、山井平松風光からの着信だった。 はあ、と思わず溜め息をつく。碌な用事じゃないことくらいは容易に想像できた。
『〈ガルガンチュワ〉でいつものクッキー缶と〈ソレイユ〉ってフルーツケーキ買っといてくれないか』
忍の予想をさらに超えたあまりにも取るに足らない二言目が風光から発される。忍は深く、深く息を吐いた。
「んなの秘書官に頼めよ」
『彼らは多忙なんだよ? パワハラって言われちゃうじゃないか』
顔は見えなくとも、むう、と風光が唇を窄めている絵面が脳裏に浮かぶ。こんな道化が一国の首脳とはこの国の趨勢も暗澹たるや、と死んだ魚の目をしながら忍は思った。
「部下たちの苦労が目に浮かぶ。心底同情するね」
『それでも彼らは俺に心酔しているからね。正直気色悪いよ。目の前の人間が狂っていることにも気づかない。例えばそうだな、俺がドン・キホーテだとしたらお前はサンチョパンサだ。これからもしっかり主君の奇行を諫めてくれよ』
「はあ? 田舎者って言いたいのか? 島生まれは貴様もだろうが」
風光と忍はほぼ同時期に同所で生まれた義兄弟と言える存在だった。そのため互いの考えていることが手に取るようにわかる。しかしこの男が政界に進出すると聞いた日には、とうとう気でも違えたかと鼻で笑ったが。
「円卓会議には出るのか?」
『いいや、今ちょっと立て込んでいてね。またの機会に。Ainsi prevoy je mes bons amys, que vous dorenavant jouerez bien ceste tragicque farce[1]《諸君は、これからも、この悲惨な笑劇を、さぞかしじょうずに演じてくれるにちがいない。》[2]』
面白い話、待ってるよ。
風光の言葉を最後に通話が切れる。総理のスケジュールは分刻みで管理されている。のは重々承知しているが、じゃあ買ったやつは俺が届けるのかよ、と忍はイヤホンを外しながらげんなりした。
(――主君、ね)
言ってくれる。と忍は皮肉に目を細めた。忍は生まれてこの方、日本のために働いたことなど一度もないと断言できる。任務の達成は一種のゲーム感覚に近かった。任務の難易度が高いほど報酬額も億単位で増え、その金を使ってさらに質の良い情報を買い、エージェントとしての利用価値を上げていく。
しかし風光という人間は、いつも忍の予想を裏切る行動をする。そしてそれが世界を変える様を忍は何度も近くで見てきた。彼のカリスマ性を目の当たりにしたのだ。日本という国家のためでなく、この男のためになら働いてやらないこともないという〈義〉が忍に湧いた。風光は周りの「心酔」が「気色悪い」と言ったが、風光の表側しか見えていない人間がそんな態度をとるのも無理はない話だった。
――この男は、将来、世界に名を遺す男だ。歴史に名を刻む者だ。
それに気がついたとき、思わず身震いがしたのを憶えている。 表舞台から世界を操ることを奴が選んだのであれば、自分は黒子として陰から支えてやろう。
そう思った時点で主君を諫めるどころか、ともども破滅に向かっているのかもしれないが。
虎ノ門から二十分ほど歩けば帝国ホテルに到着した。ラブレーの物語名を掲げた一階の洋菓子店に入る。「Enquoy congnoissez-vous la folie antique? Enquoy congnoissez vous la sagesse presente? Qui le fist fat? qui l'a faict sage? Le nombre desquels est plus grand, ou de ceux qui l'aymoient fat, ou de ceux qui l'ayment sage?《みなさまは、いにしえの愚かさを、どこに認識しているのでありましょうか? そして現在の賢さなるものを、どこに認識しているのでありましょうか? はたして、だれが世界を愚かにし、だれが賢くしたのでしょうか? 愚かな世界を愛した人々と、賢い世界を愛する人々では、どちらの人数が多いのでしょうか?》[3]」などという前口上は何百年経ても至言だなと思いながら。
「斎藤様、お待ちしておりました」
買い物を終え、紙袋をいくつか携えた間抜けな姿で本館の四階に到着すると、老紳士が目の前に現れた。彼の暗号名は〝マスター〟――OSSの構成員だ。そして〝斎藤〟は忍の偽名の一つだった。そのまま〈梅の間〉に通される。マスターは忍の持っていた紙袋を預かり、それらを荷物置きの上に置くと、部屋の外へと消えた。
室内には円卓が鎮座ましましている。円卓とは別に待合のための一人掛けソファーが複数置かれており、既に一人の男が煙草を吹かしながらその一台に座っていた。
「げえっ。帰国早々、きさんの面は見とうなかったなあ」
あからさまにぶつけられた敵意に、忍も不快感を隠さなかった。「こちらの台詞だ」と吐き捨てながら忍が男から離れたソファーに腰かける。男の暗号名は〝柳〟。柳である間は、色んな土地の混じった方言をわざとらしく使うのがまた忍の癇に障った。
「ったく、辛気くそうて敵わんわ。煙草がまずうなる」
「貴様に吸われる煙草が可哀想だよ」
「あ? クラすぞこら」
相手に向かって一人が中指を立て、一人が親指を下げてみせる。忍は柳に視線を向けないまま背広から煙草を一本取り出し、オイルライターで火を点けた。 そのとき、柳のペンホが振動した。左腕に着けたNinJ Watchの表示を確認した柳から「げえ」と辟易した声が再び漏れる。
「――やあ、どうしたんだい。……ああ。日本には無事到着したよ。……寂しいだって? はは、俺もだよ。うん。すぐに君のもとへ戻るから」
声色を変えて電話に出た男の右手薬指には金の指輪が光っていた。
柳の配偶者はロシア人。日本語学科を卒業したあるオリガルヒの御令嬢だ。柳が作った情報網は前任の〝柳〟から引き継いだものを含めクレムリンの中枢に入り込んでおり、その点は忍も高く評価していた。顔を合わせれば罵詈雑言のなすりつけ合いになるのは必至だが。
OSSのエージェントは結婚なんてものにそもそも幻想を抱かない。婚姻届を指して「こんなの、ただの紙切れじゃないか」と一笑に付す酔狂な人間の集まりだった。例に漏れず忍も二度の結婚を経験している。そしてその婚姻はどちらも配偶者の死で幕を閉じた。
ペンは剣よりも強し。ペンホの数だけ、エージェントは顔を使い分けている。
「ああ。愛してるよカーチャ。神に誓って本当さ」
噴き出しそうになったのを忍がすんでのところで堪える。無神論者がどの口で言う。
口を片手で覆い、あさっての方を向いて煙草を喫んでいると、手短に通話を終えた柳が「なに笑っとんのかて」と灰皿の置かれたローテーブルを忍に向けてカツンと蹴った。
「躾けなし子とは口を利かない主義なんでね」
「きさんさっきからなめとんのかワレ。あ?」
「おいそこのキャッツ。いい歳こいてカッカするなよ。さっさと円卓に着かんか」
「誰がキャッツやねんおっさん。しばくぞ」
「おーこわ」
スラックスのポケットに片手を突っ込んだ桐が颯爽と室に現れた。ということは、円卓会議の参加者のうち、ちょうど日本にいてここに来られるのはこの三名のみということだ。
煙草の火をガラス製の灰皿で消し、忍が立ち上がる。同じ動作を柳が行い、三人が円卓の席に座った。各々が机上の穴にペンホを差し込み、スポーツサングラスを模したVRグラスを装着する。グラスを通して円卓の席に現れたのは、複数の仮面だった。小面、般若、狐、天狗など形は様々だ。自身の姿は見えないが、忍の面は火男だった。
「さて。諸君、報告を願おうか」
円卓会議の座長――桐が言った。ぬぼうっと暗闇に翁の面が浮かび上がる。
OSSの存在は、その名前から秘匿されている。表向きの社名は掃いて捨てるほどあり、百年近く世界を舞台に暗躍してきた組織の名を、構成員の中でも限られた者だけが知っていた。
「〝スタヴローギン〟のパラノイアは手ェつけられんとこまでいっとるわ。側近という側近の言にも耳を貸さんくなっての。大粛清の再来やって周りは嘆いとったわ」
アルレッキーノの黒い猫の仮面――柳が口を開いた。「二正面作戦は愚の骨頂やて歴史が証明しとるんに。思いのほかバカでこっちは助かっとる」と付け加え、柳がケラケラ笑った。
コンココン、と特徴的なノック音のあとにマスターが盆に茶器を持って入室する。希望を聞かずとも、桐にはコーヒー、忍には紅茶、柳にはコーヒーに砂糖とミルクを添えてサーブが行われた。マスターが音もなく室を出る。
『ほう。四十にも満たぬ歳で大統領にさせたのは時期尚早だったか。ないしはこちらの思惑通りか。果たして我が邦のスタヴローギンはどうなるかな』
烏天狗――〝萩〟が応える。
「アレは心配ないだろう。そもそも奴の辞書に憂鬱は載っていない」
『暗い・長い・しんどいはロシア小説の三拍子。ひいては国民のアイデンティティってわけえ』
忍が肩を竦めながら返すと、小面――〝菊〟が「キャッハハ」と甲高い声を上げて笑った。
『こちらとしては、奴が総理になってくれてから仕事が各段にやりやすくなって助かるよ』
『それは同感ですね』
猿田彦面――〝芒〟の率直な感想に、狐――〝菖蒲〟が賛同の意を示す。
「ついさっき、周りのイエスマンが気色悪いとぼやいていたな」
『はは。大量に人が近づくってのは政治家にとっては弱みにもなるからな。だが奴は担がれて終いになるタマじゃなかろう』
『他党から命からがら逃れてきた腰抜け二世どもか? そもそも彼奴らは政策に関心がないんだよ。政策に関心がなければ政治家などさっさとやめちまえばいいのにな』
『政策に関心がないのに政治家をやっているというのもおかしな話ですよね』
『関心がないというよりも、人から話を聞いて理解した気になりそこで終わるのさ。奴ら勉強会だの何だので話を聞くことは聞きたがる。が、聞いて終わり。給料もらうだけもらってるぶん学生よりタチが悪い』
「日本人は長らく悪習に囚われとんのや。〈物言えば唇寒し秋の風〉ってな。強いて提言なんぞせずステルスに生きて最後まで生き残るのが美徳やと。リスクをとらんってのは何もせんことと同義や。まあそんな体たらくで済んどった時代も終わったでの」
「議員定年制の導入に加え、議席の定数を削減したのは正解だったな」
萩、芒、菖蒲、柳の面が発言に合わせて揺れ、その瞳がチカチカと紅く怪しげに光る。忍は、さっきから一言も声を発しない面を視界の端に捉えた。「――〝牡丹〟」と、桐がその者に発言を促す。ゆらり、と般若の面が揺れた。
『……〝ムスタファ・モンド〟は裏で王国と手を握っています。表向きには罵り合い、アトリビューションを躱す形で代理国を使いながら石油施設への軍事攻撃は繰り返していますが……。夫人が〈女子会〉でもこぼしていました』
『やれやれ。なんとまあ表に出ている歌舞伎外交の信用できないことか。今頃、OZが石油を掘り当てていなければと思えばゾッとするね』
芒が牡丹の報告に声を被せる形で反応する。OZとはOSSの傘下に置かれたエネルギー関連会社の一つである。
『中東は〈敵の敵は味方〉って連立方程式で動いているからな。善悪で考えたらおしまいさ。サバイバルゲームと同じ。影響力の問題だよ。自国が生き残るかどうかの瀬戸際で手を差し伸べてくるのが、たとえ極悪人だったとしても手を握っちまう。そしてその後はまた戦争をおっぱじめる』
「時に中東はその連立方程式すら成り立たなくなるがな」
『日本人の脳みそは未だに善悪の二項対立で考えるからなあ。そろそろトムのあんぽんたんどもに「諜報とは何か」をわからせろよ。尻拭いさせられるこちらの身にもなってみろってんだ。今年だけで既にリーク事案が三十件だぞ。外交官ってのは何であんなに口が軽いんだか』
「モスクワ国際関係大学やとな、一番成績の良い奴が露外務省の中東担当にいくで。次点はだいたい米と欧州。一番成績不振の奴がアジアかアフリカに配置される。つまり、ある程度頭の回転が速くなけりゃ、どういうふうに中東諸国が動くかを理解したうえで、これから彼奴らがどう影響力を拡大してこうとしとるかってのを見ぃきらんのやろ。米や欧州はある意味楽よの。あんなんでも軸がはっきりしとるけな」
『その重要度からいうと日本のトムは逆に考えていますよね。優秀な方もいないことはないので一概には言えませんが。第四希望に書いた言語で、まさか自分が中東に、と渋々派遣されてる方が多いと見受けられましたので』
現地で苦労しているのか、牡丹の溜め息が聞こえた。その嘆息は忍がカップをソーサーに置いた音を相殺するほどだった。またトムとは、外務省の「外」をタトに分解し、タトムと読んだ隠語の短縮形である。
「明日、全人代の再延期が正式発表となるが……。そもそも省レベルの人代が終わっていないゆえ開きようがない。これで事実上、王主席訪露も延期。玉突きで日程が変わる」
『いつまで先送りがもつかね。もう長かねえんだろ? あのプー太郎も』
「影武者はこちらでコントロールしているとはいえ、な。ゴーサインを待っているところだよ」
『インドってあんなに立派なエコノミストいっぱい抱えてるのに、何でそんなに輸出は悪で輸入は善だってなるのぉ? 政治家がバカだからぁ?』
『へえ。その保衛部の男はどうやって人造人間19号の情報を持ち出してるんですか?』
『昔はUSBだったが、近頃はmicroSDだな。煙草ケースの底に入ってたときもあるぜ。あちらさんの内部文書って面白いんだよ。19号や18号、17号の名前は特殊なフォントを使ってるからまずこちらの端末じゃ表示されないね』
「なんやとコラ。こんあかんたれが」
「そろそろ瞬間湯沸かし器のごとくキレるのも飽きないか? 短気で癇癪持ちの黄胆汁気質は大変だな。心が落ち着くようカモミールティーでも淹れてもらえよ」
「黙れ黒胆汁野郎」
「f. epaticque.《胆汁過剰愚者》[4]」
「f. spleneticque.《憂鬱症愚者》」
『f. fatal.《宿命の愚者》』
『f. Genial.《天才愚者》』
『f. Imperial.《帝国の愚者》』
『f. Royal.《王さまの愚者》』
『f. ducal.《公爵の愚者》』
『f. souverain.《至高の愚者》』
「f. Metaphysical.《形而上学的愚者》」
「f. de levant.《東方の愚者》」
『f. soubelin.《至上の愚者》』
「f. allegoricque.《寓意愚者》」
「f. tropologicque.《寓喩愚者》」
「f. susanné《時代遅れ愚者》」
「f. rusticque.《田舎愚者》」
『f. fanaticque.《熱狂愚者》』
『f. fantasticque.《空想愚者》』
「Order, order!《静粛に》」
会議が始まって一時間ほど経ったところで、忍と柳が言い合いになった。おとなしく定位置について報告していた面々も二人に追随するように笑い声を上げ、口笛を吹きながら円卓上を猛スピードで仮面が飛び交い始める。場を収めたあと、はあ、と溜め息をついたのは桐だった。
「語り足りぬ者はそのまま語り尽くすように。本日はこれにて」
解散。 フッと翁の面が消えると同時に、桐が席を立った。室の外にいたマスターが扉を開け、直立したままその場に控える。
『座長、呆れていましたね』
『パニュルジュの金玉ブラゾンでないだけまだマシさね』
エージェントたちの汚言を搔き消すように忍がVRグラスを外し、通信を切った。柳はまだグラスを着けたまま口角泡を飛ばすほど舌を回していた。
「藤。チェックを頼む」
振り返った桐が忍に視線を送った。「宛名は?」と忍が腰を上げながら尋ねる。
「〝狂ったお茶会〟」
「了解」
これから空路で出国するのだろう。桐は足早に去っていった。
この円卓会議に参加するエージェントはみな〈ギフテッド〉と言えた。十歳にも満たぬうちに大学を卒業し、十代で修士号、さらには博士号を取得する者もザラにいる。OSSの構成員数は国内外で三十万人ほどだが、その中でも語学力に長け、演じることに優れた者が世界中でヒューミントに携わっていた。
とはいえ、忍にとっては、すべてが、暇つぶしだった。
「――そろそろ二年になるか」
忍が会計を終え、手荷物を取りに戻ったとき、ようやく柳はVRグラスを外した。椅子に腰かけたまま、ちろり、と試すような視線を向けられる。忍は柳の言う「二年」が何を意味するかすぐにわかった。が、無視を決め込もうと何も反応せず忍は柳に背を向けた。
しかし、柳はそれを許さなかった。
「ロミオが死んじまってからなあ、ジュリエット」
「……誰がジュリエットだ」
立ち止まり、眉間に皺を寄せた忍が、ゆっくりと顔を動かす。 その瞳に宿っていた感情は、殺意か、憤怒か。 やっと仮面を一つ剝がした男に対し、ニイ、と柳がほくそ笑んだ。
[1] Rabelais, François. Les cinq livres des faits et dits de Gargantua et Pantagurel. Ed. Marie-Madeleine Fragonard et al. Paris: Gallimard, 2017.
[2] ラブレー、宮下志朗訳(二〇〇九年)『第四の書 ガルガンチュアとパンタグリュエル4』、ちくま文庫、第13章
[3] ラブレー、宮下志朗訳(二〇一二年)『第五の書 ガルガンチュアとパンタグリュエル5』、ちくま文庫、「フランソワ・ラブレー先生の前口上」
[4] ラブレー、宮下志朗訳(二〇〇七年)『第三の書 ガルガンチュアとパンタグリュエル3』、ちくま文庫、第38章




