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第一幕第一場





 二〇三一年四月 赤坂 


「つまり、」


 突如、真正面から突きつけられた抗いようのない宣告に、ピノコは思わず唾をごくりと呑み込んだ。腿の上に置いた握りこぶしが、微かに痺れ始めた気がする。だが、胸の奥に込み上げる、この行き場のないやるせなさを逃そうと、両の腕に力を込めすぎたのではない。おそらくは、単に酒を飲みすぎたのだ。


「私は、非モテ、と」

「はい。残念ながら」


 目の前に座る(エース)先輩は、遠い親戚の通夜で、心のこもっていない「ご愁傷様です」のお悔やみを投げかけるように、わざとらしく神妙な顔を作って頷いた。ピノコが、ガクンと項垂れて肩を落とす。


「安心してください。俺も非モテですから」

「アイドル並みに美人なお嫁さんもらっといて何を仰いますか」


 試験前に自分は全然勉強していないアピールをしておきながら、いざ試験後に蓋を開けた際、平均点は余裕で超えた答案用紙をまざまざと見せつけられている気分だ。実際に彼の配偶者を拝見したことはないが、数年前に飲み会で写真を見せてもらったという人物から「あんまし憶えてないけどめちゃ可愛かった」とのタレコミがあった。そして先輩もそれを否定しないのだ。まあまあ、次は何を飲みますか、と先輩に尋ねられ、梅酒ロックで、と答える。先輩は個室の襖を開け、ちょうど通りがかった店員に向かって、さっきとは違う日本酒と梅酒ロックお願いします、と軽やかに伝えた。


「重要なのは、モテか非モテかを分類する上で、実際にモテるかどうかは関係ないということです。ピノコさんは、紛れもなく非モテに分類されます。先週、彼氏と別れて、何もすることがなくなった初めての週末、あなたは何をしましたか」

「……前々から気になっていた特別展をやってる博物館に行って、……仏像を……見ました」

「仏像を、おひとりで」

「悪いんですか!」

「いえ、とてもすばらしいことと存じます」


 いいですよね。あの古拙の微笑アルカイック・スマイルが。と先輩が目を閉じてうんうんと頷き、賛同の意を表明してみせる。そしてすっと瞼を開き、菩薩のような憐憫の眼差しをピノコに向けた。


「モテと非モテについて、改めてざっくり定義してみると、モテは『社会や他者が用意したモノゴトに対して、素朴で単純な受動性がある』と言えます。つまり、他者から口説かれることに慣れているんですね。消費者的とも言い表せるでしょう。他方で非モテは、『社会や他者によって与えられたモノゴトを、まずまともには受け取らない』……つまりは自分から外界を口説きにかかるんです。非モテの人間は、『今、目の前にある楽しさや面白さ』について、わざわざ一枚ないしは二枚以上ものハードルを課して、一考します。今、みんなが楽しんでることが目の前にある。でも、それってホンモノなのかな? と問うたりしながら。そしてその中で、しだいに浮世離れしていき、社会や他者を滅却して、今生きている時代とか若い連中の感覚とかに目をつぶるようになると、非モテの奈落がぽっかりと姿を現すんです。そのとき、非モテの中でも六割くらいは、いわゆるヲタク的な自我に呑まれて、具体的な他者との関係を切り、さらに新しい関係を結び難くなってしまいます」

「すみません、酔いが回っているのか、仰っている意味が、よくわかりません」


 先輩の説明を、素面と言っても差し支えないほどの面白さを保ちながら聞いていたピノコは、眉根を寄せて首を傾げた。いや、理解はできたつもりだった。ただ、それは表面的な言葉の意味だけで、先輩の伝えたい深層、おそらく真相ではないと感じた。正に微分積分いい気分、微かに分かった積もり、にすぎないのだろう。


「非モテだからといって、実際にモテないという意味ではありません。ですが、非モテの女子には、非モテの男子しか相手に考えられないのです」

「それは、いわゆる、偏見というやつではありませんか」

「そうかもしれませんね。ですが、それはピノコさんが身を以て体験されたのでは」

「……うっ」

「眩しかったんでしょう?」


 クリティカルヒットだった。元カレ、と呼べるかはわからないが、この数か月間、いわゆる〝モテ〟の彼に合わせるのは「しんどい」以外の何ものでもなかった。眩しかった。そう。眩しかったのだ。キラキラと世の中に対して消費者的に生きることのできる彼が。仏像展、観に行きたいんだよね。なんて、口が裂けても言えなかった。彼の趣味はボルダリングやグランピング、ゴルフ、フットサル。おそらくモテの方々にとっては、〈映え〉ないと、遊んだことにならないのだ。という捻くれた思考しかもち得ないから、こうして先輩から非モテ判定を受けているのだろう。


「……生まれてくる時代を間違えたって、思ったことあります?」

「そんなのしょっちゅう考えてるよ」


 先輩はある種開き直るように言って、にこりと微笑んだ。酒に弱くはないけれど、強くもない先輩の頬は紅く、その瞳は片眼だけ少し潤んでいた。ピノコが、はあと深い溜め息をつく。


「モテの方々は、そんなこと思わないんですよね」

「ピノコさんもだんだんわかってきたね」

「できれば図書館に住みたいとかも」

「無論、モテの方々は、思わないでしょう」


「非モテでもなかなか思いませんから」先輩は少なくとも自分は思ったことないな、とでも言うように、肩を竦めた。


「生まれ変わるなら、ねえ」


 失礼いたします、と一声かけられて開けられた襖から給仕の女性が現れる。お盆から新しい飲み物が机上に移され、空になったグラスを回収し、すすすと女性は襖を閉めて去っていった。

 先輩が新しくやってきたおちょこを、ぐいと呷る。左手の薬指に嵌められた指輪が照明に反射して鈍く光った。


「もし昭和初期に生きていたら、俺は、たぶん、二・二六事件で高橋是清とかを殺した側だったと思う」

「ほほう。なるほどわからん」


 ふむ、と眉を顰めて頷きながら、ピノコが腕を組む。「名宰相と謳われた彼を殺すなんて、罪深くはあるよね」と先輩は他人事のように付け加えた。

 ピノコは自分が昭和初期に生きていたら、何を考えただろう。と一瞬想いを馳せた。

 その時代の価値観で物語を語る、とは、どういうことか。あれから世界は「近く」なったのか。「遠く」なったのか。昨今、戦争や疫病のせいで飛行機が飛ばない時代よりも世界が遠く感じることだってザラにある。都市封鎖。ブロックアウト。外交、観光業の死滅。立入禁止区域。国境閉鎖。鎖国――。他方でNINJの開発したROOM(ルーム)というオンライン通話アプリを使えば、地球の裏側で開催されるウェビナーにだって容易に参加することができる。昨今の大学の授業も、もはやそれなしでは成り立たなくなっている。


「こんな世の中で、弊社もこれからどうなるんですかね。若手の離職率がハンパないですし。採用数が少ないわりに私が入ってから既に五人の方が組織を去られました」

「ええ。俺もとうとう同期が瓦解し、ぼっちになってしまいました」


 国家情報庁(NIIA)プロパー職員の中には、ピノコや先輩のように自分たちのことを弊社と言ったり、我が社と言ったりする者もいる。ピノコは二〇三〇年、先輩は二〇二五年採用であるが、二人とも国家公務員試験合格後、三年の猶予を活用して修士号を取得した変わり種でもあった。二人の年齢差は五つであり、ピノコは今年、二十六になる。


「ピノコさんは、どうしてウチに入ったの」

「日本の安全保障に直接貢献できる場で働きたかったからです」

「どうしてウチに入ったの」


「というのが表向きの理由でして」とピノコが付け加える前に、先輩にもう一度、ニコリ、と笑顔で問いかけられた。彼に誤魔化しはなかなか通用しないのだ。 


「単に、スパイって生き物は、面白そうだなと思ったからです。ま、ほんとに受かるとは思ってもみませんでしたけど」

「じゃあ、ウチに入ってけっこうガッカリしたんじゃない?」

「いえ、そんなことは。元々そんなに期待していなかったので」


 二〇二九年に内閣情報局は国家情報庁へと格上げされた。山井平松総理が就任した二〇二八年から国家公務員法も形を変え、総合職、一般職といった括りもなくなった。えらくメディアからの脚光も浴びたが、実際は何の変哲もない木端役人であることに変わりはない。


「先輩はどうしてウチに?」

「親米保守の欺瞞を暴くため、ですかねえ」

「わー、総理と一緒のこと言ってるー」

「言っておきますが、俺は選挙前に入社していますので」

「そういえば、私との採用面接時にも仰ってましたね。時代の先駆けってやつですか」

「違います。復古主義です」

「尊王攘夷運動ですか? 時代が時代なら維新志士ですね」

「そんな大層な肩書き、いりませんけどね」


「所詮、影武者ですよ。歴史に名を遺すこともない」先輩が、ふっと息をついて笑った。彼は笑うと殊更幼く見える。失礼いたします、と先ほどの女性とは違う店員が襖を開けて、茶碗蒸しをコトリ、と置いていった。


「ピノコさんはなぜ英文学を専攻されたんでしたっけ」

「そりゃ、敵を知るためですよ」


 かつて七つの海を支配し、今は日が沈みかけた大英帝国のナラティヴを理解しようと思いまして。

 ピノコが茶碗蒸しを口に運びながらぼそぼそ呟くのを聞いた先輩は「そんなこと言ってたね」と片眉をくいと上げ、ピノコに話の続きを促した。


「この世界でアングロサクソンが一番信用ならんですが、アングロサクソンと同盟組んでるときの日本はある意味調()()()()()んです」

「じゃあ今の日本はある意味、調子がよろしくない、というわけですね」

「歴史を顧みると、です。ソ連やドイツと仲良くした国はみな不幸になってます」

「なるほど。総理の断行した日米同盟破棄は浅慮であったと?」

「PhDをいくつ持っているかもわからない天才科学者に具申する気は毛頭ありませんが」


 総理はイケメンなので、許します。

 ピノコが茶碗蒸しの銀杏を口に含んでにんまりと笑った。「結論、そこに行き着くわけですね」と先輩が苦笑する。


「確かに、ピノコさんのように、その国の物語(ナラティヴ)を理解するために、文学を学ぶのは正鵠を射ていると思います。国際政治にしろ外交にしろ、相手がいることですから。我々が見せられているのは、果たしてHistoryなのか、His Storyなのかを見極めることが必要になってくる。彼らはどこから来たのか、どこに向かおうとしているのか。そのアイデンティティをまず知っていなければならない」


 だから、文学って大事なんだよね。

 先輩が茶碗蒸しの蓋を開けて具を小匙で掬い、ふうふうと冷ましながらそれを口に含んだ。


「私もそう思います。それなのに、昨今、文系学問は予算が削りに削られてしまい。文科省はいったい何を考えているんですかね。なぜ、文学部は軽んじられるのでしょうか。高校生は、なぜ法学部とか経済学部とかを選ぶんでしょうか。その中でも卒論を課せられなかった人たちに限って、卒業後、何を勉強したか答えられなかったりするんです。これは偏見ですけど」

「ある意味で、外界に対して彼らは素直なんですよ」

「天邪鬼ですみませんね」

「まあ世界なんて、人が右を向いているなかで左を向いた人たちが変えてきたんでしょうから」


 つまんないでしょう。実学ばっかりの世界も。

 猫舌なのか、椎茸を頬張った先輩が「あっつ」と声を漏らした。


「今は昔、MI6がオックスブリッジで人文科学系の学生のみスカウトしていたように。スパイに必要なのは一に教養、二に語学だったわけです。つまりは人間理解ですよね。異なる文化や宗教観をもっている人間にどう立ち向かっていくかという。日本でリベラルアーツがサイエンスより軽視される理由は、まだ小さな列島内で隣り合う異文化を相手に切羽詰まっていないからでしょう」

「大学生のとき、実学を専攻した高校時代の友人には素朴な疑問をぶつけられました。『法律とか経済とかならまだしも、文学って、何を研究するの』って」

「それは、ちょっと寂しいですね」


 先輩が眉を下げて微笑む。あのとき、友人に尋ねられて生まれた感情の名前がわからなかったけれど、先輩の言った「寂しい」という言葉がストンとピノコの胸の奥に落ちた気がした。


「私は、そのとき、何も答えることができませんでした」


 高校三年生の理系クラスでたった一人、文系学部に進んだ人間が珍しかったのか、工学部に在籍する彼は首を素直に傾げていた。「……私も、まだよくわかんないや」とそのときは笑って誤魔化し、生じたモヤモヤを解消するため、あとで日記に綴ることしかできなかった。

 戦時中、真っ先に予算を削られるのは娯楽と文学だ。innovation――人類の役に立つ発明。未来はよりよくあるように。きっとこれからも科学は指数関数的に発展していくことでしょう――「文学とかよりは、マシな研究をしてると思います」――そう、直接的にのたまった神経科学者もいた。共通科目の講義だった。それに対して、「あの先生、実験動物のカエルと結婚したんだって」などと生徒から言われているあなたには、文学部の先生も言われたくないだろうな、とピノコは教室の片隅で思っていた。

 すべてが右肩上がりに発展していくと信じられていた十八世紀。その後、科学の掲げてきた幻想を二世紀のあいだで容赦なく打ち砕かれ、そこから人類は様々な挫折を経験し、学んだのか。あるいは、再び同じことを繰り返すのか。「文学など学んでも意味がない」とヒトラーのように本を焼くのか。だが寂しいことに、二十一世紀の世界でも、文学を専攻する人間は肩身の狭い思いをしている気がする。

 人は、この世界に生きている限り、物語から逃れられないのだということを、往々にして忘れがちだ。例えば「世界は、腐っている」という一文だけでも、シンプルな物語と言えるのだ。しかし免疫のない状態で物語を開くと、容易に流されてしまう。()()、してしまう。自分の頭で思考することを止めてしまう。そこでこんなふうにも言える。

 ――あなたが今もっている物語は、()()()あなたの物語だろうか? 他人からの受け売りではないか? ()()、とはいったい何か? そこに己の意志は在るか? その意志さえも誰かによって、外部からもたらされたものではないか?

 日常生活を送るなかで、一瞬立ち止まり、その何かを気づかせてくれるのが文学なのだ。

 物語と物語は繋がっている。文学作品の数だけ世界を知ることができる。文学は逃避や慰めにもなるが、現実に戻るヒントにもなる。

 だから、文学って面白いんだよ。

 そうやって、あのとき言えたらよかったのだけど。


「……昔の旧制中学生や高校生に比べ、そもそも今の学生はテクストを読む力が薄れているのではないかと思うんです。情緒もへったくれもないですが、彼らは名作映画も倍速で見ちゃうくらいなので、行間を読む、などはもってのほかでしょう。ただのたとえですが、ジョイスの『ユリシーズ』を読めたと答えられる大学生が今の時代どれほどいるかという話です」

「『ユリシーズだって? ああ、僕はその英訳版が出るのを心待ちにしてるんだ』と語ったネイティヴの英文学者がいるって話は聞いたことあるな」

「それは面白いですね」


 ピノコが手を叩いて、目を輝かせる。英語で書かれた小説であるのに、英文学者が匙を投げるほど、難解でとっつきにくい文章ということだ。「面白い話は出尽くした」といわれる今日、今年で出版百九年を迎えた『ユリシーズ』のように、百年後も息をし続けている小説が、いったいどれほどあるというのだろう。今の若者たちは、一四〇字かそこらの投稿を読むので日々精いっぱいなのだ。新聞記事は見出しで判断し、数多く拡散されたものが世の中でも賛同されていると錯覚する。台詞と台詞の間の描写――ディスクリプションを読むのに慣れていない。NinTube(ニンチューブ)からのテリング――語りと視覚情報に毎日翻弄されている。語りは、()()である。と気づくことを学ぶ場が、大学なのではなかったのか。


「最近の子どもたちは本を読まないどころか漫画も読まないと聞きます。そしてNikJok(ニックジョック)なんかの短い動画で今の今を微かに分かった積もりになる。それなのに、こぞってオーソリティは批判するんです。既存のメディアを敵視する。記者さんたちは非常に優秀ですよ。確かに教養のない人も中にはいますし、卑怯な商売をしてるなぁと思うときはありますが。それでも弊社の職員なんて目じゃないくらいスクープ取ってますし」

「うん。まったく歯が立たないよね」

「ここだけの話ですが、この前、某放送局の記者さんからスカウトされてしまいました。『あなたは面白い。国家のためにウチに来たほうがいい!』って。オジサンにおもしれー女呼ばわりされても全然嬉しくないですが、お給料はあちらのほうが断然いいんでぶっちゃけ心揺れてしまいました」

「ピノコさんはこんな国家のために働かずに、国家を立ち上げたほうがいいよ」

「何を仰いますか。それなら先輩が立ち上げてくださいよ。喜んでついていきますから」

「俺には到底無理な芸当です」


 先輩が「ムリムリ」と笑って(かぶり)を振ってみせる。「能ある鷹は爪隠す」を地でいく先輩は、自身の能力を周囲にまったくひけらかさない。この組織で先輩ほどの能力と語学力を有する人材をピノコは知らなかった。だのに年功序列がどうのそうので、若手は面白い情報収集や分析の仕事に従事できず、できても一年やそこらで異動となってドブさらい総務に回されている。彼のような人を有効活用できない堅物組織に未来はない。適材が適所にいないのは組織の損失ではないか。


「……先輩は将来をどうお考えですか? あと三十年近く公務員でいらっしゃる気はありますか?」

「まさか。組織は個人を守ってくれませんから。ですが、総理のおかげで公務員の定年延長が廃案になったのはよかったよね。七十まで延長するという人事院の意見申出を見たときは何をトチ狂ったかと思いましたから。これ以上、年寄りが若者のポストを埋めてどうするんだという話です」

「逆に経験者採用が全省庁的に始まって、採用現場が活性化しましたよね」


 若手よりも給料を二倍近くもらっている使えん補佐どもは一向に辞めず、若手はそんな補佐を見て離職するという悪循環。そんな中で定年延長なんていったい何の地獄かという話だ。弊社の人口ピラミッドは、第二次世界大戦後の日本、文化大革命後の中国のように年寄りと新卒はたくさん、その間の捨て駒世代は容赦なく組織を離れていくため、ギネスに載ったコルセットのくびれのようにゲッソリと中心が痩せている。まるでルビンの壺だ。

 山井平松総理は、巷の噂ではマキャベリアンのニヒリストと聞くが、科学者に似つかわしく典型的な合理主義者だ。残業の温床だった国会待機制度を抜本的に見直し、オンライン議員レクやリモート国会を早々から導入した。総理就任以降、伝統という皮を被った無駄だらけの慣例をことごとく引き千切ってくれている。正に若者の救世主であった。


「――将来ねえ。そうだな。〈アルテ〉でマスターの後でも継ごうかな」

「てっきり東京は離れられるのかと」

「それもいいですね。カードはまだありますから」


 ニッと先輩が口の端を上げて笑う。〈アルテ〉とは、彼が懇意にしている喫茶店のことだ。また、コーヒーマイスターでもある先輩の淹れるコーヒーはピノコの楽しみの一つでもある。「喫茶〈アルテ〉永田町支店、本日営業のお知らせ」のメールとともにピノコのデスクまでコーヒーをデリバリーしてくれるのは至れり尽くせりだった。

 ……先輩は置かれた場所で咲ける人だからなあ。

 ピノコは「楽しみですねえ」と相好を崩しながら最後の一掬いを口に運び、茶碗と小匙を茶托に置いた。ジャケットのポケットからペンホを取り出し、ボタンをカチッと押して画面を開く。するとメッセージが何通か届いていた。


「あ、(デュース)さんからお誘いがあったの今気づきました。『飲みに来ない?』って」

「Dさんお元気ですかね」

「元気そうですよ、ほら」


 メッセージと一緒に送られてきた写真を先輩に見せる。そこにはDと二人の同僚が頬を赤らめた様子で写っていた。撮影者を含め、四人ほどで軽快に飲んでいるようだ。ピノコが『今、Aさんと飲んでます』というメッセージをDに送ると、すぐさま返信があった。


「『きゃーやらし! 不倫!』って言われました」

「倫理の話しかしておりません。とお返しください」


 それは本当にそうだ。あまりにも仲が良く見えるので、ピノコはAの愛人といわれているらしい。こんな会話のどこに色気があるというのか。色気のイの字すらないと断言できる。


「Dさん、同棲していた彼女とは別れて、また新しい恋人ができたそうですね。(トレイ)さんも一時は婚約破棄になったけど、ヨリを戻したとか」

「それって私が聞いてもよろしいんですか?」

「いいですよ。あの人たちの恋愛事情は機密性1だからね」

「もはや公開情報じゃないですか」


 ピノコが梅酒をカランコロンと揺らしながら笑う。諸先輩方が新宿や銀座を飛び回って遊んでいた話は後輩にも語り継がれている。とある場末の風俗店の前でDとTが殴り合いになり、どちらかの腕時計が大破したとか何とか。目の前に座るAですら、始発を待って花園神社で夜を明かしたこともあるという。


「……いいなあ」


 好きだの嫌いだの。恋だの愛だの。他者にそこまで関心を持てるのが何とも羨ましい限りだ。


「私も、恋がしたいです」


 ポツリ、と呟いて、ピノコが梅酒をちびちびと口に含む。 


「――申し訳ありません。すべては男が劣化していることが原因です」

「いえいえそんな。先輩が謝られることでは」

「男子を代表してお詫び申し上げます」 


 先輩が慇懃に頭を下げる。真っ先に形のいいつむじが目に入った。 


「ピノコさんは十分魅力的な女性です」


 面を上げた先輩が「自信をもって」とでも言うように、力強く頷いてみせた。


「どうか、大恋愛をしてください」









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