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カーテン・コール





 二〇二九年七月 永田町


 永田町。ここは日本の中枢。国会議事堂前駅からピノコが足を踏み出し、官庁訪問の会場に向かっていると、官邸の周りはやけに警察官がうじゃうじゃ蔓延っているのが目についた。あれは何ですか、護送車ですか? 彼らとは極力目を合わせないように歩きながらも、じろりと歩行者を隈なく注視しているのがピノコはわかった。就活生特有のリクルートスーツを彼女が身に着けていたからか、それ以上の追及はなかったものの、信号を待っていた見知らぬおじさんは「どちらに向かいますか」と尋ねられていた。

 この永田町には様々な陰謀が張り巡らされ、人は、《『自由』とか『名誉』とか『至福』というような偉大なる言葉をはめ込むのにぴったりの穴を見つけることに夢中》[1] になっているとされるが、実態はどうかわからない。表に出て報道されているのは、どうせ誰かの作った物語にすぎないのだろう。詮ずる所、自分が見聞きしたもの以外、すべては虚構なのだ。いや、もしかすれば事実(ファクト)とされるそれさえも、虚構なのかもしれない。


「日埜さん。控室に案内しますのでこちらにどうぞ」

「は、はい!」


 ピノコがエレベーターホールで待っていると、ピッという解錠音とともにドアが開き、一人の男が姿を現した。彼は、彼女が業務説明会に参加した際、若手のエースとして紹介されていた人物だった。おそらく今年で四年目になるとかならないとか。男が昇降スイッチを押し、エレベーターの到着を二人で待つ。その間、沈黙を打ち消すように彼が口を開いた。


「この庁舎、わかりづらくてすみません。毎年何人か間違う人がいるんです」

「いえそんな! 私がしっかり確かめていなかったから……。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした……」


 ピノコが深々と頭を下げると、「心配しないでください。ウチの組織、時間に緩い人間ばかりなんで」と彼は受験生の遅刻を少しも気にしていない様子で、にこりと笑った。

 ピノコは、官庁訪問初日から盛大にやらかした。あ、落ちた、と思った。受験生が、決められた時間に、決められた場所に現れない。そんなこと、あってはならない事態だった。

 何度も、それこそ何度も、前日に確認したつもりだった。

 ピノコは集合時間の十分前にはその場に到着していた。何なら三十分前には着いていたから、ロビーで時間をつぶして新聞記事や時事をペンホで追ったりしていた。よし、準備万端。いつでもかかってこい! そんなことを思いながら待っていたが、待てど暮らせど、人が現れないことにピノコは怪訝を抱き始めた。さすがにおかしいなと感じたのは十五時を五分ほど過ぎた頃。おそるおそるホームページに公開されている採用担当の番号に彼女は電話をかけた。


『はい。国家情報庁です』

「あ、あの、恐れ入ります、わたくし、本日、官庁訪問を十五時から予約しております、日埜と申します。……えっと、今、集合場所のエレベーターホールにいるはずなのですが、どなたの姿も見えなくて」

『……あー、たぶんそれ、隣の8号館ですね』

「へ」


 ――なんですと?

 一切の思考が、停止した。ひゅっと血の気が引く。(はた)から見たら顔面蒼白だったに違いない。


『新庁舎のほうに来られますか?』

「は、はい! すぐに向かいます! 申し訳ございませんッ!」

『いえ、大丈夫ですよ。焦らずお越しくださいね』


 そんな優しいことを言われても、悠長になどしていられなかった。そもそも8号館のことを新庁舎と勘違いしていたというわけだ。なかなか来ないエレベーターに見切りをつけて方向転換し、義足の天敵たる階段をやむなく使って下りていく。ピノコが新庁舎に到着したときはもう、彼女の背には大汗が伝っていた。

 エレベーターを降り、男の後を追う形で控室へと通され、訪問カードなるものを書くよう指示される。そこで電話番をしていた女性の職員が美しすぎて、ピノコは一瞬目を奪われた。狭い控室に、彼女のかぐわしい匂いが満ちている。なんて幸せな空間なんだ。


「さて、いくつか質問させていただきます。リラックスしてお答えください」


 ピノコがカードを書き終えると、既に複数の面接が行われている会議室に通された。面談はマンツーマンで行われているようだ。最初の面接官は、ここまで送り届けてくれたあの男だった。面接は基本的に訪問カードの内容に沿って進められた。志望動機、趣味、特技、バイト、資格、自分の専攻、修論等々。民間企業の面接でもどこでも普通に訊かれそうな、当たり障りのない質問だった。


「どうしてウチを志望されたんですか?」

「はい。世界情勢が瞬く間に変化していくなかで、情報の重要性というのは近年ますます増大していると思います。そこで、日本にもインテリジェンス・コミュニティという情報ネットワークがあることを知り、自分も我が国の安全保障に直接貢献できる場で働いてみたいと強く思い、志望しました」


(まあ、実はもう、民間のスパイなんです。なんて、言えるわけないよね)


 自分でもびっくりするほどつらつらと言葉が出てくる。まったくの嘘ではないことが肝だ。何もすべて正直に話すことが至高ではない。面接官の彼は、「なるほど」と頷き、革製のバインダーで挟んだ訪問カードに視線を落とした。


「なぜ、英文学を専攻しようと思ったんですか?」

「えっと……、まず、敵を知らねば、と思いまして」


 答えた瞬間、「ん?」と彼が首を傾げる。「あ、というのは冗談で」とピノコは急いで付け加えた。


「高校生のときに、シェイクスピアの言葉のとりこになったんです」


 敵を知らねばというのは所詮、後付けの理由だ。かつて七つの海を支配したアングロサクソンを理解するには彼らが誇りとするものを学ぶのが一番手っ取り早い。同盟国にしろ、敵国にせよ、彼らと対峙するならば、その土地の言語のみならず文化、伝統、文学、歴史を学ぶのはもはや必須ではなかろうか。無論、シェイクスピアの言の葉の海にピノコが溺れたのは事実だ。初めて彼の言葉に出逢ったときの衝撃は、おそらく生涯忘れないだろう。当時の日記にもそのときの衝動が事細かに綴ってあった。


「修士論文もシェイクスピアを取り上げようと思っているのだとか。何について書くつもりですか?」

「『リア王』です。リアの道化について書こうと思います」

「詳しく説明していただいても?」

「はい。リア王には名もなき道化が登場するのですが、その道化は劇の途中で誰にも、何も告げず退場するんです。その劇的効用、と言いますか、『リア王』における道化の役割について分析したいと思います。また、〈王の隣に道化あり〉といわれるように、王と道化は、しばし互いが互いの分身として描かれます。台詞の中から見出せる彼らの関係性についても論じたいと思います」

「ありがとうございます。よくわかりました」


 カチ、とボールペンが鳴り、彼がバインダーに何かを書き込んでいく。

 そこから、訪問カードには記述されていない、彼の個人的な質問のターンに入った。


「最近読んだ本で心に残ったのは?」

「……『すばらしい新世界』、でしょうか」

「へえ。どんなところが印象的でした?」


 彼はそのタイトルを聞いて、少し驚いたようだった。無難に今年の本屋大賞でも言えばよかっただろうかと思いながら、ピノコが本の感想を述べる。一九三二年に出版されたとは到底思えないほど前衛的で諷刺の効いた小説だった。


「Brave New Worldという、タイトルからして秀逸だと思います。〝人間らしさ〟とは何か? という根本的な問いが、シェイクスピア劇の台詞を何度も引用する登場人物の語りを通して投げかけられているのではないかと思いました」

「なるほど。……それでは、あなたが思う、〝人間らしさ〟とは、何ですか?」


 問われて、ピノコは言葉に詰まった。答えが思いつかなかったのではない。その問いに答えることをほんの一瞬だけ、躊躇ったのだ。


「……作中から感じたのは、人は、『ロミオとジュリエット』のように、自死を選択できるということです」


 例えば、人間以外の他の動物で、希死念慮に苛まれるものがいるだろうか。『すばらしい新世界』において、禁書に指定されたシェイクスピアの言葉で育ち、最後は自分がよく引用していた『ロミオとジュリエット』のように自死で最期を迎える野蛮人は、人間だからこそ自分に手をかけられた。現代人のように、心を病んで、最後には狂い、自殺を選んだのだ。


「つまり、人は、死から逃れられぬ一方で、死を自らの手で選択することもできる、と」

「は、い」


 さらさら、とバインダーの上の手が動いて字が書き込まれていく。いったい、何を書き留められているのだろう。後で評価されようにも「ちょっと、いや、けっこう、変わってる奴」とでも烙印を押されそうなことしか言えていない気がする。


「他に読んだ本はありますか?」

「あとは、……ボルヘスの『伝奇集(フィクションズ)』に今ハマってます」

「バベルの図書館、とか?」

「そうです!」


 ピノコは思わず前のめりになって食いついてしまった。まさかここで、「バベルの図書館」という短編のタイトルが聞けるとは思わなかったからだ。


「一九五六×十の一八三四〇九七乗ですよね」


 ひときゅうごろくかける、じゅうのひとはちさんよんまるきゅうななじょう


 一瞬、何を言われているのかわからなかったけれど、理解した瞬間、「……あ!」とピノコは声を上げた。


「この世界には二十五文字の、あらゆる組み合わせの本が存在する。一冊あたり八十文字×(かけ)四十行×(かけ)四百十頁(イコール)百三十一万二千文字が印字されているとすれば、蔵書は二十五の百三十一万二千乗冊になる。この世界というか、バベルの図書館にあるとされている、本の数ですね」

「永遠を超えた図書館……。一度でいいから入ってみたいものです!」

「日埜さんは迷子になって帰ってこれなさそうですけどね」

「え」


 ピノコは、たった今、無限に広がる図書館の夢で膨らんだ妄想という名の風船が、パンッと自分の中で無情に破裂したような気がした。


「この、〈最後に一言〉で、『駅で迷わなくなりました』って書いてますし」

「それは! その、何を書けばいいかわからなくて、控室にいた方に『何でもいいよ!』と言われたので……深く考えず……思ったことをそのまま書いてしまいました」


 何でも書いていいと言われたから、どうでもいいことを書いたけれど、他の受験生のカードがちらりと見えたとき、ピノコは唖然とした。「高校生の頃から内閣情報局……NIIAに入るのが夢でした。僕がNIIAを変えてみせます!」「サイバー義勇兵として最前線で戦ってきた経験を活かしたいです」「内閣を情報の面から支える皆様の一助になります!」等々――ヒトコトとは、いったい? 既にやる気と熱量の差で負けたと感じた。


「まあ、そもそもウチは〈やる気〉じゃ採らないんで安心してください。高邁な理想や信念を掲げられても現実を見て後がつらいだけなので。この一言は適度に目を引いていいんじゃないですか? やけにテンションが高いものを除けば『がんばります』とか『よろしくお願いします』とか、そんな常套句で欄を埋める人が大半ですから」


「……残念ながら、そのような方に何か光るものがあるかと言われたら、あまりないのも現実です」と、彼は初めて、採用の実情をピノコに語った。


「――今までは、どんなお仕事をされてきたんですか?」

「私ですか? 大したことはしていませんよ。若手は最初、ほぼ総務に配属されて、組織の手足となってあくせく働くのが修行とのことですので。トップの目となり耳となるのは、もっと年次を重ね、知見を広げた者たちです」


 はあ、と彼はその双肩に溜まった疲れを吐き出すように息をついた。


「ですが国家機密を扱うには相違ないので、そこは地方公務員とは異なる点でしょうかね」


 腕試しでしょうか。日埜さんも地元の県庁を受けられていますけど。と彼は訪問カードの情報を読み取り、顔を上げた。ピノコは一応、地方自治体の試験も受験していた。理由は彼の言う通り、単なる腕試し、かつ、併願先を虚偽なく答えるためのカムフラージュだった。さすがにNIIAしか志望していないと面接官に伝えるのは悪目立ちするからだ。


「……どうして、このお仕事を選ばれたんですか?」


 彼と目を合わせながら、ぽつり、とピノコが質問を口にする。説明会で彼の話を聞いたときにも思ったが、彼には何か……人としての、熱のようなものが、欠けているようにピノコは感じた。欠けているのではなく、隠しているだけなのかもしれないが、彼は受験生に対しても、一定の距離を保って、淡々と接していた。言葉数が少ないわけでもない。むしろ物腰は柔らかだし、業務説明のときは切れ味の鋭い質問に対しても躊躇なく答えていた様は実に見事だった。ただ、アクリル板越しに話しているような、そんな違和感が拭いきれないのだった。

 彼は「そうですね」と少し考えるように視線を宙に留めた。


「親米保守の欺瞞を暴くため」


「……というのは冗談で」と言って、彼がフッと口の端を上げて笑ってみせる。続けて肩を竦めながら「ただの興味本位ですよ」と過去の自分を想起するように瞼を伏せた。


「――夢は、何ですか?」


 最後、これはどなたにも伺っていることなんですが。と前置きをして、彼がバインダーを閉じた。尋ねられたほうは、心臓が、ドクリと一つ大きな音を立て、固まってしまった。


(……夢?)


 夢って、何なんだろう。いつから人は、将来の夢、をプロフィールに書かなくなるのか。小学校? 中学校? そしていつから人は子どもから大人になるよう諭され、「夢ばかりみていないで、現実をみなさい」と言われるようになるのか。

 夢。夢。夢。まるで過去を走馬燈のように遡って記憶を呼び起こしていると、〝始まりの夢〟が、突如、彼女の中に姿を現した。


「小さい頃から、本を読むのが、好きで。……いつか、自分も、物書きになれたらって」


 半ば操られるように、今しがた胸の中に浮かんだそれをピノコが伝える。そのことで、相手がどんな反応を示すか、考えもしなかった。はっと、我に返って彼女が顔を上げる。彼は、目をぱちりと大きく瞬きさせて、うん、とゆっくり頷いた。


「いいですね」


「いいと思いますよ」それ以上の感想はなく、虚飾で彩った世辞はいらないとでも言うように、彼は、まっすぐ彼女を見ていた。


「……どうか、そのまま。胸に抱いて、生きてくださいね」


 彼が立ち上がって、「次の面接官が来るまで楽にしてお待ちください」と告げる。彼が立つと同時にピノコも腰を上げ、急いで礼を言ったが、彼は一度も振り返らないまま会議室を去っていった。

 ――こんな、荒唐無稽な夢の話をして笑われなかったのなんて、初めてかもしれなかった。

 その後、約三日かけてすべての面談が終了した。もはや、合計で何人と面接したかもわからなかった。多くても五人くらいで終わると思っていたが、一人三十分近く面接するにもかかわらず、二十は優に超えた人間と顔を合わせた気がする。個別面接って、果たしてこんなに回数を重ねるものなのだろうか。そんな疑問を共有できる人もおらず、悶々とピノコがホテルの部屋に帰ったとき、ペンホに電話がかかってきた。曰く、内々定とのことだった。









 二〇二九年十月 永田町


「まずは内定、おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます!」


 内定式で初めて同期とも顔を合わせる。出身地は西に南に東に北に様々だった。全国で二人しか採用枠がないのはマジかと目を疑ったけれど、実際はピノコを含めて四人に内定が出されていた。一人はピノコと同い年。あとの二人は一つ下と二つ下だった。バックグラウンドも多種多様で、田舎者にも皆、気さくに接してくれた。

 内定式のあと、四人は散り散りになった。「日埜さんは私についてきてください」とピノコを呼んだのは、あの男性だった。これから今後についての説明が為されるとのことだが、いったいどこに向かっているのだろう。ここは、地下だろうか。彼の指紋、静紋、虹彩、声紋認証を経て、扉が次々と開き、建物の奥深くへと進んでいった。心なしか肌寒く感じる。カツンカツンと、二人の足音だけが地下道に響いた。しばらくして急に立ち止まられたときは彼の背にぶつかりそうになったけど、何とか直前に回避して「あ、あの……?」とピノコは後ろから声をかけた。そのときだった。彼の前方で分厚い扉が開き、明かりが一斉に灯った。あまりの眩しさに、束の間、彼女は目を開くことができなかった。ようやくその明度に慣れたとき、視界の先に現れたのは、広い空間だった。中央にはドーナツ状の大きな机が設置されている。まるで何かのサミット会場みたいだ。


「さて、今から皆に紹介します」


 どうぞ、と出口に一番近い末席に座るよう促され、何の疑問を抱く余裕もなくストンとピノコが腰を下ろす。彼はその向かい、ちょうどここから円の直径に位置する上座に腰かけた。


「グラスを着けてください」

「え?」


 場所が離れていたせいか、彼が何と言ったかピノコはよく聞き取れなかった。目の前の机が突然パカッと開き、中からスポーツサングラスのようなものが出てくる。スリム化されたVRグラスのようだ。彼女が正面を見ると、彼は既にそれを装着していた。

 自分も急がねばと思い、ピノコがグラスのツルを両手で持ち上げ、おそるおそるかける。


「……ひ、ひぃっ」


 グラスをかけた瞬間、円卓の周囲に、ぼうっと白い仮面が浮かび上がり、ピノコは思わず悲鳴を上げた。喜劇(コメディ)マスクと悲劇(トラジェディ)マスクが交互に気味悪く並び、皆じっと彼女を見ている。


『Welcome to The Library of Bebel!』

『半年後にまた会えるといいですね』

『〝フール〟、自分の後を継がせる気なんですか?』

『その前に俺が貴様を蹴落とすからな』

『寝言は寝て言えよ〝マクベス〟。貴様は彼奴の足元にも及ばんぞ』

『あ? もういっぺん言ってみろやこn』


 そこで、ブツッと回線が途切れた。いや、途切れたのではなく、彼が意図的に切ったらしい。


「内定式は以上です」


 嘘でしょ。

 情報過多すぎて、頭の許容量を完全にオーバーしていた。暗闇の中、仮面が、ふよふよ動いて、喋っていた? あれはいったい、誰だったんだ? これが、普通の内定式なのだろうか。内定式なんて初めてだから何がスタンダードなのかもわからないけれど、絶対にこれが世間の普通でないことだけはピノコも理解した。


「さて、これにサインをお願いします」


 いつの間にか彼が隣に立っていた。グラスをかけたままであったため、声をかけられるまで気配を察知できず、ビクッとピノコの肩が跳ねる。


「内定を辞退されるならば今ですよ」


 ピノコがグラスを外した途端、彼女の目に飛び込んできたのは、机上に置かれた〈誓約書〉なるものだった。


「第一に。――組織は、個人を守ってはくれません。現行制度は簡単には変わりません。組織の膿は溜まり、優秀な人材は逃げる一方です。使えんジジイどもは変革を恐れ、かといって自身の能力向上にも努めません。現状維持が関の山です」


「まあ、そこで、私たちのような人間が搔き集められたわけですが」まるで溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すように、得も言われぬ倦怠感を言葉尻に含ませて、彼は今後の説明を続けた。


「日埜さんの配属先は、表向きには総務とさせていただきますが、実際は私と同じ、〝特命班〟に入ってもらいます。これからの半年は、ある意味、試験期間です。それに最終合格できた者だけが採用されます。本採用はそのまた半年後です。いわば、今日は終わりでなく、始まりの日ということになりますね」


 誓約書の次に見せられたのは、今後の予定を記した一覧表だった。これから取得すべき資格。頭に入れる情報。推薦図書。必須免許一覧に、なぜか「大特」があって、はてなマークがピノコの頭の中を乱舞した。あ、あのぅと、おずおず彼女が手を挙げる。


「しゅ、修論を書かなければいけないのですが……」

「どうぞ、それはそれで思う存分書かれてください」


 鬼かよ。

 ピノコが茫然としていると、彼は少し同情するように、はあと溜め息をついた。


「もう一度言います。引き返すならば今のうちですよ。この仕事は、地味で、ひたすら地味で、誰からも評価されません。むしろ世間には目の敵にされ、悪の組織として奉られます。『何をやっているのかよくわからない』、『不透明』で『陰謀』にまみれた、巨大で矮小な虚構の中を生きねばならない組織です。——La biblioteca es ilimitada y periódica.」


「正に、ここは、バベルの図書館なわけです」この空間全体を見渡しながら彼が言った。

 ペンを手に持ち、誓約書を前にして、ピノコが動きを止める。「永遠の旅人に、ならなければ、いけないわけですか」と彼女が小さく呟けば、彼は、「ええ。そういうことです」と笑って頷いた。確かに、この空間の壁は、バベルの図書館のように六角形の形をしていた。


「……ああ、そういえば。まだ、名乗っていませんでしたね」


 淡々とした声が頭上に降りかかり、彼女の背すじにぞわりとした悪寒が走る。おそるおそる隣を見上げると、人畜無害そうな笑みを浮かべた彼が、首から提げていた複数のIDのうち、一つを選んで掲げながら名乗った。


「申し遅れました。日埜、悠です」


「官邸の兎穴(ラビットホール)へようこそ。〝アリス〟」と彼が右手を差し伸べてきた。ピノコは何も考えられないまま、ふらりと立ち上がり、操られるようにその手を両手で握った。思いのほか、彼から人の温かさを感じたことに驚きを禁じ得なかった。

 なんてこった。

 その、暗号名(コードネーム)が知られているということは、彼はOSSのエージェント、ということだ。

 そういえば、自分はまだ、彼の名前も知らなかったのか。

 いや、でも、そんなことは、もはや、どうでもよくて。


「ほ、本名、ですか……っ?」


 彼のIDに印字された姓名を食い入るように見ながら、ピノコは思わず、自分の中で咀嚼する前に、声に、出した。彼女の突飛な質問に、彼が一瞬、目を見開く。そして、何かが彼のツボに入ったのか、くっと喉を鳴らし、少し溜めたあとに、ふはっと、爽やかに、笑った。


「さあ、どうでしょう」









La biblioteca es ilimitada y periódica. Si un eterno viajero la atravesara en cualquier dirección, comprobaría al cabo de los siglos que los mismos volúmenes se repiten en el mismo desorden (que, repetido, sería un orden: el Orden). Mi soledad se alegra con esa elegante Esperanza. [2]


図書館は無限であり周期的である。どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、おなじ書物がおなじ無秩序でくり返し現れることを確認するだろう(くり返されれば、無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ)。この粋な希望のおかげで、わたしの孤独も華やぐのである。[3]










[1] J・M・クッツェー、本橋哲也訳(一九九二年)『敵あるいはフォー』白水社、Ⅲ

[2] Borges, J. L. "La Biblioteca de Babel" (1941), Ficciones. New York: Vintage Español, 2012.

[3] J・L・ボルヘス、鼓直訳(一九九三年)『伝奇集』、岩波文庫、「バベルの図書館」

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