第五幕第四場
二〇三一年八月 赤坂
「シェイクスピア喜劇のエピローグは『夏の夜の夢』派だったんですが、やはり最近、『テンペスト』も捨てがたいなと思ってきました」
「As you from crimes would pardon'd be, Let your indulgence set me free.《皆様も罪の赦しを請われるからは ご寛容をもってどうかこの身を自由に。》[1] だっけ?」
「Yea, all which it inherit, shall dissolve,
And, like this insubstantial pageant faded, Leave not a rack behind.
《この地上のありとあらゆるものはやがて融け去り、
あの実体のない仮面劇がはかなく消えていったように、あとにはひとすじの雲ものこらない。》[2]」
「We are such stuff
As dreams are made on; and our little life
Is rounded with a sleep.
《我々は
夢と同じ糸で織り上げられている、ささやかな一生を
しめくくるのは眠りなのだ。》」
「とってもいい人生の終わり方ですよねえほんと。溺死でも焼死でも事故死でもなく、私も死ぬときは畳の上で眠るように死にたいものです」
ピノコが、梅酒ロックを呷り、ぷはぁと息をつく。
劇作家はこの喜劇を最後に筆を置き、魔術師とともに、自由になることを求めた。劇の主題は、復讐から赦しへ。束縛から解放へ。物語の円環は、閉じられたのだ。裏切り、憎しみ、復讐心――そのすべてを赦しにかえて。彼は、自身もこの仮面劇から解放されることを、願った。
「……彼は、どんな思いで最後、己が魔法の杖を折ったんでしょう」
「日本人は判官贔屓だから貴種流離譚に弱いよね」
「いかにも私は雑種なので高貴なものに憧れてしまいます」
お姫様って憧れますよねえ。と、うっとりしながらピノコがこぼすと、何かおかしかったのか先輩は片眉をくいと上げてみせた。
「先輩も、ご自身の杖を、いつか折られるんですか?」
四月ぶりに来たこの店は、既にメニューが夏仕様に変わっていた。コース料理のシメに出されたのは素麺だった。先輩に尋ねたあと、ちゅるん、とピノコが麺を啜る。
当時シェイクスピアは、みなが右を向いたなかで左を向いた人だったのだろう。古典演劇には〈三一致の法則〉というものがある。一、一日の出来事であること。一、設定した場所から動かないこと。一、筋道が一つであること。の三つだ。しかし、シェイクスピアはそんな法則をまったく守らなかった。守って書かれた劇は、最後の『テンペスト』と初期の『間違いの喜劇』のみだったというのは面白い。
「……〝プロスペロー〟が自由になれば、この罪は赦されるのかな」
「え?」
「それはそうと、ピノコさんにようやく春が来たようで喜ばしい限りです。新参との件、早速ウワサになってますよ」
「完全に面白がってますよね?」
「はい」
笑いを堪えきれないのか、ぷるぷると頬を震わせながら先輩が目を細めた。ピノコは先月より、とある新人に猛アプローチを受けている。新人といっても、年齢はピノコより五つ上で、能力も語学力も優に上。こちらが教えることなんて何もない。しかもある程度予想はしていたがOSSの幹部というではないか。自分の嗅覚を信じてよかったのだ。まさか官庁訪問まで申し込んで真正面から乗り込んでくるとは更々思わなかったが。
「……先輩、憶えてますか? 私が官庁訪問に来たときのこと」
「ええ。もちろんです」
「懐かしいですね。もう二年前ですか」
時が経つことのなんと早いことか。ピノコは二年前、リクルートスーツに身を包んで官邸前の庁舎に足を運んだ日々のことを思い出した。
「まあ、我々のような信頼できない語り手がいとも容易く紛れ込んでいる時点で、お察しな国ですよ。こんな国に命までは懸けられませんから」
「本当にそうです」
あはは。うふふ。とわざとらしく笑い合う。
OSSは各国情報機関にエージェントを派遣している。政府職員として生活する以上、OSSでの目立った報酬は表向きになくなるゆえ、あまり人気の任務でもないが、そのエージェントどうしで作られたコミュニティの名は〝バベルの図書館〟という。エージェントは派遣されるまで、その機関にどのエージェントが敵ないしは味方として潜んでいるのかわからない。NIIAにもOSSのエージェント――先輩が既に配置されていて、彼のOSSでの暗号名が〝フール〟だとピノコが知ったのは、内定式でのことだった。
――本日天気晴朗なれども浪高し。
水面下。今日も今日とて、スパイは笑顔で騙り合う。
[1] シェイクスピア、松岡和子訳(二〇〇〇年)『テンペスト』、ちくま文庫、エピローグ
[2] 同上、第四幕第一場




